狂聡ログ③ / 狂聡

20210912

  • ……やくざのお仕事をするきょうじ。モブ視点。空港前です。
  • じいちゃん……さとみくんに会いに行く前にじいちゃんの墓参りをするきょうじの話。空港前です。
  • addicted……きょうじがさとみくんのからだに残す手形の話。
  • 俺とエッチする前に必ずお聞きください……きょさと初夜直前の会話。エッチがうまくないと自負するきょうじの話。
  • ラブレターにもなれない……ファ。のきょうじのラインについて。狂→(←)聡。
  • プラネタリウム……ファ。一話ネタバレ。さとみくんが部屋でプラネタリウム投影機を使う話。
  • マメシバ……酔っ払ったさとみくんとシラフのきょうじの会話。
  • crazy about you……きょうじ誕。
  •  EDMの腹に届く重低音がけたたましく鳴るなか、ドアを開いて入ってきたその男は、場に似つかわしくなかった。もっと重厚な、紫煙のけぶるバーにでもいそうな出立ちであった。
     繁華街の一画にある、小ぢんまりとしたクラブは若年層向けで、レーザービームが四方八方から飛び交い、若くかしましい雰囲気に満ち満ちている。対して男は三十代後半から四十代、生地の質がよくわかる黒地のジャケットとスラックス、明らかにオーダーメイドだろう。首元までネクタイを禁欲的に締めて、グレーのベストを着込み、やはり上質な革靴を鳴らして人波を掻き分けていく。背後に三人ほど、やはり黒いスーツを着て、シャツは少し着崩した若い男を引き連れている。BGMも騒がしさも収まりはしないが、男が歩く道筋の周囲だけ、ひとがしんと静まり、彼らを避けていく。
     誰、と密やかに隣の友人に確かめる女の声は、僅かに上擦っていた。彼女は今夜、はじめてここに訪れた。運が良い。男は騒がしい場を好まず、滅多にここには顔を見せない。
     男は目を惹く整った肢体をしている。背が高くすらりとした体型に、のっかる顔は一昔前の俳優みたいに端正だった。艶やかな黒髪はオールバックでいかめしく、彫りが深く、案外おおきな黒い目、高い鼻、厚めのくちびるにはうすら笑い。クラブの常連であった友人はひそひそと彼女に耳打ちした。ここのオーナーだよ、どっかの組の幹部だって聞いたことある。
     そう、よく知っているじゃないか。おれは男に夢中になっている彼女たちをよそに、気配を隠して席を立った。スタッフルームに繋がる裏へ消えていく黒い背たちに混じって、ドアを閉めたところで「成田さん」と声をかける。隣に並び、小声で告げた。
    「キャバの子ぉたちよう知ってましたわ。なんや急に羽振りがようなって、えらい貢ぎもんしはってるみたいで。写真もいくつか見してもらいましたけど、五十はする指輪が混じってます。あいつが買える代物じゃありません」
    「ほぉん。なんやプロポーズでもするつもりやったんか」
    「さあ。でも、急にそんなごっついもん持ってくるから、怖くてようつけられへんて、しまいこんでる言うてましたけど」
    「はは、賢いなあ。危険予知の本能がちゃんと働いとるわ」
     男――祭林組若頭補佐・成田狂児は小さく肩を揺らし、彼が不在の間、オーナー代行を任されていた男の所在を尋ねた。そうたいした規模のクラブでもなかったので、代行を命じた男は部下のなかでも若手の組員だった。今頃組所有の廃工場あたりで、ことのあらましについて、丹念に詰問されているところだろう。
     まあ、ある程度の全貌は、訊かずとも既に見えている。成田さんはつい先月まで傷害罪で三年近く服役しており、ことの始まりは彼が出所する半年前だった。年単位での上司の不在、オーナーを任されて気が大きくなり、動く金の大きさに――成田さんからすれば端金だが――目が眩んで、バレないとでも思ったのだろうか。もしくは彼が出所後、逃げおおせればいいとでも勘違いしたのか。オーナー代行をしていた組員とクラブの雇われ店長は、悪さを企み実行した。
     スタッフルームのドアを、男はノックし、応えが返る前にノブを回した。オーナーが来店した報せはとっくに届いていただろう、怯えきった店長は、ソファに座ってスマートフォンを片手に、おおきく目を膨らませてこちらを見上げている。組員に連絡を取っていたのかもしれない。残念、彼のスマートフォンはもう粉々になっている。
    「な、成田さん。どうしたんですかこんなところに」
    「お疲れさん。いやあシャバに出てきたから、一応挨拶回りしとこかな、思て。えらい迷惑かけてすんません」
    「い、いえ……」
     成田さんは向かいのソファに深く座り、「繁盛してますやん」と世間話を始めた。低音で、わざとらしく明るい抑揚のついた声は、相手の警戒を少しずつ解いていく。おれは聞きながら、こいつアホやなあ、とソファの後ろで店長を見下ろした。どう聞いたって作った声だ。だからこそ、まるでスイッチのオンオフみたいに、一呼吸の前後で声のトーンが変貌する。
    「それでね」と話を切り替える成田さんの声色は、既に低く研ぎ澄まされ、刃を伴っていた。
    「噂を聞いたんよ。知りません?」
     びく、と店長のからだが震える。「ど、どないな噂で」
     成田さんはジャケットの裏からタバコを取り出してくわえた。咄嗟に店長がライターを差し出すが断り、後ろのおれを指先で招いてくる。ジッポを鳴らして火を灯すと、深く吸い込んだ紫煙を、ふう、と溜息混じりに吐き出した。
    「どっかのクラブの店長が、売上ちょろまかして自分のポケットマネーにして好き勝手遊んどる、って」
    「あ、……は、はは、アホですねえそいつ。バレんはずないのに」
    「そう。アホやねん。突然金持ち始めるやつを、金の価値をようわかっとる夜の人間が怪しまないはずがないやろ」
    「ほ、ほんま、ほんまですわ。アホやなあ。はは」
    「なんや、自分でようわかっとるやないか」
     声が更に低くなる。成田さんは膝に頬肘をつき、にっこりを目を細めて笑んだ。「おまえの相棒なあ、逃げる準備しとったけど、なんでこんなはよバレんねん思た? アホやなあ。俺がおらんでも、俺の代わりが働かんでも、街はさ、ちゃあんと見とるもんやで。いつもと違う行動をするやつは目立つ、その行動には必ず理由があって、大概ろくでもない。ほんで、おまえみたいに他はボケてないから、頭が誰か、どの勢力にひっついておけばいいか、起きたことに対してどう立ち回れば自身が安全か、よぉわかってる」
     はじめに彼らの裏切りを、祭林組が知ったのは、ことが起きた半年前だった。彼らが悪さを始めてすぐに、怪しんだキャバクラの女からタレコミがあった。……あのひと、キョウちゃんのクラブの店長やろ。最近よう遊びにくんねんけど、だいじょうぶ? 上納金の回収中に話を聞いた組員が、すぐに組に報告した。成田さんはまだ服役中だったので、彼の前にオーナーをしていた小林さんに話したところ、出所してくるまで泳がせておけ、との答えが返ってきた。「あいつオイタすんの二回目やねん。一回目はしょっぼい悪さやったけど、今回はあかんわ。狂児にシメさしたらええ」
     その頃はまだ数万円だった“ちょろまかし”は額を次第に増やしていき、桁をあげ、総額は百万単位になっているだろう。成田さんは出所すぐにその話を聞き、「なんではよ釘刺してくれへんねん」と小林さんに悪態を吐いていたが、「いい運動になるかな」とうす笑いでぼやいていた。
     シメる、と言っても、成田さんはそう易々と物理的な暴力を振るわない。手が汚れるのが嫌なのだそうだ。下っ端だった若い頃は、手やら足やら道具やら使って、人間を痛めつける仕事もあって、体格の良さもあり、また容赦がないので、ケンカもたいそう強いとも聞く。
     いまの彼の武器は、声と表情だ。元来一般より低く、からだの内側まで響きそうな声は、ひどく耳に残る。責め立てられた者は、抑揚のつけかた、発する言葉により、冷徹な刃にも、執拗に締め付けてくる蛇の尾にも感じるだろう。加えて整った面立ちが、温度をなくして見つめてくる威圧。拳やハジキなんかよりも一生涯忘れられず、向けられた者たちは苦しみ抜くことだろう。
     笑みは崩れないまま、双眸と声色は冷え切っている。成田さんは店長に手のひらを差し出す。
    「帳簿。見せてください」
    「い、あ、あの、ちゃんとお金はお戻ししますから」
    「あかんあかん。あんたが提示する額を、こっちが鵜呑みにできると思います? こっちで洗いざらい確認してから、きっちり請求さしてもらいますから。そのほうがお互いきれいさっぱり、安心でええやろ」
     とん、とん、と指の甲が、テーブルを叩く。店長が冷汗まみれになりながら、それでも動きあぐねていると、「なに出し惜しみしてるん? もしかして、俺らの知らん余罪があるんかな」と楽しげな言い方に反して、声が一段と低くなる。聞いているこちらがぞっと背筋を凍らすくらいに。
    「おまえの脳みそ、いますぐ開きにして見たってもええねんけど、嫌やろ。やったら」
     いよいよ成田さんの笑みが失われた。続く一言は短くも重みを増し、矛先を正確に向けて、大罪人の胸元を一気に抉る。
    「はよ出せや」


