狂聡ログ⑤ / 狂聡

20220110

  • コート……狂聡。文字書きシャッフル企画に投稿したものです。
  • くもりガラス……狂聡。文字書きシャッフル企画に投稿したものです。
  • ひとりじゃないよ……狂聡。某バーガーのお話です。
  • 「私」がなれなかったもの……狂聡。きょうじの初体験について。※狂モブ♀描写あり。
  • コート

     土曜、狂児が来訪したのは、昼一の約束を大幅に超過して、夜だった。普段、歳にしては元気溌溂なのに、今日は全身に疲労が表出している。身ひとつで土産もなし。聡実はなにも訊かず「お疲れ様でした」と招き入れた。
     予定通り外出しても聡実は良かったが、疲労困憊の背中を見ていると言い出しにくい。でも家にも食べるものがない。聡実家の主な買い出しは週末の一回だ。日中に行けば良かったろうが、狂児はお土産と称して大量の仕送りを直参するから期待したし、「遅れます」の一言のあとしばらく途切れた連絡を待っているあいだ、家を離れられなかった。
    「適当になんか買うてくる」スーパーに向かうべく聡実が立ち上がると、狂児まで続いた。いや休んどれよ。を相当マイルドに伝えても、「俺も行く!」と靴を履き始める。奇しくもはじめての買いものデートと相なったが、今度は別のことに気を揉んだ。
     スーパーと狂児が、あまりにも似合わないのである。
     元ヒモのくせワーカホリックなので、狂児はギリギリまで仕事をして東京へ直行してくる。髪を撫でつけ、上等なオーダーメイドスーツを着込んだ姿で。冬は加えて黒の暖かそうなカシミアロングコートを羽織り、企業の上役かやくざ丸出しだ。成城石井ならまだしも、豚肉グラム七十八円の商店街のスーパーには、すさまじく浮く。視線の殆どがこちらに集中しているのがわかる。
     羞恥にくちびるを噛む聡実をよそに、狂児は鼻歌を口ずさみ、キャベツを二玉もカゴに入れた。食えるか。なにはしゃいどんねん。まるで遊園地に連れて来られた子どもみたいに。
     実際は、ただはしゃいでいただけではなかったらしい。
    「あれ?」
     狂児が次に来たのは半月後、まだ冬真っ盛りの時期だ。出迎えた瞬間、聡実は違和感に声を上げた。
     スーツを着ていない。濃灰色のタートルネックセーター、ジーンズ、カシミアのコートは、カーキのダウンコートに変わっている。それも某量販店の。ランクダウンで、地味だ。
    「なんで?」
     ドアを閉めた手で、聡実はコートを摘んだ。言葉少なに問うた意味を正しく拾い上げた狂児は、「聡実くんとスーパーに行くため」と答えた。曰く、前回一緒にスーパーに行ったとき、聡実がずっと不機嫌だったのが気になった。周囲の視線の色を鑑み、自分の装いが原因かと思い至った。
    「スーツはともかく、あのコートはないよな。悪目立ちするわ。あれ、部屋住み卒業したときに、アニキが『やくざっぽくせえ』て買うてくれたやつやねんけど」
     二十年選手。物持ち良すぎるやろ。
    「俺、聡実くんとスーパー行きたいねん。恋人っぽいやろ。日用品ふたりで買いに行くって。ほんまはあれのが映える自信あんねんけど、スーパー行かれへんの嫌やから、これ引っ張り出してん。何年ぶりやろこんなん着るの」
    「大阪からその格好で来たん」
    「そう」
     服だけでこうも印象が変わるだろうか。いまの狂児は確かに地味で、よくそのへんで見かける年相応のおじさんである。
     ダウンコートを捲る狂児に、聡実は深い溜息を吐いた。無意識に不機嫌づらを晒していた自分に腹が立つし、狂児も狂児で妙な気遣いをする。豪胆無頓着に見えて、案外気にしいだ。慮ってくれるのはありがたいけれど、逆に聡実のこころの別の部分に燃やしていった。
    「……次からいつものスーツとコートで来てください」
    「え?」
    「それ、僕が一緒におるとき以外に着んで」
     喉を滑って捲し立てる。だってこころなしか、気の抜けた顔をしている。世界には、是非やくざの外面を振る舞っていてほしい。若い彼氏がいる、四十代男性の素顔を見せるのは、自分とふたりきりのときだけで充分だ。
     我に帰った恥ずかしさに聡実は、即座にしゃがみこんだ。心配する狂児のくちびるは、明らかににやけている。ああもう、最悪や。サムい台詞。極寒や。カシミアのコートでもないとやってられへん!

