狂聡ログ④ / 狂聡

20210912

  • ハグの日……ハグの話。
  • あたらしい朝……きょうじの眼鏡の度がさとみくんよりも悪い話。
  • ヒゲ……きょうじのヒゲの話。
  • 風吹けば恋……きょうじの同業者モブから見た狂→←聡の話。デート新規絵の話。
  • 愛の芽生え……デート新規絵の話②。
  • ハグの日

     東京で会うようになって以降は、中学時代とは違い、狂児は必ず前もってお伺いをたててくれる。いついつ行くつもりだけれど予定はどうですか。何月はいつがいいですか。朝飯、ランチ、夕飯。一緒に食べよう。聡実くんの都合に合わせるよ。そんなメッセージが届いて、聡実がそのあたりのスケジュールを返し、やり取りのなかで、会える日を擦り合わせていく。
     けれどごくたまに、なんの前触れもなく、突然姿を現すときがある。たとえばいま、八月の夕暮れどきなので、時刻は夜七時近いだろう。大学を終えた帰り道、蒸し暑さに茹だりながら見上げたアパートの聡実宅の前に、背を向けて立っている。ダークグレーの、ストライプが入った、からだによく沿ったスーツ。仕事を抜け出してきたか、これから向かうのか。なんにせよ休日ではなく、明確に若頭補佐の服装をしている。
     聡実は声をかけず、階段に足をかけた。カン、カン。軽い金属の音がしても、狂児はこちらを見ない。茫洋とドアを眺めて、微かに俯いているように見える。その顔がようやっと聡実を目指して持ち上がったのは、隣に立ってからだった。
    「ごめん」とだけ、狂児は言う。笑みのない口元が紡ぐ一言は、くぐもって掠れてちいさい。聡実もまた、「はい」とだけ返して、狂児の前に立った。もたれていた柵から、広い背がのろのろと離れ、腕が聡実の背後に回る。抱きすくめられる。肩に額を擦り付けている。まるで聡実を体内に押し込めようとせんばかりの、強く縋るように幼い抱擁。
     年に一度か二度程度だ。一切の連絡もなく彼が来るときは、大概こうして抱き締められる。恋人同士で、合鍵を持っているのに家にも入らず外で待ち、聡実を抱き締めて、帰っていく。
     夕暮れの茜空のした、ふたりは静かに抱き締め合っている。音もなく体温を混ぜ合い、香りが溶け合う。会話もなにもない。聡実も背に手は回すが、特になにもしない。とんとんと宥めたり、なにか言葉をかけたりもしない。どうしたん、なにかあったん、だとか、行動の理由を訊いたことすら一度もない。抱き締めている間、狂児がなにを思っているのかも知らない。そういう日なんやろな、僕を抱き締めたい日。その程度にしか考えていない。訊かれたくないから口を開かないのだろうと思ったし、別に聡実自身訊く必要性も感じていない。むしろ訊く際の言葉が、邪魔になると思った。普段は重要な言葉はいまこのとき、一音もなにも要らなかった。狂児はただ聡実を抱き締めるだけで良く、聡実もまた、抱擁を受け入れるだけで、良かった。
     ゆるゆると、聡実のからだに巻かれたかいなが、たわんでいく。仰いだ先の狂児は、ほとんど変わりない。忙しいのか頬が微かにこけて、くまがひどく濃い。それでも、強張った口元がちいさく緩み、ほっとしたように瞳が伏せられる。きっと彼のなかで、なにかが満足したのだろう。理由もなにもわからなくても、聡実が身を預けるには充分な対価だった。
     突然発作のようなこの行動を、ほんまにできるだけ逃したないし、待たせたないな、と聡実は思う。きっと連絡してほしいと頼んだところで叶わない。できないからしていないのだろうから、せめて聡実が、その衝動が芽生えた瞬間を、拾えたらいいのに。狂児が聡実とのこのいっときを望んだ瞬間、テレパシーかなにかで伝わってきたら。そうしたらすぐに駆けつけてあげられるのに。
     詮ないことを考えながら、「ほな」とアパートをあとにする背を見えなくなるまで見送り、聡実もまた、アパートのドアの鍵を開けた。

    あたらしい朝

     ビー、ビー。耳障りな音が聞こえて、聡実は重いまぶたをゆっくりと持ち上げた。今日は休日だから、目覚ましはかけなかったはずだ。現に枕元のスマートフォンは静まっている。なんの音。少し考えているうち、岡さーん、とドア越しに呼ぶ声がした。ああ。あれインターホンか。目元を擦って、スマートフォンを照らす。十一時半。思ったより深く寝ていたようだ。