     ◆◇◆


    「アニキに教えてもろたんや」
     簡単にちらほらも捲っただけでも、帳簿は余罪がたんまりあることをよく示していた。明日は一旦店を閉めて、金の動きをすべて確認することとなり、店長の身柄は拘束して一旦きりをつけ、成田さんを自宅に送迎中だった。
     どうやってその声や表情だけで、相手をあそこまで脅かす術を習ったのか。気になって問うてみる。どうやら小林さんの直伝らしい。あっちのがもっと恐ろしいよ、と教えられた。あの明るく快活な小林さんが。小林さんの取り立てには付き合ったことがないので、想像がうまくできなかった。
    「おまえは耳に残る声しとるし、顔もまあ整ってるから、それつこたらええんやないの、て言われて」
    「ああ、確かにええ声されてますもんね。低くて、なんや、心臓にクる言うか」
     途端、成田さんの瞼が、ひくりと震えた。「心臓……」
    「あっすんません。気に障りましたか」
    「いや。……そう言うた子が、おったなあて思て」
     ミラー越しに見えた成田さんは、目を伏せ、窓の向こう、走り去る夜景の向こうに、なにかを見出そうとしている。彼の一等の武器であるところの声は、トーンを低くしたものの、さきほどと違って感情を纏っているようだった。さみしさを訴えるような、あるいはいとおしさを囁くような、甘ったれているような、そういう。
     成田さんが“子”と評し、そんな声を発する相手は、たったひとりしかいない。彼の右腕に刻まれた名を持つ、ひとりの青年。三年前の夏、年四回行われる組総出のカラオケ大会に乱入し、成田さんの死を歌で悼んだ子。あのとき立ち会った組員全員が、あの歌声を未だに忘れられない。捧げられた本人である成田さんは、もっと囚われているだろう。出所してもなお、時折その子を探すように、景色を眺めている。
     けれど、もう会いに行かないのだと言う。確かに、カタギの十代にやくざの四十代が関わるのは、前者の人生を大きく狂わすことにはなると思うけれど。
    「おれもがんばって真似して低い声出してみよかなあ」茶化して言った台詞に、成田さんが軽く笑って、「おまえのガスガスの声で凄まれてもなんも怖ないで」と言った。ひどい話だ、好きでこんなハスキーボイスになったわけではないのに。
     会話が止まり、成田さんがスマートフォンを開く音がする。おれはハンドルを握り直し、運転に気を向けつつ、かの青年に、こっそり思いを馳せる。
     もうとっくに、彼の人生は狂っているのではないだろうか。だってあの歌声は、成田さんに向けたおおきな感情を表していた。おれは生まれつき片目が不自由で、代わりに聴力が常人以上に発達しているから、声から情報を取り入れることが多い。あの歌声も、成田さんが彼を想って紡ぐ声も、互いを求めてすれ違っているように感じる。胸をかきむしりたくなるような気分になった。
     このままではきっと一生忘れられない、ふたりして。大体あんな歌を捧げたにも関わらず、放っておかれるほうがしんどいと思うのだ。会いに行ったらええのにな。やくざかて恋はするもんやし、そらカタギに手を出す覚悟は要るかもしらんけど、そんであんたのそのええ声ふんだんに使ってさ、口説いたらええのに。あの子絶対あんたのこと好きで、もう手ぇ取る覚悟できとって、きっとそうされることを望んでんねんて。あれはそういう歌声やった。
     でも上司にそんな口は聞けないので、おれはせめて、ミラーにひっかかっている、ぼろぼろのアホみたいなお守りに、強くお祈りしておいた。