    くもりガラス

     鳴らないスマートフォンを片手に、ぼくは壁にからだをひっつけ、膝を抱えてしゃがみ込む。
     カーテンは開けっ放し、窓の向こうはとっくに日が沈んで真っ暗の部屋。いつ待ち人が来てもいいように、点いたままの暖房が虚しい。
     ぼくひとりだけなら、電気代を惜しんで、厚着で済ませてしまうけれど、彼は寒がりで、四畳半は壁が薄く外気を取り込みやすくて、コートを脱いだ途端、いつも「さむい、さむい」と寒そうに腕を擦っている。
     もう一度、スマートフォンのサイドボタンを押して、画面を光らせる。着信はなし。メッセージもなし。遅れる連絡もなし。最後のやり取りは、『明日よろしくネ』と笑顔の猫のスタンプ。
     彼は約束破りの常習犯だ。十月も十一月も反故にされて、でも今日は、クリスマスばかりは絶対に、なにがなんでも這ってでも行くと言った。
     狂児が、そう、言ったから。
     信じて、信じきって。もう夜半近くになるのに、懇々と待っているぼくがばかなのだろうか。……ぼくたちはまだ、恋人でもなんでもないから?
     お昼前にぼくの部屋に来て、適当に昼食を済ませ、街に出て、狂児が予約したディナーを食べる。ホテルに行って、一晩ふたりきりで過ごす。そういうプランを提示されて、嬉しくて、でもぼくは、ぼくは、断らなければいけなかった?
     ――ぼくにはひとつ決意していたことがあった。
     今夜、ふたりきりになったら、ちゃんと気持ちを伝えようと思っていた。
     狂児がぼくを大事にしてくれていることは、行動の節々から汲み取れる。クリスマスの一夜をぼくにくれるのも、もし意味があるのなら、ぼくが彼のなかで特別だからだと、都合よく受け取っていた。
     照れ臭くて、いつも素っ気なくしてしまうから、きっとぼくの本心は伝わっていない。今日こそ、今日こそは、ちゃんと言おうと。
     違ったのだろうか。ぼくは彼にとって、仕事の暇潰しで、冗談で言ったプランを鵜呑みにしたから、気味悪がられて、今夜を機に捨てられるのだろうか。
     かっとなってぼくはアプリを開き、狂児に一言を投げつけた。放ったスマートフォンが壁にぶつかる。
     眼鏡の縁に涙が溜まって、畳の目もぼやけて見えない。啜りすぎた鼻はつんとするし、ひっ、ひっ、とひきつる喉と肺が焼けるように痛む。
     この部屋で唯一外を確認できる窓は、外気と室内の温度差でくもってしまい、なにも映さない。数時間前までは、何度か様子を覗いたけれど、もうそんな勇気はない。なんにも見たくない。――このまま世界が、閉じてしまったらいいのに。
     荒い足音が近付いて、ドアが開く。いつ来てもいいように鍵はかけなかった。閉まるより先に、乱れた息と気配が、ぼくの前に立つ。気配は膝をつき、顔を上げられないぼくの耳元を撫ぜた。
    「俺のために、部屋あっためてくれてたん」
     否定より先に涙が溢れて肩が震える。狂児は「泣いてる?」と囁いた。ぼくの掠れた声が、「どうして」と尋ねる。
    「泣いてくれてたらええのに、て思うから。俺が音沙汰なくて、さみしくて、泣いとったらええのにって」
     言葉にならない気持ちが、いっそう瞳に雫を溢れさせる。
    「……ひどい。喜ぶん」
     狂児はさらりと頷いた。
    「喜ぶよ。好きな子が泣くぐらいさみしがってくれてるん、嬉しくないわけないやん。……だからさ」
     胸を張った声が、次第に低くひそめられていく。
    「『さようなら。ぼくはあなたが好きでした。』なんてさ、過去形にせんでよ」
     最後に送った一言をなぞる声は、噛みついて離さない必死さがあった。隙間もないくらい抱きしめてくる腕も、頬も、冷たい。
     部屋を暖かくしておいてよかったな、と安心してしまうあたり、ぼくは結局恋心を捨てられない。噛みつかずとも離れられない。さみしさに世界がくもっても、苦しい涙を喜ばれても、抱き締められたら、同じ強さで、ぼくも抱き締め返してしまうのだ。