     狭いシングルの布団の上、真隣で聡実を抱きかかえて眠っている男は、深い呼吸を崩さない。仕事のスケジュールがずれて空路の最終便を逃した狂児は、東京−大阪間を休憩なしでハンドルを握り、駆けてきた。夏の帰省ラッシュ真っ只中で、新幹線は終電まで満席だったそうだ。いくら同世代に比べて若々しいと言えど、四十過ぎのからだには効いたらしい。よほど疲れているのか、そうっと腕を外しても起きない。
     聡実は布団を出て、枕元の眼鏡を起き上がりざまに拾った。適当に髪を指で梳き、歩きながらつるを広げて耳にかけるが。
    「……うわ!」弾くように、すぐに外した。
     なにこれ。めっちゃぼやける。度が合わへん。驚いて眼鏡を見つめ、あ、と思い出す。
     僕のちゃうわ。これ、狂児のや。昨夜、そういえば寝しなに狂児が自分の荷物から取り出し、聡実の眼鏡の隣に並べていた。普段はひとつしか置いていないから、つい癖で確かめも取ってしまった。
     再び、ビー、ビー、と来客が呼ぶ。仕方がないので畳んで冷蔵庫の上に置き、鍵を開ける。通販の荷物だった。聡実は目を凝らして伝票を確認し、印鑑を押して受け取った。ありがとうございましたぁ、と去っていく配達業者を見送り、荷物を片手に玄関の扉を閉じたところで、背中にのっしりとした重みと熱がのしかかる。
    「なに買うたん?」
    「……大学で使う資料です。重いんやけど」
    「持ったろか?」
    「荷物ちゃうわ」
     無機質な荷物ならまだいい。体熱もなければ、脈拍が上がることもない。どいてください、と暗に示すと、ええ、と名残惜しそうだ。いい歳して浮かれないでほしい。肩越しに睨むと、諦めて狂児は抱擁をほどいた。とはいえ我が家は狭く、互いの距離は一歩分もない。
    「まだ寝ててええのに」とごまかすように訊くと、「よう寝たし、一回起きるとあかんねん」と返ってきた。「聡実くんおらんとひとりで寝るのもさみしいわ」と調子良く続くセリフに、聡実はひとつ息を吐いて自身を宥め、冷蔵庫の上の眼鏡を渡した。
    「ごめんなさい。間違えて持っていってしもた」
    「ああ、横に並べてしもたからあかんかったな。ごめん。ありがとう」
     受け取った狂児は、そのまま眼鏡をかけている。聡実は僅かに見上げて、「目、悪いんですね」と呟いた。聡実も視力は悪いほうだが、狂児の眼鏡の度はそれよりきつかった。かけた瞬間、視界が朦朧として、頭がくらりとよろめいたくらいだ。
    「そうそう、たいして勉強もせえへんかったのにな。家でも俺だけごっつ悪かってん」
     二十代の頃に上司に言われてレーシック手術を受けたそうだが、保ったのは数年で、あとは元通りに下がっていったと言う。コンタクトも使い捨てでは度数がなく、面倒だが長期利用のハードレンズを、毎日手入れして使っているらしい。
     そうなんや、と相槌を打ち、聡実は眼鏡姿の狂児を見遣る。知らなかった。コンタクトをつけていること自体、昨夜はじめて知った。そういえば、眼鏡をかけているのも、いまはじめて見た。
    「……ふうん。知らんかった」
     再び頷き、聡実は背を向けて部屋に戻った。え、なに? ときょとんとした狂児が後を追ってくる。
     ちなみに聡実は、暗い部屋で本を読んだり図鑑を見たり、デスクの灯りだけ点けて勉強したりと、目を痛めつけて視力を落とした、典型的なガリ勉タイプだ。
     勉強は好きだ。中学時代は合唱もがんばったが、勉強だってけして怠らず、だからこそ進学高を経て、いまがある。
     好奇心は強いほうで、物事を知るのは楽しい。その法則は、昨夜からいまにかけて得たものに対しても有効だった。
     だからいま、とても楽しい。
    「どうしたん? その荷物待ってたん? そない嬉しそうにして」
    「ちゃいます」
     荷物は机に置き、聡実は唯一の窓のカーテンを開いた。時刻は昼近く、太陽はすっかり上りきり、燦々としたひかりが部屋を照らす。狂児を嗜めつつ、浮かれているのは聡実も同じだ。
    「嬉しいは嬉しいですよ。今日はいい日になるな、思て」
     昨夜からずっと、はじめて知ることばかりが続いている。ヒモをやっていたくせに、狂児が結構な鈍感であること。狂児の視力が聡実より悪いこと。ふたりで夜を明かすと、眼鏡がふたつ並んで間違えてしまうこと。寝起きと感じ入っているときの狂児の声は、普段より低く掠れていること。一歩分もない距離にいると、相手の体熱が伝播して自分のからだがぬくくなること。キスマークが内出血であること。案外自分のからだは硬くて、足をあれだけ開くと翌朝に堪えること。それから。
     二十歳の夏、好きなひとと、待望の“はじめての夜“を過ごしたあとの朝は、こんなに満ちた気分になること。