    じいちゃん

     およそ四年ぶりの墓参の空は、春の入り口にしては爽やかなスカイブルーで彩られていた。雲ひとつなく、突き抜けるように鮮明で、夏空じみたまばゆい色が頭上を覆っている。先週まで雪雲がしつこく腰を据え、重たく灰色に澱んでいた名残は、露ほどもない。今日会いに行く男が、根っからの夏男且つ晴れ男であったことを思い出す。
     車を降りると、外は陽気が満ちていた。夜明けに家を出てから、一仕事して花屋を経由し、五時間ほど経っている。陽がのぼれば、シャツ一枚で充分なあたたかさになる。ついこの間まで冬だったくせに、随分と春らしい気候になってきた。拾いかけた後部座席のコートは置いたままにして、狂児は墓地に足を向ける。


     墓跡が並ぶ寺の一画には、まったく人気がない。盆でも正月でもない時期、更に人目を避けるためにわざわざ早朝に来た。一応黒のスタンドカラーシャツを選び、一般人の装いを整えてきたつもりだが、職業のオーラがたちまち消えるわけもない。万が一にも肌を見られたら、騒ぎになる。もしくは、親戚や昔の知り合いに会うとも限らない。
     三月も真ん中を過ぎ、桜の蕾がぽつぽつと花を開き始めている。実際の命日はもう一週間ほど前にあたった。当時、狂児は、春休みの最中にかの男が危篤だと報せを受けたとき、授業中やなんかでなくて良かったと思っていた。家から距離のある高校に通っていたので、会いに行くまでの時間を、歯痒く感じただろう。報せをもらってすぐ病院に行き、彼は間もなく息を引き取った。きっと学校にいたら、臨終にも間に合わなかった。
     正月頃に母が供えたのだろう、墓前の花は水気を失い、こうべを垂れてしまっている。狂児は乾いた花を抜き取って、手持ちの花と入れ替えた。古い花は包み紙に並べて避けて、墓石の頭から順に水をかけて、花瓶にも、できるだけ花が長持ちするよう、水を少し足してやる。
     それから膝をついて、ワンカップとビールが並ぶ列に、タバコをひとケース加えておく。彼の愛飲していた、いまは自分がしつこく嗜んでいる銘柄。マイルドセブン、いまはメビウスのロング、10mg。いつもはあとは手を合わせて帰るのだが、今年は少し、ここに眠るひとと声を交わしたかった。
     狂児はタバコのパッケージをほどき、一本抜き取って火を点けた。吸い口を墓石に向けて、ビールの隣に添える。そういえば、こんな風に火を灯してやることもなかった。彼は、祖父は、子どもの前でも平気で喫煙するおとなであったけれど、高校二年時に亡くなるまで、ライターを狂児に預けたりはしなかった。子どもにそんなことさせられんわ、と笑って。
     やくざに就いてはじめに教え込まれたのが、タバコに火を点ける作業だった。先輩や幹部が胸元を探ったら、タバコを吸う仕草をしたら、すかさずライターやジッポの火をあてがう。少しでも遅れると叩かれたり殴られたりと、厳しく教えられた。おそらく、上下関係をからだに染み込ませるためだろう。やくざは体育会系そのもので、いまどき笑ってしまうような縦社会だ。そういう価値観の地盤は、頭ではなくからだに構築していく。躾のように。その甲斐あって、いまはもう、反射でからだが動く。
     はじめて教わったときに、よぎった記憶がまた蘇る。着火しながら、ああじいちゃんにやってやりたかったな、と僅かに感傷したことも。
    「もうじゅうぶん成人したから、ええよな。……長いこと禁煙させて堪忍な、じいちゃん」
     京一も京子も、少なくとも狂児が家を出るまでは吸わなかった。自分以外に供える者はいないようだった。命日に狂児が供え、次に来るときにはないから、母か誰かが盆あたりに回収しているのだろう。もしくは盗られているか。とにかくそのルーティンが、狂児の不在により三年ほど崩れて、ベビースモーカーだった祖父は、天で苛立っていたに違いない。祖父は肺を患って苦しんで死んだので、母親たちはもしかしたら、その意趣返しのつもりで供えないのかもしれないけれど、死後くらい好きにさせたらいいと思う。死んだらどれだけ吸ったってもう臓器は傷まない。禁煙する理由がない。
     祖父に声をかけるのは、家を出ていく日に、仏壇に別れを告げて以来だ。二十年以上経っている。毎年毎年、墓前にタバコを置いて、手を合わせるだけ合わせて、黙って立ち去っていた。いまの自分がなにをしているかも、なにも言わなかった。でもきっと、とっくに知っているだろう。祖父はそういうひとだった。とはいえ、まずはここから、きちんと自分の口から、告げておかねばならないと思った。
    「俺な、いま、やくざやねん」
     携帯灰皿に灰をはらって、狂児はぽつりと口を開く。――仁義なき戦いみたいな、あんな暴れること滅多にないけど……萬田はんみたいに金取り立てるほうが多いかな。じいちゃん、任侠映画好きやったやろ。若頭補佐って、わかる? 組長の次の次くらいにえらいねん。じいちゃん、よう俺のこと、かしこやな〜出世すんで〜って褒めてくれよったけど、ほんまに出世した。じいちゃんがたっかい車やでって教えてくれたセンチュリーに乗って、たっかい時計つけて、たっかいスーツ着てる。じいちゃんすごいな。先見の明っていうの、あったんかな。
     名前をな、組長が気に入ってくれてん。俺、スカウトやったんよ。やくざになったの。それまではずっと、ふらふらしとって……まあ、声かけられるきっかけはちゃうねんけど、狂児って、ええ名前やなって、やくざにぴったしないかつい名前やって言うてはった。


