狂聡狂ログ① / 狂聡狂

20220110

  • あさやけに告げる……表紙について。
  • nothing……2.5話について。
  • ある12月25日……クリスマス。
  • あさやけに告げる

     このひとこんなに行儀悪かったっけな。聡実は向かいに座る男を眺め、考える。席に戻って少々経つが、一向に気付く気配がない。聡実は観察しながら、ピザトーストに手を伸ばした。食べ方きたな。カレー落ちてるし。肘ついてるし。スマホ観ながらメシ食うなってオカンに……言われんか。狂児さん若い頃スマホないもんな。そんで画面遠。老眼の距離やん。狂児さんって老眼なん。じじいや。そういう歳なん。なにをそんなにスマホ凝視しとんねん。男について知らないことや想像が、くるくると頭を巡る。
     お互い夜勤明けの朝、朝食を食べ始めて間もなく、聡実のスマートフォンが着信を知らせた。バイト先の店長からだった。ふだんのやり取りはショートメッセージを使っていて、採用の連絡ですらメールだったひとだ。電話がかかってきたのははじめてで、心臓が嫌な音を立てた。なにかを大事をしでかしてしまったろうか。狂児に断り、慌てて席を立ち応じると、イヤホンケースが落ちていたという報告だった。たまたま朝はやく目が覚め、店に寄ったところ、バックヤードで見つけたらしい。聡実のロッカーの前に落ちていたので、持ち主に当たりをつけて電話してきたらしい。昨今の若い子はイヤホンないとって子もいるらしいし岡くん困ってたらいけないと思って、と申し訳なさそうに告げる店長に、胸を撫で下ろしながら礼を言い、ロッカーに入れておいてもらうよう頼んだ。
     まったく気付かなかった。床に落ちたならそれなりの音がしそうだが、いかんせんものすごく慌てていた。ぜんぶこの男のせいだ。成田狂児のせい。あんなタイミングで、あんなことを送ってくるからだ。
     バイトを終えて私服に着替えながら覗いたスマートフォン、途端に滑り込んできた一言のメッセージ。まるで聡実が制服のボタンに指をかけるのを、リアルタイムで観察していたかのようだった。通知のポップアップだけで読みきれてしまう短い一文。ーー今日のデート、前倒していまから会わへん?
    「狂児さん、肘」
     昔散々言われたなあ。懐かしみながら口にすると、びくっと肩を揺らして狂児がこちらを見た。カレーは一粒また垂れた。じっとスプーンを見ていると、気付いた狂児が「アッ」と声を上げて口に入れ、汚したテーブルをティッシュとお手拭きで拭いた。
    「みっともないとこ見られてもうた。いつ戻ってたん」
    「ちょっと前。狂児さんぜんぜん気付けへんもん」
    「大変失礼しました」
     軽く頭を下げる真似をして、スマートフォンは後ろのポケットにしまわれた。狂児は再びカレーを掬い、頬張っている。片方の頬を膨らませて。食事をしている姿は、中学時代にもいくらか見たけれど、頬に食べものを詰めるなんてことはしなかった。均等に、真ん中あたりの上下の歯を使って、咀嚼していた気がする。あれは、そとづらだったのだろうか。
     それに、よくよく見ると、えらくくたびれた格好をしている。髪はほつれているし、ネクタイは結び目が緩んで、シャツもくたくただ。こころなしか、まぶたが重そうに見える。四年前に会っていたときの若々しい雰囲気はまったくないし、空港での姿ともまったく違う。あのときはもっと、皺ひとつないスーツを着込んで、しゃんとしていた。身綺麗だった。目の前の狂児は、汚れてはいないし、同年代ーー歳を知らないがーーと比べたらきれいにしているほうだとは思う。ただ、ハリがない。おっさん。めっちゃおっさんやな。疲れたおっさん。下瞼に皺あるやん。老けたんやなあこのひと。覇気ないし。会ってすぐは気付かなかった。あまり狂児を見られなかった。なにせ今日は空港で再会して以降、二回目の顔合わせだ。