    ヒゲ

     狂児って、ヒゲ生やさへんのかな。
     ふとそんな想像に至ったのは、珍しくバイトも講義もなにもない、ある休日だった。どちらも本来は行われる予定であったが、前者は店長のシフトミスで夜勤者が重複してしまい急遽休みに、後者は教授の体調不良により臨時休講で、突然ぽっかりと空いてしまった。どないようかな。ごく普通の平日なので、友人たちはしっかり講義がある。九月、残暑もひどいなか、外を出歩きたい用もなく、聡実はアパートで、畳んだ布団に背を預け、テレビで再放送の映画を観ていた。その映画に出ている俳優が、口元にヒゲを蓄えていた。黒髪茶眼、彼と大体同じ年頃で、彫りが深くて濃い顔立ちをしている。それで、不意に頭をよぎったのだった。
     まだちょっと早いんか? でももう四十五やろ。四十五って立派なオッサンやん。オッサンってヒゲ生やしたがる生き物ちゃうんか。ヤクザやし。ヤクザ、ようヒゲ生やしとるやん。任侠映画で得た偏った知識で考えつつ、けれどあながち間違っていないようにも思う。コンビニや本屋で見かける、壮年向け雑誌の表紙を飾るモデルは、大概ヒゲを生やしている気がする。
     生えへんのかな? いやそんなわけあるかい。上も下もあんな毛太くて濃いねんで。大体朝ごっつじょりじょりしとるし。僕がヒゲ剃っとると「なんや産毛やんか」てイジられたし。あれは一日一回や済まんペースで成長しよるやろ。そういえばひげ剃り持ち歩いとった気もするなあ。
     ……少し考えて、聡実はスマートフォンの写真アプリを立ち上げた。ロックされているフォルダをタップし、パスワードを打ち込んで写真を捲る。風景、食べもの、インテリアの他に、狂児の寝顔、寝起き、ピースしている姿、どこかよそを向いている顔。狂児や、狂児と行った先で撮った写真ばかり収めてあるフォルダだ。半分くらいは隠し撮りであるし――他者の気配に聡い男なので、たぶん気付かれている――、ひとの目に触れないよう、フォルダ名は「大学資料」としてある。
     ぺらぺらとスワイプし、ちょうどいい写真を見つけた。朝、ホテルで別れる前に食べた朝食のシーン。真向かいの狂児は髪を二房額に垂らして撫で付け、体型に沿ったオーダーメイドのスーツを着込んでいる。窓の向こうに目をやり、珍しく笑顔がない。これがいい。
     聡実は画面の右上をタップし、描画モードに切り替えた。どこに生やすやろ。顎か。顎に黒いペンでちょんちょんと線を引き、間をあけて、鼻の下にも生やしてみる。無造作では、彼の毛根力だと凄まじいことになりそうだから、毛長を整えてあるように。
     ああ、なるほど。仮にヒゲを生やしてみて、聡実は合点がいった。狂児ヒゲ、似合わへんねんな。自分の画力のせいか、見慣れないからかもしれないが、まったく似合わない。彫りの深い顔立ちなのに似合わない。なんだか威厳を求めて無理に生やしたような違和感を覚える。ああ。そうやった、案外狂児見た目若いもんな。眼球がおおきくて、童顔ではないけれど、歳よりずっと若く見られる。
     なるほどなあ。こらヒゲ似合うまでにあと二十年くらいかかるんちゃうん。満足しつつ、おもしろいので聡実はそのまま画像を保存しておいた。もう一度見返すと、なんだか子どもの落書きみたいだ。授業が暇で、教科書の偉人を鉛筆で書き換えるような。
     同じような気分だ。聡実は懐古した。真面目な学生生活を送り続けている自分にだって、教科書の落書きのひとつやふたつ、経験はある。授業がつまらなくて、暇で、妙な案が浮かんで、鉛筆を走らせた。もうひとつ似ているものがある。話が長くて鬱陶しい校長の銅像への落書き。好まない先生の似顔絵に鼻毛を足したりして、変顔にする。同じだ。いまも。生活がつまらなくて、暇で、似合うのでは、と名案のように、或いは、むかむかする苛立ちをぶつけるように、狂児の顔にヒゲを描き足す。
     四月一日、二十歳の誕生日を祝いに会いに来て以来、もうすぐ半年、狂児からの連絡は途絶えている。聡実からは一度もなにも送れていない。送ろうとすると、どうしたって音信不通だった三年半が、指を震えて留めさせる。でも。
     でもあの頃とは違う。三年半を経て、狂児は生きて、空港に会いに来た経験値が、聡実にはある。十四歳の頃よりは、少しだけ、強くなった自分がいる。
     だらりと伸ばしていた足を抱え、久し振りにLINEのトーク画面を開く。深呼吸をする。四月一日でときを止めた部屋。針を進めるのは、今度は自分の番かもしれない。