    ひとりじゃないよ

    『まだ仕事中ですか。』と送ったメッセージには、すぐに既読マークが現れた。あと少しでキリがつくらしい。夕飯にもまだありつけていないという答えの末尾は、よだれを垂らした絵文字がついている。聡実はちいさく笑って、一旦スマートフォンを改札にかざす。ピピ、と電子音とともに通ってホームに上がり、数分待てば最寄り駅行きの電車が滑り込んできた。夜七時台、週末の金曜としてはまだ夜の早いうちで、乗り込んだ車両のなかは、たいした混雑は見られない。空いていた隅のほうの座席に腰を下ろし、バックパックを前に抱えて、再びスマートフォンを開いた。返事を打ち込み、ふと見上げた車窓の向こうは、晴れ渡る夜空にくっきりとした、丸みを帯びた月光が冴えている。
    『ほな、一緒に“お月見”しませんか。』



     おちあえそうな時間をすり合わせて、聡実から電話をかけると言ってやりとりを結んだのに、時間ぴったりに狂児のほうから着信があった。カメラに切り替わり映った彼は、ネクタイを緩め一息つき、やや疲れた顔を見せている。一度キリをつけて食事をとったあと、狂児はまた仕事に戻ると言う。事務所にはひとがいると舎弟から連絡を受けて、わざわざ“職場”から距離のある自宅に帰ってきたようだった。
    「え、忙しかったん。ごめんなさい」
    『ちゃうねん、場所選びたかったんは俺の我儘やもん。聡実くんに会うのにやくざおるとこ嫌やから……気にせんでええんよ』
     狂児は笑い、『ひとりでマクド行ったん何年ぶりやろ』と夜空に浮かぶ月が描かれた紙袋を、カメラに揺らした。『聡実くんはどれ買うたん?』
    「僕、濃厚チーズ月見と、ふつうの月見バーガーのポテトセット」
    『二個! めっちゃ食うやん』
    「お腹すいてんねんもん。狂児さんは?」
    『月見パイと月見シェイク』
    「甘」
    『バーガーはさすがに胃が保てへん』
     もともと少食の気があり、狂児はあまり夕飯を食べない。量は少なくとも、そのおやつみたいなメニューのほうが、この時間には胃もたれを起こしそうな気がするけれど。想像しただけでくちのなかが甘くなりながら、バーガーをテーブルに並べ、ポテトはペーパーナプキンの上に横倒しにして、雪崩れさせておく。
     いただきます、と画面越しに向き合って手を合わせ、聡実は濃厚チーズ月見の包装紙を剥き始める。
    『俺が子どもんときも月見バーガーってあったけど、いまあんなに種類増えてんねんな』
    「毎年新作が出んねん。僕あれぜんぶ食べへんと秋過ごした気ぃせえへん。いまは他社も出してますしね」
    『食べ比べとかすんの』
    「今週ずっと月見モンばっか食べてますね」
    『聞いてるだけで腹膨れるわ……』
     げっそりしたぼやきで、会話が途切れた。窓の外では鈴虫が包装紙がかさばる音、お互いの咀嚼音が、しんとしたしじまに響く。再び会話を切り出したのは、やはり狂児のほうだった。『なんかあった?』
    「え?」
    『聡実くんが、俺を誘ってくれんの、珍しな思て』
     仕事中か訊かれたときから、ずっと気がかりだったと告げられる。普段の大仰で強引な素振りと打って変わって、ぼそぼそとちいさく遠慮がちな声だ。
     あった。あったことを隠すつもりはなかったけれど、こうして食事をとりたくなった経緯をくちにするのはどうも気恥ずかしい。でも心配させたままもよくない。聡実はポテトを咀嚼しつつ考えあぐねて、素直に出来事を紡ぎ始めた。
    「今日、合コンやってんけど」
     途端に狂児が派手にむせ始めた。パイが喉に詰まったらしく、シェイクのストローを蓋を取り外し、パイを流すべく喉に注ぎ込んでいる。シェイクでなんとかなるかいな、と眺めていたら、治ったようだった。かすかに掠れた声が、ええー、と訴えてくる。
    『浮気やん!』
    「未遂です。即帰ったし。飲み会や言うて騙されてん。僕のほうが被害者や」
     口調に苛立ちが滲み、聡実もドリンクをずるずると啜る。