     本来なら聡実は今頃家で仮眠を取っていて、狂児と会うのは午後からの予定だった。ランチと夕飯を、狂児が探してくれた店でご馳走になって、別れる。そういうプランのはずだった。
     昨夜から聡実は気もそぞろで、バイト中もあまり集中できなかった。あの再会の日、東京に着いてほんとうにカラオケには行ったものの、狂児は歌わなかった。指導を求められもしなかった。ただ近況を話して、連絡先を交換しただけだった。あのときも、その再び繋がったLINEで会う約束のやり取りをしているときも、平気な素振りをしていたけれど、ほんとうはとても緊張していた。
     大体、五月のカラオケ大会は既に終わっている。カラオケは今回のプランには入っていない。。カラオケ以外の用事で会うのははじめてだ。なに喋ればいいんやろ。どんな顔して行けばいいん。わからなくて、考えだしたら深くのめり込んでしまい、どんどん脳の占有率が高くなる。あっという間に日は過ぎて当日を迎えてしまい、いよいよ会うてしまうんや、頭の片隅で叫びながら、制服を脱いでいたところに、朝食の誘いをされた。まだこころの準備できてへん! パニックはなんとか諌めてひとまず落ち合ったけれど、緊張のパロメータは振り切れ、ほとんど直視できなかった。
     空港での一件からずっと、聡実は狂児に対して気が抜けない。だってもう自分は、カラオケの先生ではないだろう。少なくとも今日は違う。なら、なんなのだろう。いろんな疑問を言いあぐねている。
     僕と狂児さんって、いま、なんなん。今日のデートってなに。デートなんこれ。なんでわざわざ東京まで会いにくるん。徹夜明け、身なりも整える余裕もないくらい、ちょっと僕が席外しただけでスイッチ切れてまうくらい疲れてんのに、どうして僕に会う時間繰り上げたん。疲れてんのに、そないに僕に会いたかったん。狂児について、言ってくれない彼の感情や、行動の理由を知りたくて、考えて考えて、想像する。都合のいい答えを見つけたくなる。
     それって。
     ……それってな。
     袖に隠されている右腕を一瞥し、聡実はピザトーストをくわえて頬杖をつき、狂児を睨め付ける。視線を勘づいた男は片眉を上げて、「アッ聡実くん行儀悪いで!」と言った。自分やん。と思ったら、「おまえもひとのこと言われへんやんけ、て思てるやろ」と目を眇められた。読心された。ああ、そういえば前もこんなことがあった気がする。
    「あかんわ」
     なにがあかんねん。自分に言い返したいが、漠然と浮かんだぼやきはちからなく掠れていて、自分も大概疲れているのかな、と慮る。そう。疲れている。ほんとうは腹を満たしてとっとと寝てしまいたい。でも、狂児の誘いは、断れるはずがなかった。その理由を、少なくとも聡実はちゃんと見つけている。狂児の発するすべてに、都合よく期待を抱いてしまうくらいには、具体的に。
    「なにが?」
     ちいさなぼやきを拾い、狂児が訊いてくる。聡実が答える。
    「狂児さん。僕、疲れてん」
    「? そうやな。夜勤明けやもんな」
    「うん。せやから一眠りしましょう。徹夜明けは判断鈍るし」
     支離滅裂、文脈がまるでなっていない。理解が追いついていない男が、怪訝に首を傾げている。確かにめちゃくちゃな話の流れだが、自分が教えてくれたんやで。徹夜明けはあかんって。
     僕もあかんと思う。せやから、僕んちでもええし、狂児さんの東京の宿でもええし、一休みしましょう。それから、ちゃんと話がしたい。おじさんになった狂児と、十八歳の成人になった僕のこと。ふたりの、変わったこと、変わらないこと。お互いに対して、知っていること、教えていないこと。