     素直な気持ちをぶつけたら、したためているだけで泣きたくなってしまう。だから先ほど保存した写真を、意を決して、爪先でつついて送りつけてやる。
    『ヒゲ。似合わんね。』
     待ってんの、嫌や。暇でつまらんし、むかつくねん。でも会いに、探しに行く勇気はまだないから。
    『生きとんのに来んねやったら、』
    『狂児さんの写真ぜんぶに似合わんヒゲ生やしたるからな。』
     会いに来てや。アホ狂児。

    風吹けば恋

     普段必ず時間を守る相手が、直前になって急に予定変更を言い渡してきた。昼過ぎと交わしていた約束を、夜にずらしてほしいと言う。十五年近い付き合いだが、はじめてのことであった。まあそれはいい。けれどその本来の約束の時間に、その男がなんと、別の人間を歩いている姿を目撃してしまった。それが同業者ならまだ良かったが、どう見ても十代の、カタギの学生だ。
     え、仕事そっちのけでパパ活してんの? 成田狂児が? ふたりで肩を並べて非常に近しい距離感を保って――すぐにでも腰を抱きそうな間隔である――歩き、レトロな喫茶店に入っていく背中を眺めて、俺は思わず足を止めた。
     めっちゃ気になるじゃん。
     成田狂児は大阪のやくざである。まだ若中だった頃からの知り合いで、おそらく他のやくざ仲間よりは、仲がいいほうだと自負している。あだ名で呼び合い、素の彼も知っているし、四年近く前、初の服役を食らった際も、身分を隠して何度か面会に行った。成田は府内でも比較的存在感のある四代目祭林組で、No.3、自分と同じ若頭補佐の肩書きを背負っている。同世代でそこまで上り詰めた極道はほとんどいない。向こうにはないだろうが、俺は勝手にシンパシーを感じている。でも、俺よりずっと、成田は出来のいい男だ。特に地頭がよく、仕事がすこぶるできる。自分がもし彼と同じ組に配していたら、同じ立場にはけしてなれなかっただろう。極道を稼業にする男に使うのもおかしな気はするが、成田は真面目でよく気が利く。やくざになる前はヒモだったそうだが、案外ワーカホリックの気があるような、仕事は手を抜かず、なにより優先して取り組む姿勢を見せていた。
     だからそう、仕事のスケジュールを二の次にして、パパ活をするような男ではないのだ。
     俺は少しの間を置き、彼らの後を追った。オールバックに整えていた髪をわざと崩して、ネクタイをポケットに畳み、胸元のボタンを緩めて、念の為腕時計も外しておく。これである程度、個人を特定できるポイントは消せたはずだ。喫茶店のドアを開くと、ウェイターがこちらに寄ってくる。何名様ですか。訊かれる前に人差し指を立てると、「お好きな席へどうぞ」だそうだ。ランチタイムもティータイムも外した十四時すぎ、ピークの隙間である店内は、点々としか客がいない。くだんのふたりはいちばん奥のテーブル席にいた。カタギの男子大学生が上座で、成田はその真向かいに腰を落ち着けている。左腕を背もたれに回し、男の子の背中にある鏡を、ちらりと一瞥している。まるでボディーガードのようだ。大学生を守るように……いや、少し違うか。誰にも見せたくないような意図を感じる。
     どんだけ入れ込んでんだよ、俺の知らない間に。視線の警邏に引っかからないよう、入ってすぐに席に座り、俺はひとまずコーヒーを頼んで観察を続けた。距離があり、大学生の声がちいさくて会話の内容まではわからないが、雰囲気は和やかだ。カタギの学生はコーヒーカップの中身を啜り、つまらなさそうな顔で成田に言い返している。パパ活なのにそんな態度でいいのだろうか。けれど成田は別段不満を示すこともなく、むしろ嬉しそうにしている。眇めた瞳の、なんと穏やかなこと。大学生の背中におおきな鏡があり、成田の表情はよく見えるし、彼はなぜかやや張り気味に話していて、俺のところにまではっきり届いた。
    「ええやん、カラオケ行く前の腹ごなし。カラオケのまずいメシより、ずっとここのが美味いねんで。ほら、空港でおにぎり食いきらんと飛行機乗ってしもたやろ。……ああ、うん、俺が邪魔したからやな。ごめん、ごめん」
     成田狂児という男は、あまり感情表現が豊かでない。元ヒモのくせに愛想笑いもまともにできず、常に全身が凪いでいる。やくざになってから、声や表情の使い分けを学んだそうだ。プライベートでは低い声の中身も空っぽで、感情がほとんど乗らずに淡々と話を紡ぐ。本人に脅したり怖がらせるつもりはなくとも冷たくあしらわれているように聞こえる。ちなみに仕事で立ち会ったことがいくらかあるが、実際その気がある場合、トーンは更に低くなり、刃の峰側にいるはずの自分も、寒気がするほど鋭くなる。