     聡実は大学内で、遠距離恋愛中の恋人がいることを公言している。当然職業は明かしていないが、年上の男であることまでは、ある程度交流のある友人知人はみんな知っている。女子を紹介されたり、合コンに誘われるたび、そう言って断っているからだ。
     今日の合コンだって、声をかけてきた友人は「飲み会だ」と断言した。別の誰かが主催する飲み会で顔を合わせる程度の、ふたりで遊んだことのない、付き合いの浅い友人だが、気のいい同窓生だった。講義の聞き逃した箇所を訊くと、自身のノートを見せながら丁寧に教えてくれる。休みの日には体調を慮るメッセージが届く。勿論、聡実が彼氏持ちで合コンを固辞しているのもわかっている。わかっていて、彼は聡実を騙した。
     予約された個室に入り、向き合って座る男女の図に、聡実はすぐ勘づいた。回れ右をして立ち去ろうとする背中を呼び止めてきた友人を、「僕合コンはあかん言うたやろ」と問い詰めると、どうやら彼が懇意にする女子が、聡実に気があるそうだった。誘うように強要され、断れなかったらしい。可哀想だが、そんなことは自分の知ったことではない。
    「僕には彼氏おるから、誰とも付き合われへん」
    「……彼氏って言ったって、遠距離なんだろ。月一回も会えるかわからない」友人は口端を歪ませた。「そんなの、いないようなもんだろ。独り身みたいなもんじゃん」
     湧き上がる怒りを堪えきれなかった。重力に抗って、頭に血がぐんぐん昇るのがよくわかる。反してくちからまろびてた声は冷静だった。淡々とした調子で、聡実ははっきりと言い捨てた。「月一回でも会うて手ぇ繋いでデートしてキスしてセックスしてる。ほんで毎日LINEしてんねんアホ。おまえが勝手に判断すな」
     僕は、成田狂児としか、恋人せえへん。もう決めてんねん。やりとりを思い返すだけでも腹が立ってくる。騙された、とだけ言って黙々とバーガーを食む聡実に、狂児はのんびりした口調で労ってくれた。
    『そら難儀やったな。きみ目当ての女の子がおったんちゃうん』
    「そうらしいですけど、どうでもええ。知らん」
     独り身なんかじゃない。離れていても、毎日会えなくても、聡実にはれっきとした恋人がいる。
    『ほんで、俺に会いたなってくれたん』
    「……ちょっと」
     だからって会いにいけもせず、会いにきてもらうわけにもいかない。せめて、少しでいいから話がしたくなった。聡実だって、友人には言い切ったものの、遠距離恋愛に揺らがないわけではない。会いたくてもすぐ会えない距離は、ひどくもどかしい。腕に“聡実”を刻んでいる以上、狂児が浮気や他の誰かに乗り換えるとはあり得ないとわかりつつ、それでも不安はゼロではない。
     居酒屋を出て駅に向かうさなか、考えこむ聡実の視界に、たまたまバーガーショップのCMが入ってきた。それで、狂児を“月見”に誘ったのだ。離れていても、繋がっていることを確信したくて。
    「……あかん、めっちゃ恥ずかしなってきた」
    『ええー、ええやん。CMみたいで』
    「だからです」
     照れ臭さに耐えかねて顔を覆う聡実を、狂児は低くやさしく笑っている。口端を僅かに持ち上げて、喉の奥で声を鳴らすような、ひそやかな笑い方。聡実が彼を、いとしく思う部分のひとつ。
    『近いうちに会いにいくよ』
     今度は画面越しでなく、隣で聞きたい。うん、と頷き、しばらく互いの近況を話して、狂児は慌ただしく仕事に戻っていった。
     聡実は残りの月見バーガーを開封し、齧りながら、窓を開けて夜空を仰ぐ。大体、大阪と東京くらいで遠距離だなんて言えるのか。あの、十四の夏から三年半のあいだ、自分たちを断絶していた、生と死の隔たりより、ずっと近い。
    『狂児さん、月がきれいや。』
     写真を撮って送ると、彼からも月光の写真が送られてくる。歩きながら撮ったような、下手くそなピンボケした写真。
    『ほんまきれいやな』
     大阪と東京に離れていても、ふたりは生きている。同じ空の下、同じ月を見上げながら、気持ちを交わして、生きている。充分近くて繋がっている。聡実は頷き、くちびるをたわませた。