    nothing

     目的地があるらしい。「ほな行こ」と一歩先を行く背中を追いかけながら、狂児は子どもの頃を思いだす。誰かと散歩なんて、いつぶりにしてんのかな。まだ小学校にも上がっていない時分、昔からのんびりとしたマイペースな子どもだったから、せっかちな母に背中を押されたり、早歩きの祖父に手を引かれたりして、実家の近所を散歩した。はよ歩け、置いてくで、と急かされるのは大変だったが、心地よい記憶として脳の奥に残っている。
     中身のがらんどうに反して見た目だけは整っていたので、成長するにつれ、誰もが隣に狂児を置きたがった。プリクラ一緒に撮ってよ、カラオケふたりで抜けへん、服買うたるから付き合うて、友達に会うのに見せたいからついてきて。自分はなにかのステイタス、あるいはアクセサリーで、狂児の気持ちや意思は必要ない。狂児自身、彼女たちになんの感慨も想いもない。顔も名前も思いだせない女だっている。明け方、朝、昼、晩、深夜、彼女たちが一方的に繰りだす会話に付き合って、彼女たちが望むように横に立っていた。一緒に歩いた道の景色なんて、ひとつも覚えていない。もう一度会いたい女も、ひとりもいない。
     聡実は時折スマートフォンで位置を確認して、足を進めている。もう五、六分くらい歩いている気がする。まだまだあるん。これ、横通ってる線路の向こうやったりするんか。せやったらもうタクったほうがええんちゃう。お互い夜勤明けやろ。俺払うで。きっと他の人間が相手なら、すぐさまそう声をかけただろう。聡実は一言も喋らない、一方先を歩いているので表情は見えない。でも、やめない。やめたくない。はやく着きたくない。この時間が、できるだけ長く続くようにしたいとすら考えている。
     しばらく歩いたところで、不意に聡実が足を止めた。着いたのだろうか。周囲を見る限り、それらしい建物は見当たらないが。狂児も同様に歩みをやめて、「どうしたん」と問いかける。振り返った聡実は眉を顰めて、「うるさい」と言った。
    「俺、なんも喋ってへんよ」
    「……視線がうるさい。背中かゆいねん」
     一瞬間をあけて、狂児は「ごめん」と謝った。聡実は眉間の皺をより深くして、また前を向いて移動を始めた。舌打ちでもしそうな険しい顔だった。正解ではなかったのだろう。
     怒られたのに、狂児は背中を見つめる視線を逸らさない。聡実くん、俺な、いまめっちゃ浮かれてんねん。だから、答えを外して睨まれたのに、嬉しい。嬉しくてずっと、表情筋がばかになって、ゆるんでいる。こんなこと、はじめてだ。
     待ち合わせ場所に聡実がいないシチュエーションを何度も想像した。約束を交わしている以上、すっぽかす不義理をしてくる性格ではないとわかっていながら、万が一を予測しないではいられなかった。蒲田駅前の広場まででて、座って、俯きがちに、スマートフォンをじっと眺めるつむじに、どれほどの喜びが溢れたか。いま、どれだけ嬉しいか。
     好き。好きだよ。ずっと好き。仕事ではあんなに口が回るのに、肝心の一言は大事に大事にしまってちっとも言えない。刺青を見せて、「会いたかったよ」と言葉を変えた。伝わってほしいけれど、伝わらなくてもいいと頭の片隅は思っていた。自分が好きなだけでいい。聡実を巻き込む理由はない。あのとき、きっと聡実の求める台詞は違った。聡実は巻き込まれたかったのだろうか。狂児のなかに、子どもの頃と変わらないとろさはあって、正解を告げられるのはいつだろう。もたもたして、置いていかれる前に、見つけられるだろうか。