     紫煙を空に吹いて、狂児は立ち上っていく煙を眺めて続ける。――ずうっと言われへんかったけど、俺、ほんまは漢字をずっと直してほしかったんよ。母さんにも、じいちゃんにも。狂児って漢字でいじられることたくさんあって、名前負けすなって背中押されたけど、でもやっぱりしんどかった。嫌やった。京二が良かった。嫌いやった。そう、嫌いやってん。狂うなんて名前に使う漢字やあらへん。そんなんがあるから、俺はずっと人生落ち着かんと、真面目に生きてんのに、なにかボタンを掛け違えてるような違和感に苛まれてんねやって、ずっと腹立ってたんや。
     でもさ、ちゃうねんな。たぶん、名前関係ないねん。狂児も京二も関係なく、俺はそもそも俺やから、明るい道は不向きやったんやな。やくざの先輩……ほら、任侠映画でもアニキアニキ呼ばれてるひとらおったやろ。俺にもそういうひとがおんねんけど、そのひとが言うたんよ。名前関係あらへんよ、愛って名前やってひどいやつおるし、正義ってつけられても悪いことして死ぬやつもおる、言うて。そらそうやなって。狂うって名前に入ってたって、狂うかどうかは俺の選ぶことやもんな。俺は望んでやくざになったし、やってみて自分に合う世界やと思うたし、実際周りにも才能あるって褒められてるし、幹部になってしもたから、そういうことやねんなって。
     生後十日で人生いじられた気ぃしとるけど、あのまま京二ってつけられてたからって、ふつうに就職して結婚してって人生送れてたかわからんし、よしんば送れてたにしても、そっちのが逆に変な感じがずっとしたままやったかもしれへん。
     じいちゃん、ごめんな、いろんなことじいちゃんのせいにして、俺生きてた気がすんねん。でも、いまはこの名前、好きやよ。やくざになったんも後悔してへん。やから、そのことについては、誰にも謝るつもりないよ。謝らせるのも、責任を負わせるつもりもない。俺は俺の道を歩いてるだけ。そんだけやから。


     狂児は短くなってしまった互いのタバコを灰皿に押しつけて、ひとつ溜息を挟んだ。話、変わるけど。
    「じいちゃん、俺にずっとしつこく言うてたことあったやろ。おまえはハンサムでガタイがでかいから、ボンキュッボンのええ女捕まえそうやな〜って。誰かおらんのかって。
     おったよ。ボンキュッボンやなくて、ひょろっとしとるし、女やないけど。捕まったん、俺やけど」
     じいちゃん、俺、いま好きな子おんねん。はじめてできた好きな子やねんけど、俺やくざで、その子いま、……高校三年生やねん。親子ほど離れてる。びっくりしたかな。びっくりするよな。でも、ほんまに好きやねん。
     好き、と繰り返しながら、不思議と左手は右腕をさする。いとしい子の名前を刻んだあたり。狂児は続けた。
    「会いに来るの、空いてしもたんは、服役しとったからやねん」
     下手こいたんとちゃうよ。あれは、俺にとってはつけなあかんケジメやった。あの子を傷つけるようなことをされて、あんなに怒ったん、生きとってはじめてやないかな。頭に血が上ると、ほんまに視界って真っ赤になるんやね。頭痛がして、からだが熱くて、なんも考えんと手を出した。ボコボコにのしてから、あ、俺これ捕まるわ、ってやっと思って、前科ないまんまここまでおって、うまくやってたから、サツのほうも混乱しとったなあ。なんでおまえ、傷害でくんねんアホ言うて……。


     狂児は再びタバコをくわえ、ジッポを跳ねた。祖父にも添えて、ふたり分の白い煙が棚引いていく。深く吸い込んで吐き出し、額を支えるようにして、狂児は俯いた。「じいちゃん、俺、明日、その子に会いに行くんよ」
     その子な、名刺渡して、一発目に「狂児さん」って下の名前で俺のこと呼んだんよ。大体のひとが初対面って苗字を選ぶやんか。中学生やったし、友達感覚やと名前で呼びたなるんかな。そう思って、でも気になって、あとでなんでって訊いたらさ、「狂児って名前のが目についたから。一回で覚えられたし、あと、狂児さん、狂児って感じがするから、似合うな〜思て、きょうじって響き、かっこええなって……やからそう呼びたなった」って言うねん。顔真っ赤にして。わけわからんよな。似合うな〜って、なにそれ。
     でもさ、不思議と心地よかったんよ。あの子が狂児って呼ぶ音が、音色、みたいなのが、耳にずっと残ってる。
     服役すること、あの子にはよう言われへんかったから、三年間、一切連絡取ってへん。俺はあの子にとって、急に音信不通になったやくざのオッチャンやねん。迷ったよ。このままお別れしたほうが、あの子のためになるんは間違いないやん。でも、俺があかんねん。あの子がおらな、俺が保たへん。声聞きたくて、俺を見てほしくて、気配を感じたくて、また、狂児って呼ばれたい。呼んでほしい。
     俺のこと、覚えてるかな。忘れてるかな。それとも、やくざとは関われませんって怯えられるのかな。
     怖いよ。会うの、怖い。いまからもう、こないに手が震えてる。
     やから、じいちゃん、昔さ、俺がチビのときに、学校行くん嫌がったときみたいに、背中バチーンて叩いてよ。しっかりせえって。名前負けすなって。ねえ、じいちゃん。