     いまの成田の声はなんだ。仕事中の、女の機嫌を取る際のトーンにも似ているが、違う。嘘くさくない。上擦って、子どもが喜びを隠しきれず、こぼしてしまっているような。文脈から察するに、ふたりで大阪から一緒に来たらしい。東京出張に連れてくるなんて、随分可愛がっているらしい。それでいまからふたりでカラオケに行くつもりか。再三言うが、仕事をリスケしておいて。
     いや。もしかして、パパ活ではないのか。新たな可能性を見出したところで、向こうのテーブルには軽食が運ばれた。ふたつのサンドイッチと、二枚のパンケーキ。おおきい。直径何センチか測ってみたくなるサイズ感で、俺にはとても食べ切れそうにない。四十路の腹にはこたえそうだ。
     手を合わせて、ふたりは食事を始める。肘をついて食べるのを成田が注意して、大学生はバツが悪そうだが、「まだ反抗期なん?」と言う成田の一言に、なぜかほのかに笑んでいる。
    「うまい? そう、そらよかった。たんと食べ」
     成田がサンドイッチを一口頬張ったのち、大学生に告げる。「俺、サンドイッチいっこでええから、よかったらこれ食べへん? 聡実くん、足りひんやろ」
     さとみくん。
     さとみ。
     ……アッ! 『聡実』!?
     その一言が、いかずちのような確信をもたらし、俺は思わず顔を思いきり跳ね上げさせた。それがいけなかった。驚いた俺の視線と、鏡のなかの鋭い目つきが、かっちりと重なった。ああ、やってしまった。もしかしたらいまのは罠だったのかもしれない。入店したと同時に気付かれていたとしたら、俺はあまりにも間抜けだ。
     鏡のなかの瞳は瞬間的に絶対零度に冷えている。それから大学生に目を戻し、「俺ちょっと電話してくるな」と一声かけている。やさしい言いかただ。俺はコーヒーを仰ぎ、札を一枚伝票に重ねて、さっさと店を出た。隣のビルとの合間に身を隠し、壁に背を預けて溜息を吐く。ジャケットの裏からタバコを取り出し、咥えて火を点けたところに、成田狂児は剣呑な顔つきのままやってきた。
    「ハマオがなんでおんねん」
     刺々しい。さきほど、『聡実』にかけていたやさしさはどこへいってしまったのか。俺は紫煙を吐きつつ、こちらだって文句は言いたい。
    「いやいやナリ、それはこっちの台詞だって。俺との予定急にずらしといてパパ活はないだろう」
    「パパ活ちゃうわボケ」
     即応だった。噛み付くような勢いと、眉間の皺が一層濃くなる。なるほど、琴線だったらしい。パパ活とは言われたくないわけだ。
     『聡実』の話は、はじめは成田が収監中に彼の兄貴分から聞いた。年に四回開かれる祭林組のカラオケ大会で、ビリになるのを恐れた成田が、なぜか合唱部の中学生を講師として引っ張ってきた。岡聡実くん、十四歳。交流した約二ヶ月の間になにがあったかはわからないが、大会当日、同期のヤク中に襲われた成田を死んだと思い込み、大会にカチコミをかけ、彼に向けた鎮魂歌を熱唱した。変声期間際の最期のソプラノを、その子どもはそこで使い果たした。たった二ヶ月、カラオケで会っただけのやくざのために。
     成田は成田でその子どもを妙に気にかけていたらしい。その夏、初逮捕された罪状の傷害罪は、襲ってきたヤク中が、成田本人ではなく、その子どもを狙ったかもしれない懸念に発端するようだった。なんでもセンチュリーにミニバンで衝突してきたが、運転席側でなく、助手席側……いつもその子どもが座っていた側を狙って突っ込んできた。成田は潰れた助手席を見た直後から、顔の原型をなくすほど殴られたあとのヤク中を見下ろすまでの、記憶が飛んでいる、と証言したそうだ。
     服役中、成田はなにか考え込んでいる様子だった。なんか悩みごとか。会うたびはぐらかされた質問は、出所後に会った真冬の二月に、ようやく答えを貰えた。――ずっとな、頭んなかにあの子の「紅」が残ってんねん。一言一句、一音も忘れてへん。いまもや。
     しきりにさする右腕の皮膚には、とうとう歌ヘタ王になってしまった王冠の二文字が刻まれている。成田自身が、組長に言ったそうだ。これがいいです。これにしてください。
     ――もう、俺の魂みたいになってしもた。ほんまに蘇生させられたみたいやねん。他の誰かじゃあかんかった。あの子やったから、俺、こないになっとる思うねん。嬉しくてたまらん。幸せやと思う。他のなに奪われてもええから、俺のなかにあるこれだけは奪われたない。あの子があんなに大事にしよったもんなのに、ひどい話やろ。そんなん捨てなあかんのに、なんでかできひん。もうぐちゃぐちゃや。