    「私」がなれなかったもの

     私は当時、大阪のある中学校で現代文の教諭をしていた。彼が、成田狂児が中学三年生の頃だ。両親ともに教師だったので、なりたいわけでもないのに教師を引き継いだ。
     自分で言うのもなんだが、私はそう目立つほうではなかった。どちらかと言うと隅でおとなしくしているような、さして冴えたところのない、夜遊びもしない、いつも髪を一束に括って爽やかな服装で眼鏡をかけた、真面目な部類の人間だった。
     成田狂児は目立つ生徒で、と言っても不良ではなく、授業態度は良好で休みもなく、宿題の提出率もいいけれど、十五歳にしては妙な雰囲気のある男の子だった。ぼうっとしていて、表情が薄く、現実に身を置いていないようなところがあった。まるで周囲の人間を人間として認識していない、きっと誰のことも名前も顔も覚えていない。記憶違いでなければ、誰かに話しかけられても、その誰かの名前を呼ぶことはなかった。
     誰かは「艶っぽい」「憂いがある」と表現していた。常にこころここにあらずといった様子で、いつもどこかかなたを眺めているような、私は「ないものねだりしてるみたい」だと思った。けして手に入らないものを追い求めているような虚しさを、成田狂児は常に背負っている風に、私には見えていた。
     醸し出されるその妙な雰囲気は、中学時分の学生たちにはやや特殊に捉えられていて、また本人も自発的に他者とコミュニケーションを取りたがらず、周囲にあまりひとがいなかったように思う。友人も少なかったそうだ。艶っぽいと謳われたように、齢十五にして何人抱いているだの、職員室の何割が食われただの、年上の彼女がいるだの、随分色のある噂がよく立っていた。
     実際、職員の誰が、彼とそういう関係になったかは、自分のことでないのでわからない。ただ、一部の教師のなかでは、惑わされそうになっている者もいて、夜更けの職員室で、時折彼について、聞くに堪えない妄想を耳にしたことも、いくらかはあった。私はそういう下世話な話には参加しなかったが、十五歳でそんな話題にのぼらされて不憫で可哀想だと思った。十五歳はまだ子どもだ。やましい目で見ることは有り得ない、と思っていた。
     ある日下校時刻を過ぎてもちっとも帰る気配のない成田狂児に「帰らないの?」と尋ねると、「帰りたないんです」と返ってきた。十五歳らしからぬ低い重みのある声。見つめられる瞳の、深い夜色。
     私はそのぽつっと落とされた呟きに引き寄せられるように、「ほなうちくる?」と誘った。成田狂児はちょっとだけ考える素振りして、のこのことついてきた。