     言いきってから、ふ、と小さな笑みが溢れた。死人に頼むことではない。死者はこの世に存在しないので、頼ったところでなんの助けも生まないのに。
     独りよがりに、壁にぶつけるように、たらたらと喋り過ぎてしまった。灰を落として、そのままタバコごと灰皿に押し付けた。祖父の分も同様に処理して、立ち上がる。よっこいしょ、と勢いをつけて、腰を持ち上げた。祖父もそんな声かけをして、よくあぐらを崩していた。自分も大概歳をとったな、不意にそう感じる。たかだか告白ひとつするのに、死人に縋りたくなるのも、加齢によってどこか脆くなっているのだろうか。
     古い花を包み紙ごとまとめて引き取っていく。
    「じいちゃん、ほなね」やくざになった孫の顔、見たないかもしれへんけど。そう言いかけて、やめた。祖父はそんな風に、狂児を突き放しはしないだろう。
    「また来年」
     挨拶をして、背を向けた、瞬間。


     ごぉ、と音を立て、強い一陣の風が吹いた。


     狂児がよろめくほどの勢いだった。足がもつれて前のめりそうになったのを、なんとかバランスをとって耐えた。……幼い頃、漢字を覚えたての同級生たちに名前をいじられて、登校するのを躊躇う小さな背中を、力加減もせずに、笑いながら祖父が叩いたみたいに。
     振り向いたときにはもう風は収まり、荒れた様子は微塵もなく、穏やかな空に変わっている。

    「じいちゃん、痛い。ちから強いねん、ほんま」
     当時と同じ台詞を吐いて、それから、ありがとう、と口にはせず、天を仰ぐ。狂児は口端をほころばせた。

    addicted

     目が覚めて、聡実は自身を囲う腕から抜け出した。風呂場のなかにある洗面台に立つ。
     本日は三回目のセックスを致した翌朝である。初夜こそ狂児は自分よりはやく起き出していたが、二回目以降はゆっくり寝てもらっている。というのも、普段浅い睡眠が、聡実を抱いて寝ると深くなるそうだ。不思議そうに傾ぐ顔の目元、濃いくま。疲れた顔色。加齢による色素沈着もあるだろうが、毎日の睡眠不良の蓄積結果であることは明白だ。なら、月に一度良質な睡眠を得られるチャンスを、無碍にしないでほしいと思った。とはいえ、仕事柄、気配に過敏な男が、聡実が起き出して目を覚まさないわけはないが、目を瞑るだけでも違う。休まるならできるだけ長く休んでほしいので、聡実は狂児を起こさず、ベッドに置いて、先に出て行く。
     顔を洗って歯を磨き、寝癖と向き合う前に、まず確認することがある。聡実はスウェットのズボンとボクサーパンツを、同時に膝あたりまで下げた。……んー、またついとるなあ。腰回りと両太ももにある、赤い手拓のようなふたつの痕。
     狂児の手形だった。
     自分の手を合わせてみる。ひと回りおおきい手のひら、長い指。相変わらず、でっかい手やな、と感心する。
    「……やっぱあかんか」
     背後の溜息に振り返ると、寝起きの狂児がじっと両手の痕に、消沈した視線を向けている。
    「おはよう」挨拶をすれば、「おはよう」と返るが、声音は暗い。「痛いやろ」と低く落ち込んだ声が訊くのに、聡実は緩く首を振った。肌白な分、派手に見えているだけで、別に痛くはない。怪我の治りははやいほうで、二、三日したらすぐに引いていくだろう。
    「ごめんね」
     スウェットとパンツを元に戻すと、狂児が後ろから抱きすくめてくる。つむじにキスを落とし、腹を囲っていた手が、痕のあたりをやわやわと撫でている。聡実はそのおおきな手に手を重ねて、気にせんで、と返した。
     夢中になってまうねん、とは狂児の弁だ。もともとちからが強く、加減が苦手らしかった。カラオケでよくコーヒーカップをガンガン置いて、ドアの開け閉めもやかましい音を鳴らしているのを見ていた。壊したくないもの、丁重に扱わねばならないものに対しては、細心の注意を払って手を使い、そうっと触れているようだ。
     それでもやはり、意識がうまくできないと、思いっきりちからが入る。聡実に対しては最たるもので、普段触れてくる手先はくすぐったいくらいに優しいのに、セックスとなると一変した。はじめのペッティングは柔らかく、精密機器を扱うような慎重さでまさぐるのに、ことが進むにつれ気持ちが高まり、コントロールが怪しくなる。結果、つながるために聡実の両脚を持ち上げるとき、またはピストンして穿つときには、昂揚して自制が効かず、一晩経っても手形が残るくらいに、強く掴んでしまう。初夜の翌朝、昨晩と変化なくくっきり残る手の痕を見た聡実は、ひとのちからでこないに痕つけれるもんなん、すご、と驚愕しきりだったが、狂児は「きみのこと壊してまう、あかん」とえらく動揺して、二回目の夜まで随分間が空いた。
     たかだか軽い内出血の痕でも、狂児にとっては重罪に等しい失敗だった。自分の手が、聡実に瑕疵を負わせた罪。二度とあってはならず、二回目、三回目と、快すぎて没頭しすぎないよう、歯を食い縛って必死に快感の波に抗っている様子だったが、制御は一度も成功していない。セックスを終えて肌を確認し、ああ、と溜息を毎度吐いて落ち込んでいる。
    「狂児さんはじめてとちゃうやん、いままでの女のひとに怒られへんかったん」
     気になって尋ねた問いに、狂児は苦笑いで応えた。
    「そんな、力加減できんくなるほど夢中になったことないねん。はじめてやわ、こんなん」