     弱々しい声は、傷害罪に対する罪悪感よりずっと重たいものを背負っていた。後悔と、自身への怒りで潰れそうになっていた。服役中は一切連絡を断っていたようだった。当たり前だ。子どもはカタギの十代で、やくざに関わっていい存在ではけしてない。もう二度と会わないのだろうと思っていたのだが。
     ふと、約束を変更する電話を思い出す。珍しく焦っていた。早口で一方的に捲し立てられて、こちらが応じる前に切れてしまった。かけ直したが繋がらず、もしかして偶然の再会だったのだろうか。
     ああ、そういうことか。会うつもりはなかったが、偶然見かけてしまい、遠目から眺めるだけでは気が留まらなかった。いま捕まえなければ、二度とチャンスは来ない。そのチャンスに向かって、成田は賭けたわけだ。
    「デートの邪魔して悪かったよ」
     紫煙を吐きながら言う俺に、僅かに険しさを解した成田は「デート……になっとったらええけど」と迷うようにひとりごちた。なんだそれ。詳しく訊きたかったが、成田はちらちらと店内を気にし始めているし、俺としても『聡実くん』を待たせてしまうのは申し訳ない。
     短くなったタバコを携帯灰皿に押し付け、俺は続けた。
    「今日見たもの聞いたもの、ぜんぶ忘れると約束する。ただ、俺から一個だけアドバイスさせてくれ」
    「なんや」
    「おまえそのやくざ丸出しの格好で聡実くんと会うのやめろよ。特に俺のシマでは絶対やめてくれ。わかってるだろ」
     今日、成田との会合は、組長には内密にしているものだ。というのも、祭林組と良好関係にあったのは先代で、八年前に急逝してしまった。急遽継いだ跡取り息子はあまり能がなく高圧的で、他の組との関係性を悉く歪ませている。そのおかげでシノギにも影響が出ており、このままでは立ち行かなくなってしまう。残念だが、頭を取り替えよう。若頭が舵を取り、クーデターを企てた。裏で準備を整え始めて一年半、実行の時期が近付いている。気は抜けないが、ほぼ間違いなく成功するだろう。その前に、いちばん懇意にしていた祭林組から順に、報せを打っておくことになった。今日の会合は、そのためだ。
     とりわけ祭林組を、当代組長は目の敵にしている。代替わりして、真っ先に関係を絶とうとした。祭林組は少数人数ながら全員が知恵を使って、上手にシノギをこなしてかなり稼いでいる。そういう組自体の姿勢が気に入らないらしい。自身の頭の悪さをある程度自覚しているのだろう、要するにただの妬みだ。
     成田狂児は祭林のもはや顔、看板と言っても過言でないほど、各地で知られている。その成田が自身のシマに現れたことを知ったら、あの組長は声高に「祭林がシマを侵犯している」とケンカを吹っ掛けかねない。
     成田は神妙な顔で、「わかってる。すまん」と言った。この喫茶店を選んだ理由は、「さ……あの子が、なんやテレビでここ観たらしいねん。でかいパンケーキあんねんで言うて、案内してくれた」だった。ああそう。だからあれほど強く警戒していたのか。
    「ほな、また夜に。悪いな」
    「ああ。聡実くんによろしく」
    「……名前、呼ぶんやめろや」
     最後に若干の威嚇だけして、成田は店内に戻っていった。
     俺は再びタバコを咥えて火を灯し、ふっと紫煙を立ち上らせる。
     成田は収監中、あの子どもの最期の歌声を手放せないことを、「ひどい話」だと自虐していた。でもあの行動は、あの子にとって本望だったのではないだろうか。それに、手放せないのはきっと、歌声だけではないだろう。
     頭のなかはまだとっ散らかっているのだろうか。その感情にはきちんと名前があるが、成田は気付いているだろうか。まあ気付いているから、「デートだといい」なんて台詞が出てくるのか。
     ではもうひとつ。あの喫茶店のテーブルは昔ながらで狭い、あの子もわりかし背が高そうだったので、机の下で互いの膝が当たっていたのではないだろうか。本来興味のない相手であれば、触れないように位置をずらして座ると思うが、あの子は気にせずパンケーキを頬張っていた。それからふたりの雰囲気は、パパ活かと疑念を抱きたくなるくらい、親密で、且つ甘ったるさがあった。雰囲気はひとりでは作れない。気付いているだろうか。