     なぜ帰りたくないのか、私は訊かなかったし、成田狂児も話さなかった。でもその晩、ふたりは関係を持った。まるで蜜にそそられる虫のように、私は成田狂児にまたたく間に擦り寄ったし、成田狂児はそれを受け入れた。彼はセックスがはじめてのようだった。キスはしなかった。成田狂児はまるで実習をするように、私にどう触ればいいかの教えを乞うた。私のほうに主導権を預け、その実、私が彼から離れがたくなってしまった。彼に逐一、女のからだを味わう術を教え込んだ。彼はその通りに私に触れた。
     ことが済んだあと、成田狂児は一言、「先生、ありがとう」と言った。淡々とした声だった。まさかセックスのことだとは考えにくい。帰りたくないと言った生徒に、逃げ場を作ってくれてありがとう、という意味だと当時は思った。けれどしばらくして反芻すると、そう口にした成田狂児の瞳には、なんの感情もなく、ブラックホールみたいだったので、たぶんそう口にしておけば場を凌げると考えたのだろう。
     翌日、途端に自分のしでなしたこと、湧き上がる欲望に恐れをなし、私はすぐに教職を離れた。私はすぐに教職を退いた。この子の望む「ないもの」に、私は渇望するほどなりたかったのだ。けれどなれない。絶対になれないと確信した。私はあくまで、逃げ場の女であった。職員室に足を踏み入れた瞬間、生徒と関係を持った聖職者が、この場にいてはならないと追い詰められるような気分にもなった。なにより成田狂児の瞳をこれ以上見ていたら、罪を訴えられているような、あるいはもっと吸い込まれてしまうような、自分が危うくなる気がしてたまらなかった。




     あれから三十年経ち、加齢に相応してしたたかになった私は、いっときのいい夢として、その過去をすっかり記憶野の奥にしまいこんでいた。なぜいま思い出を反芻したかと言うと、街中で立ち寄ったカフェで、彼を見かけたからだった。大変整った、特徴のある面立ちであったので、すぐに気付くことができた。
     風の噂でやくざになったと聞いた成田狂児は、確かに職務相応な仕立てた艶のあるスーツを着込んで、あの頃とはまるで違う、にこやかな笑顔で誰かと話している。目の前に座っている青年は、十代後半にも見えるが、雰囲気は息子というには甘ったるい。あの頃とはまったく違う、視線や声に淡くやさしい色がついている。
     ……もしかすると、「ないもの」を見つけたのだろうか。目の前の青年が「そう」なのかもしれない。ああ、そうか。だから、そんな顔をしているのか。歳の差を鑑みるに、どれだけ彼は待ったのだろう。ぼうっと世界をたゆたいながら、周囲の人間にまやかしを振る舞う魔性さのなかに、それほどの一途な真摯さがあったとは。
     その日の一晩だけ、私は彼の夢を見ることを自分に許した。翌朝、頬を伝った一粒のなかには、かつての気にかけた生徒に対し、あるいはこころを揺さぶられたぶらかされた相手に対し、嬉しいような、さみしいような、晴れやかなような、悔みが残るような、言い知れない気持ちが、含まれていたように思う。