     手形の消失は、五度目の夜にようやく果たされたようだ。夢中に夜を過ごして明くる朝、いつものように先に起きて、スウェットとボクサーパンツを下げた聡実は、「あっ」と声を上げた。ない。痕がついていない。
     狂児さん、と呼びに行く前に、本人はもう起き出して、風呂場の入り口に立っていた。昨夜のうちに痕がついていないことはわかっていただろうから、朝になって浮いてくるかもしれない懸念を払拭するために、念の為見に来たらしい。
    「やっとできてん」
     にこにこと機嫌よく、安堵の色を敷いた瞳が、満足げに頷いている。「よかったあ」と小さく呟く狂児の腕が、背後から腰に回った。
    「いままでごめんな。ほっとしたわ。コツ掴んだし、もうせんからね」
     つむじに擦り付けていた鼻先を浮かし、今度は肩のあたりに額をぐいぐいと押し付けてくる。
    「痛い、邪魔」聡実は左手で頭をぐいっと押しやるが、狂児は退かない。聡実を傷つけずに済んだはじめての朝だ、よっぽど安心しているのか、まだ「よかった」と感嘆している。
     別に、ほんまにええのにな。痕がついても。聡実は空いた手で、手形の跡地をなぞった。誰を相手にしても本気にならなかったこの男が、加減ができないほど、聡実に夢中になっている立派な証拠だった。
     鏡を覗く。眉が下がり、名残惜しそうな顔が映っている。折角狂児が喜んでいるのに、僅かな寂寞が胸裏によぎる。――まるで、むしろ痕をほしがっているみたいだ。なんやねん恥ずかしい。アホちゃうか僕。聡実は鏡から目を逸らし、せめて狂児がこちらを見る前に立ち直るべく、俯いて奥歯を噛み締め、瞑目した。

    俺とエッチする前に必ずお聞きください

    「聡実くん、お話があります」
    「? はい」
     真剣な表情で狂児が口火を切った。
     自分たちの初夜を散らすためだけに予約された、都内某所にあるホテルのエグゼクティブスイート。平均よりおおきな背丈の男ふたりが転がってもまだ余裕のあるキングサイズベッドの上、聡実は真っ裸のまま起き上がり、同じく真っ裸で鮮やかな刺青を露わにした男と、正座で向き合っている。
     セックスを始める前に言っておかねばならないことがある、と狂児が急に言い出したからだった。
    「あんな……世の中にはな、エッチがうまくてヒモやれてるやつと、エッチがうまくなくてもヒモがやれるやつと、二種類の人間がいます」
    「はあ」
     なんで敬語、と首を傾げつつ、ひとまず聞く姿勢を続ける。
    「俺が元ヒモやって話は以前したかと思いますが、俺はどちらかと言えば、エッチがうまくないヒモです」
    「そうなんですか」
     どうでもいい。その話いま必要か? 思ったことが素直に顔と応える声に出てしまい、狂児が前のめりに注意してきた。
    「もっと興味持って聞いてや! 大事な話やねん!」
    「興味ないし……」
    「やっていまからエッチすんねんで。俺二十五も上やし、聡実くんを抱かせてもらう立場やん。でもな、ほんまに恥ずかしいんやけど、どうせバレてしまうから先に言うけどな、いままで積極的にエッチしたことないから、その、言うなればほぼ童貞みたいなもんやねんな」
    「仕事でセックスしたりする言うてたやないですか」
    「そんな仕事でヤるみたいなけったいな抱き方で聡実くんに触れられません」
     即答。一息で言うな。
    「真顔怖いんでやめてください」
    「もっと大事に、俺が俺の意思で触りたい、この世でいちばん気持ちよくしてあげたいもん」
    「オッサンがもん言うな」
     思わず今度は剣呑な声になってしまった。が、アンニュイスイッチの入った狂児はまるで耳を貸さない。
    「あげたいけど、無理やから……気持ちよくなかったらごめん。痛くしたらごめん。でもできたら一回で懲りんと、二回三回と継続して頂けたら幸いです」
     悄然と続け、深々と頭を下げられた。なにかの勧誘みたいな口振りだが、なかなか上がらない頭を見ていると、本人にとってはいたく真剣で重い悩みなのだろう。
     アホやなあ。ほんまにアホ。聡実は呆れながら、けれどいとおしげに小さく口端をたわませて、晒されているかたちのいいつむじをつんつんとつついた。
    「狂児さん僕、別に気持ちようなりたくて狂児さんとエッチしたいんちゃうよ」
    「え?」
     きょとんとした目が起き上がる。仕事柄雰囲気が鋭く圧があるせいか、きつく澱んで見えがちな双眸は、案外おおきくて、きらきらと瞬く光を湛えている。眼鏡を既に外していて、視界がぼやけているのもあるかもしれない、と言い訳をしかけて、いや結局一緒やわ、と思い直した。視力が補助されていてもいなくても、いまこの瞬間、狂児かわええな、とこころがときめくことに、きっと変わりはなかった。たとえば真っ黒な瞳も、豊かな髪のつむじも、慣れないながら、不器用に全力で聡実を大事にしたくて足掻く姿も、気持ちも、かわいい。染み入るような心情に、自分の気持ちを不意に再確認して、重々知っているのに驚いてしまう。
    「そら気持ちええに越したことないけど、狂児さんとエッチしたいからエッチすんねん」
    「聡実くん……」
    「せやからヒモの話興味なかってん。それに自分で言うてたでしょ。いままで付き合ってきたひとと、僕はぜんぜん違うって。ならエッチもぜんぜん違くなると思うし……。
     恥ずかしいついでに僕も言うと、僕、狂児さんとのエッチ、ごっつ気持ちようなる自信あんねん。根拠ないけど……説明しろ言われたら、できひんのやけど……。ほんまに自信あんねん。
     せやからたぶん、いや絶対な、心配せんでもだいじょうぶやで」