     夜に会うのが楽しみだ。仕事の話より、そちらのほうが俄然気になってきた。四十過ぎたやくざのコイバナなんて耳が腐りそうなコンテンツだが、それが成田狂児の話であることと、あれほど初々しいと、酒が進むいいツマミになりそうである。

    愛の芽生え

    「カラオケ行こ!」と誘われたわりに、東京に着いて連れていかれた場所は、喫茶店だった。羽田からモノレールとJRを乗り継いで降り、栄えた街並みを背後にして裏道に潜っていったところにある。古めかしい風貌の、いわゆる純喫茶という括りの店だろう。なぜここに。訊くと、「飛行機昼やったし、腹減ってるやろ。ここな、パンケーキが美味いねん」とのことだった。この立地なら、互いのホテルまで数駅程度で、移動もしやすいだろう、と続いた。大阪の空港で、上京後のスケジュールを訊かれて適当に答えてはいたが、それですぐにこの店がピックアップできたのだろうか。
    「東京、よう来るんですか」
    「年に一、二回くらいな。ここ、若頭のお気に入りやねん」
     と言ってから、「あ、やくざ関係ないで。フツーのお店。安心して」と小声で弁明された。
     案内された席はいちばん奥、聡実が奥の席に座り、狂児は向かいに腰を下ろした。カーテンに透けて陽の光がよく差し込む、明るい店だ。窓際には色とりどりのチューリップが飾ってあり、店主の好きな花だと言う。
     聡実は薦められた通りにパンケーキを、狂児はサンドイッチを選んだ。狂児が店員を呼び、オーダーを通したあと、しばらくの間が空く。灰皿が置いてあるのに、向かいの男はタバコを吸う気配もなく、じっと座って聡実を眺めている。
    「なんか僕の顔についてますか」
    「いや。一生見てられるなて思て」
     なんやねんそれ。ランチタイムを外した十四時過ぎ、自分たち以外に客はいない。しいんとしたしじまがふたりの間に横たわる。
     話したいこと、訊きたいことはたくさんある。いまの発言の意図もそうだが、三年半、どうして会いにきてくれなかったのか。連絡も途絶えてしまったのはなぜか。どうして今更、会いにきたのか。腕に自分の名前なんか入れて、どういう意味なのか。頭のなかを席巻するそれらのなかから、聡実の口が紡いだのは、「オールバックやめたんですか」だった。
    「ん? ああ、やめたっていうか、あれハクつけるためにやってるっていうか」
     やくざに成りたての頃、よくアニキたちから指摘されたという。狂児は顔が整っていて、若く見える。その分歳を取っても貫禄がつきにくい上に、どうも極道には見えにくい。髪を上げて、らしくしておけ、と指示を受けて、素直に継続していたそうだ。
    「あれ、結構大変やねん。俺の場合毛が強いから、ポマードって整髪料ベッタベタにつけて、力づく」狂児は億劫そうに説きながら、櫛で前髪を後ろに撫でるふりをしている。「いまは別に、やくざの仕事中やないから」
    「所用ある言うてたやないですか」
    「そんときにやるからええんよ」
     いま大変やー言うてたやないか。朝からやっといたほうがええんちゃうん。訝しげに見上げるが、狂児は気にも止めず、左腕を背もたれに回し、先に貰ったコーヒーを啜っている。目線は聡実の背後。壁一面を飾るおおきな鏡だ。なにか映っているのだろうか、と聡実も目配せしてみるが、特になにもない。
     ほどなくして、パンケーキとサンドイッチが届いた。早速お互い手拭きで手をぬぐい、「いただきます」と手を合わせる。サンドイッチは、たまご、ハム、レタス、きゅうり、トマトなどを挟んだものが四つ並ぶ、よくあるものだ。パンケーキも定番で、てっぺんのバターがとろけて、確かに美味しそうだが、サイズがおおきい。聡実の顔ほどある。食べ甲斐がありそうで、きゅるきゅるとちいさく鳴る腹の音を聞き取ったのか、向かいの男がふっとくちびるを解いた。
    「笑わんでくださいよ」
    「食いしん坊はお兄ちゃんになっても相変わらずやね」
     細められた視線に見られていることが、なんだか落ち着かなくて、聡実はパンケーキに目を向けた。フォークを握り、添えられた蜂蜜を表面に垂らしていく。サンドイッチを食む狂児は、咀嚼したあとに皿を聡実のほうに押し出した。
    「俺これ半分でええから、残り聡実くん食べや」
    「ええですよ。自分の分は自分で食べてください」
    「そないに食われへんもん。なあ、食べて」
     聡実は溜息を吐き、仕方なく受け取ることにした。実際、パンケーキはおおきくても薄ぺらい。昼食を逃した空きっ腹には恐らく不足で、サンドイッチが次に控えてくれるのはありがたかった。