    ある12月25日

     十二月二十五日。年末の繁忙期真っ只中。聡実にとってはバイトの稼ぎどきで、狂児にとってはもうあと三つくらいからだがほしくなる忙殺の日々の一日。恋人同士、クリスマスという、世のなかで言うところの一大イベントである認識はあったが、お互いアニバーサリーに執着はなく、特に狂児が、東京大阪間を行き来する余裕を避けそうにない。プレゼント交換くらいはしようと贈り合う話はしていたけれど、会うつもりはなかった。のだが。
     来てしまったなあ。夜二十二時を回る頃合い、御堂筋を真っ直ぐに伸びる道路沿いに植えられた木々たちは、パープルカラーのイルミネーションで、まばゆく彩られている。南海難波駅あたり、いつもの待ち合わせ場所で、鮮やかな木々を仰ぎながら、聡実は白い息を吐いた。クリスマスに浮かれたカップルやグループで混雑していて、どうにか見つけた隙間に、身を縮こませるようにして立っている。
    「これもらってくんない」とバイト先の同僚から、東京大阪間のこだまの往復チケットを渡されたのは、一週間ほど前だった。クリスマスに、大阪のテーマパークが好きな彼女と一泊二日の大阪旅行を予定していたはずが、フラれてしまったそうだ。手数料はかかるだろうが、取り消せばいいのでは。聡実の提案に、「うまく言えないけど、これを役立てられる誰かにプレゼントしたい気分なんだよ」と彼は憔悴した笑顔を見せた。「シフトは変わるからさ。ニコちゃんに会ってきたら。たまにはこっちから行くのもいいかもよ。おれのかわりにクリスマスデートに役立てて」
     ちなみにニコちゃんとは、バイト先と学校の同級生内で共有している、狂児のあだ名だ。彼氏の印象を訊かれて、真っ先に笑顔を上げたことが由来だった。機嫌がよくても悪くても、ずっとニコニコしているから、ニコちゃん。四十半ばのおっさんやくざの通称にはミスマッチにも程があるが、名前をだして彼の正体に行き着かれても困るので、聡実も使い続けている。
     マフラーを口元まで上げて、聡実はあたりを見渡した。狂児を見初めたいちばんのきっかけは、一般より低くよく響く声だが、笑顔も好意を抱いた割合はおおきい。自分といるときだけ浮かべる、ぎこちないちいさな笑顔。そのかわいい笑みを、きょろきょろと視線を配って探す。五分前に難波に着いた旨の連絡があったので、そろそろ来るだろうか。無意識に頭に手をやる。はやく来てもらわないと、いくらクリスマスムードのなかに混じっていても、目立ってしまったら恥ずかしい。
     狂児に経緯を話し、「五分でもいいのでいかがでしょうか。」と伺いをたてると、二時間ほどして既読になった途端、折り返しの電話がかかってきた。『五分てなんでそんな短いねん』だの『カップルプランを友達と泊まんの? ほんまに言うてる?』だの怒涛の勢いで捲し立てられたが、結局ユニバーサルシティまで足を伸ばす余裕なんて微塵も割けず、会えるタイミングも、彼の仕事場近くの難波周辺で十分程度しか作れなかった。
     バタバタさせてしもたかな。声かけんほうがよかったやろか。忙しい言うてんのに。我儘言うてもた。脳裏にふと後悔がよぎる。別に、クリスマスに無理に会わなくたって、よかった。狂児とは年末の激務を納めたあと、年明け二日目に東京で初詣に行く約束をしている。クリスマスにさほど興味はなく、周りの同級生みたく、パーティを開いたりして、恋人とはしゃぎたい気持ちもない。からだが空いて、ゆっくりできるタイミングで、ふたりの時間を作れたら充分だ。充分だと思っていた。でも。
    「聡実くん」
     息を切らして駆け寄る狂児の姿に、聡実は無意識のうちにくちびるをほころばせていた。普段より髪のセットが堅くて、香水が薄い。なにかの集まりを抜け出してきたのか。なおさら、今日、この夜に会えることへのよろこびが、顔を見た瞬間にどっと溢れ出てくる。
    「聡実くん、その頭の、なに?」
     狂児の目が、じっと聡実の頭上を凝視している。ああ、そうだった。
    「サンタ帽です」
    「いや、それは……わかんねんけど」
    「チケットと一緒にもらったんです。せっかくやから使お思て」
     浮かれている自覚はある。場の空気に当てられた部分もあるだろうが、この気分のうわずりは一週間前から始まっている。チケットをもらって、狂児とクリスマスの一端を過ごせると決まった日から。
     僕、もしかして拗ねとったんやろか。背中のリュックを開けながら、聡実は述懐する。クリスマスなんかどうでもええ、と突っぱねておきながら、自分がいちばん意識していたのかもしれない。むかついとったんかな。自分だけ、クリスマスを恋人と楽しめないこと。プレゼントを配達業者に託して、自分の手で直接、渡せないこと。
    「メリークリスマス」聡実が白い紙袋を取り出すと、狂児が慌てて受け取った。彼のプレゼントは、既に発送手配を済ませてしまっていた。今頃聡実宅のポストに不在票が入っているだろう。
    「ありがとう。ほんまに嬉しい」
    「まだ中身見てへんやん」
    「なんでも嬉しい。聡実くんがくれるもんはぜんぶ宝物や。あーほんま嬉しい……」
     頬を緩めて、狂児は胸元にプレゼントを抱き寄せて呻いている。そんなに喜んでもらえるとは。聡実がはにかんでいると、少しの間をあけたのち、にゅっと腕が伸びてきた。身構える暇もなく、突然力強く抱きすくめられて、ちょっと、と文句を上げたが、腕はびくとも動かない。
    「苦しいって。こんなとこでやめろや」
    「ほんまごめん。なんで俺プレゼント送ってしもたんやろ。ごめん」
    「そら手際がええからやろ」
    「そんな器用さ、いらん。俺も直接渡したかった」
     心底悔しげな声音に、頭の片隅にこびりついていた不安がたちまち消えていく。聡実は狂児の背中に腕を回した。
     しばらく抱きしめあっていると、狂児のコートのポケットから、低く規則的な振動音が聞こえてきた。電話。まだ十分も経っていない気がするが、タイムリミットのようだ。
    「電話鳴ってますよ」気付いているだろうに、聡実が教えても、狂児は微動だにしない。無視すんな。強めに背を叩いてようやっと離れた彼は、明らかに気落ちした様子を見せてくる。
    「溜息吐かんでくださいよ」
    「ほんま腹立つ。なんで働かなあかんねん。五人くらいに分身したい。そしたら聡実くんとまだおれるし明日デートできる」
    「狂児さん五人もおったらうるさいししんどいし邪魔や」
    「ひど!」
     ふっと聡実が吹き出すと、狂児もつられたのか、暗い表情を解いて笑みを見せた。聡実が好きな笑顔。
    「そうやって、笑ってたほうが、いいです」
    「え?」
    「狂児さん、ニコちゃんなんで」
    「なんて?」
     狂児が車を停めた駐車場まで、送っていくことにした。聡実はこのあとJRに乗って移動するので、また駅のほうに戻らねばならないが、よかった。普段なら、無駄に歩かせるからと言って固辞するだろう狂児も、なにも言わなかった。
     来年は、ちゃんと休みをとろうかな。肩を並べてイルミネーションの下を歩きながら、聡実は未来を描く。東京でも大阪でもいいから、五分でも十分でもいいから、また来年のクリスマスも、会って、プレゼントを渡して、直接喜ぶ顔が見れたらいい。