    ラブレターにもなれない

     空港で再会したあと、狂児は聡実とラインをまた交換し直した。それから一ヶ月強、ぽつぽつとやりとりを続けている。
     三年半前、まだ聡実が十四歳だったあの頃に比べて、交わす言葉数は随分増えたように思う。なにを食べたい、なにしてるの、いつがいい、そういうひとつひとつの問いに、以前は一言しか返らなかったり、下手すると既読だけされてなんの反応もなかった。いまは質問の答えだけでなく、彼の気持ちや、置かれている状況を、仄かに砕けた言葉遣いで、少し付け足すように明かしてくれて、嬉しくてつい浮かれている自分がいる。
     聡実への返信をしたためながら、狂児はふと思い返す。自分が学生の頃は、当然SNSなんてなく、ポケベルを使用して他者とやり取りをしていた。携帯メールを使い始めたのはやくざになってからで、ケツモチ先のクラブのホステスやキャバ嬢やママとやり取りする際、あまりにも無愛想で事務的な文面だからと、小林によく叱られ添削された。
     かわいいなあ、べっぴんさんや、すごいやん、わざとらしく絵文字や褒め言葉、SNSが流行り出してからはスタンプで装飾する。働いてもらわなければならないから、分量も多めに、返事は必ず返す。仕事だから仕方なく送るけれど、淡々と打つその文面を、無表情で見下ろして笑ってしまう。嘘っぱちやな。そんな感情一ミリも持っていないのに。どうせおまえらかて、純粋な気持ちでこんなん送ってへん、俺に媚びてメリットがあるからやろ。オーナーに気に入られたいメリット。あわよくばイロになりたいメリット。ハートを目一杯使った文も、かわいらしいキャラクターがアピールするように踊るスタンプも。
     プライベートのメールでは、相変わらずの無愛想だった。思ってもいないのに媚を売るような文面を書けるはずがないし、そんな労力を彼女たちに注ぐ気もなかった。返信ややり取りだって必要最低限、メールなら題名に入る程度の、或いは通知のポップアップで全文読み取れる程度の内容以外、送ったことがない。既読無視の常習犯、逆に相手からの返事がなくたってどうでもよかった。
     いまはどうだろう。送る前に、狂児は聡実に向けて書いた文面を一瞥する。アホちゃう、と言って欲しくて選んだスタンプ、無愛想に捉えられたくなくてつける絵文字、聡実と自分の送り合うメッセージの比率。しつこくないように気を配っていても、自分の方が圧倒的に多いし、媚びていて構って欲しい意図が見え見えで、笑う気にもなれない。きしょいなあ。俺が若いときにこんなんオッサンからもろたら、速攻でブロックするわ。
     でも聡実は、きちんと返事をくれる。アホちゃう、と呆れてくれるし、狂児さんって文面でもうるさいですよね、と絵文字に言及してくれる。はたから見たらとんでもない塩対応だろうが、狂児からすればいっそういとおしくて惚れてしまう反応だった。聡実の素直な気持ちを、ぶつけてくれているから。突き放すような言葉でも、嬉しい。またついつい、つっこんで欲しくて、スタンプやら絵文字やらを探してしまう。ああやっぱ好きやな、と思う。好きやな、と思っても、その気持ちをメッセージにこめることは、まだ成功した試しがない。
     送信を押す前の親指が、スタンプ一覧の上を彷徨う。ネットで調べると、いまどきの子でも、告白はラインではしないそうだが、ちょっと気持ちを匂わせるくらいはしてもいいのではないだろうか。LOVEとでかでかと書かれたハートを抱えた仔犬のスタンプ、いっそ送ってしまおうか。聡実くんに、伝わるやろか。伝わってしまうやろか。そうして聡実くんが俺を選ぶか否か、俺は知ってしまうやろか。数拍泳いだ指は、結局スタンプを選ばずに送信ボタンだけをタップした。
     腕の刺青を見せることはできても、会いたかった意思は伝えられても、肝心の一言は、いまだ声にも文字にもならぬまま。くだらないことばかり送って、もじもじとはぐらかしている。そこがいちばんきしょいわ。はあ、と狂児は頭を抱えて深いため息がこぼした。