     そういえばカラオケに通っていたときも、狂児はあまり食べなかった。聡実がチャーハンや焼きうどんを頼む傍ら、パフェをちまちま食べている程度で、もともと少食なのかもしれない。この図体で。いや、でも確かに背は高いけれど、体格がものすごく厚いかと言うと、そうでもない。隣に並んで歩いていて思ったが、聡実ほどではないにしろ、細身なほうだった。中学生の頃に見ていた狂児は、ガタイのいい、逆らったら勝てなさそうな威圧感があったが、あれは身長差による錯覚だったのだろうか。
     腕見せてきたときも、手首案外細かったしな……見せられたものが色濃く反芻され、聡実はぎゅっと眉をしかめた。忘れたい。口直しをしよう。パンケーキにナイフを入れ、一切れを口に含む。あ、うまい。思わず顔を上げると、目が合った狂児が、満足げに笑っている。
    「な。うまいやろ」
    「はい」
    「たんと食べ」
     頷いてナイフを入れながら、聡実は再び狂児を見遣る。三年半も前の記憶を引っ張り出しながら照合して、変わったもの、変わらないもので分けていく。変わらないもののほうが、多いように感じる。
     背が近くなった分、顔立ちをよく観察できるようになった。彫りの深い目鼻立ち、三年半前、カツ子で祭林組の男たちが、狂児を「ハンサムだ」と評していた意味がよくわかる。人間の美醜にそう興味はないけれど、狂児の顔は、確かに整っている。それから、ちょっと老けたな、と思う。昔はもう少し、頬に肉があったような気がする。減っている。と思う。変わったのはそれと、髪型くらいか。
     相変わらずからだに沿ったスーツを纏い、そう着られるにはからだのサイズを測定し、そのひと専用のものを作らねばならないと学んだ。大学の入学式で着るスーツを、量販店に探しに行った際、店員に教わったことだった。聡実の体型は市販のものでは合わず、少しアレンジせねばならないというところから広がった話だった。全身オーダーメイドのスーツが幾らになるのかも聞いた。
     香りも変わらない。甘いだけではなく、少しの苦味が混じった匂い。甘さは香水で、苦味はタバコの残り香。これも高校生時代、友人たちと冷やかしに行った香水売り場で学んだこと。
     それから向けられるやさしい視線と声色。十四歳だったときも、狂児はけして険しさを聡実には見せなかった。終始穏やかで、はじめのうちは作り笑いが多かったけれど、次第にちいさな子どもを見るような慈しみが含まれていった。低音声のなかにも、やさしく話そうと努めているように感じた。会えなくなる直前まで子ども扱いだったかと思っていたが、最後は違った。カツ子で別れるとき、あのときにはもう、瞳も声も、いまのような甘い温度を含んだ類いだったように思う。
     狂児にとってはどうかわからないが、聡実にとっての三年半は長かった。心身ともに、たくさんの変化があった。彼の変わらないもののなかに、知らなかった事実を見つけられる知見を、得られるくらいには。
     長い三年半、待たされた挙句、なにも言わない狂児に、ぶつけたいことは山ほどあった。隣に座られた瞬間、弾けた激情は、羽田までにフライトの間に、なんだか落ち着いてしまった。
     もう、いいか。なぜ会いに来てくれなかったのかわからないけれど、今日会いに来たので、もういいか、と思った。いつか話してくれたらいい。なにより狂児は生きていた。狂児のまま、生きていた。無意識に周囲への警戒心を張り巡らせ、威嚇してしまうほど、相変わらず芯までやくざ。歌ヘタ王になってしまって、罰ゲームには重すぎる刺青を彫られ、再び聡実に指導を仰ぎに来た。表向きは。
     狂児はリスタートを、三年半前と同じ始めかたを選んだ。でも、もうふたりの主題はカラオケにはない。狂児の歌が上手くなろうが下手になろうが、なんでもいい。当時の物語と、空白を経た四十二歳と十七歳の物語は、出会い方が同じでも、進む方向はきっと違う。なにせふたりの間にはもう、ひとつの根深い感情が芽生えている。これから始まる物語の主軸は、そこにある。
     狂児、狂児が言うように、僕はもうお兄ちゃんやねんで。十四歳の子どもとちゃうねん。狂児が僕を見る目にあるもの、言葉の奥に隠すもの、知ってんで。知ってる上で、変わらずやくざやってるあなたと、いまこうして向かい合う道を選んどることに、はよ気付いてや。
     ひとまずは、あの夏で終わらなかったことに感謝と安堵を覚えながら、聡実は再びパンケーキを頬張った。