    プラネタリウム

     家庭用プラネタリウムを貰った。大学の友人が、なんでもバイト先の先輩たちと行ったクリスマスパーティーでビンゴ大会を行い、当たったものだそうだ。家庭用プラネタリウムには投影方法が二種類あり、これは光学式と言って、ほんものの星空と見紛うような鮮明さで映ると教えてくれた。友人は一度使ってはみたが、興味が湧かず、ただこのまま箪笥の肥やしになるのはもったいないと、あちこちに声をかけていたらしい。けれど貰い手が見つからず、困っている様子だった。聡実も別段星が好きでもなかったけれど、強く推され、「岡の部屋にはちょっと彩りが必要だと思う」とまで言われた。失礼だ。殺風景でも聡実にとっては落ち着く我が家であるし、これが彩りになるとは思えなかったが、ふとあのちいさな部屋に星空を作ってみたくなって、ひとまず貰い受けることにした。飽きたら売ったり捨ててくれていいから、と友人はとても喜んでくれた。それが、一年ほど前、十九歳の頃の話である。
     ただいま、と空っぽの部屋に挨拶するのも随分慣れた。始めた頃は深夜シフトばかり選んでいたバイトも、学業とのバランスが取れるようになり、週末や日中、夕方に入れるようになった。今日は夕方から深夜帯の入り口までで、夕飯を賄いで済ませてきた。荷物を下ろしたらさっさと風呂に入る。ドライヤーで髪を乾かすのは面倒で、タオルでがしがしと強く水気を取ったら、そのまま自然乾燥に任せる。
     明日は二限からで、手持ちの課題もない。今夜はゆっくり眠れそうだ、と思ったら、ふと聡実の目が棚のなかに動いた。寝る前に、少しだけ、観てもええかな。四つん這いで棚の前に移動する。一番下の段、貯金缶がふたつ並ぶ横に置かれた、球体の機械を取り出す。一年前、処理に困っていた友人から貰ったプラネタリウム投影機は、いまも聡実宅にあった。
     スイッチをオンにして、投影タイマーを30分にセットしておく。部屋の電気を消して、聡実は座布団に座り直して天井を見上げた。真っ暗な四畳半が、絶好の星空を観察できる野天の一等地に一変した。
     あの日貰った晩に試しに使って、うつくしさに聡実はすっかり魅了されてしまった。東京はもちろん、大阪の実家でだってこんなに満天の星空は見たことがない。明かりがなければ、ほんとうはこれだけの星屑が空には存在するのだな、と驚いた。星空に魅入っただけで、星のひとつひとつの知識を得たいとまではいかなかったけれど、時折こうして部屋の天井に映して、眺める趣味ができた。
     気に入った理由は、もうひとつあった。膝を抱えて、ゆっくりと移り変わっていく星の動きを聡実は観察している。真っ黒の背景に、ぽつぽつと、きらきらと瞬く星の粒たち。頭のなかに、それに似た瞳を持った男の姿が過ぎる。都会の明かりをなくした、素顔の夜空は、そう、狂児の瞳によく似ていた。
     聡実を見つめている狂児の双眸は、いつもきらきらと光っている。あんな悪どい職業のくせに、きれいだ。案外おおきな瞳孔は、塗り潰したように真っ黒で、そのなかに細かな光の粒がいくつもあった。プラネタリウム機をはじめて動かしたとき、ああ狂児の目って銀河みたいなんやな、とえらくポエティックな感想を抱いて、ひとりで腹が立ち悶絶したのを思い出す。
     組のなかでも上位の役職に就いている男は、やはり忙しいらしい。お互い出会った頃よりはメッセージの交換回数は増えているものの、返事に数時間……下手すると十数時間の間が空くことは多い。六年前、よく週に二回もカラオケのために時間を割けていたな、と感嘆する。
     そういえば前に会ったのはいつだったか。一月はゆうに経っている。毎年この時期は特に多忙で、十二月は来られへんかも、と前もって謝られていた。
     別に、しょうがない。聡実にだって学業とバイトで忙殺されているときはある。会えないだけで、LINEのやり取りは、間隔が空きつつも続いている。まったくの音信不通ではない。
     緩慢に、顔を持ち上げる。四畳半を広大に錯覚させるプラネタリウムの星空。四方すべてが宇宙になる。見つめられたいな、と思う。見たいな。僕を見る狂児の目。おおきな目が、きゅっと細くなって、きらきらが増えて、ちょっとぎこちなく笑うねん。
     でも、自分たちの関係は、そういう我儘を口にしていいものではない。
     はあ。膝に額を擦り付けて、聡実は溜息を吐く。空港での再会から、もう長いこと経つのに、狂児はあのとき以降なにも核心に触れないし、聡実もまた本心を黙って、会い続けている。狂児がなぜなにも言わないのかはわからない。聡実の場合は、さまざまな懸念があった。ふたりの歳の差は親子ほどあり、子どもっぽい自分のままでは、狂児に釣り合わない気がして、まだ言えない、伝えるときではない、と慮ってしまう。それに元来素直になりづらい性格と、やはり彼が現状維持を保っていることで生まれている、本心を伝えたあとの関係の変化への不安が相俟って、口をひどく重くしていた。友人でも恋人でもなんでもない、宙ぶらりんの関係でも、縁は続いている。だから余計に、このままでもいいのでは、と安心している節もあった。
     ただ、コンスタントに会えているうちはまだいい。会えているから、なんとか自分を宥められる。でもこうして一月以上途切れると、だめだった。三年半を耐え切った忍耐力は、生きて再び会えたことで、相当衰えてしまっている。たかだか一ヶ月を越えたくらいで、考えてしまう。このまままた会えなくなったら。後悔が膨らみ、たまらなくなる。
     たとえば万が一我儘を言える立場になったとして、聡実の性格上、きっと口に出せない。でも言っていいけれど言えないのと、言ってはいけないから言わないのとでは、おおきな乖離がある。
     ……もうさ、ええよな。ふと、そんな諦めが過った。もうええわ。このままではなにも言わないまま、なにも進まないまま聡実の大学生活が終わっていきそうだ。
     聡実は掃き出し窓の枠に頭を預けて、作りものの狂児の瞳を、意を決して見上げる。次に会ったとき。ちゃんと、言おう。類似品で満足せず、ほんとうの、狂児の視線のなかにある、またたく銀河を、見据えながら。長く抱えている僕の決意。僕のなかにある気持ち。ずっとひた隠していた、僕が、彼とのことについて、これから先の、考えていることを。

    マメシバ

    「きょうじさぁん」
     ディナーを味わい、ふたりで聡実のアパートに帰宅した。コートやジャケットを脱ぎ、ふたり分の飲み物を小さなテーブルに用意して、狂児はソファに腰を下ろした。その隣に、家主が座り込む。ぼすん、とクッションを鳴らして、顔も耳も首元も真っ赤にした聡実は、ぴったりとこちらに肩を寄せてひっついている。
     二十歳の恋人は今夜、正しく酔っ払いの様相をしていた。
    「うん?」
     狂児の返した相槌に、聡実はじいっと視線を向けるに留まっている。
     聡実はかなりの酒豪で、酒に呑まれることは滅多にない。ただ、どうやらワインは不得手なようで、疲労が溜まっているときや、杯を重ね過ぎてしまうと、アルコールが巡りすぎで、こうして出来上がってしまう。今日はどちらの条件も一致した。エスニック系のレストランははじめて訪れる店だった。料理は上手く、出されたワインが口に合ったらしく、グラスを煽るペースが早かった。加えて昨日までレポートに追われていたようで、一晩ぐっすり寝はしたものの、まだ回復しきれていなかったのだろう。
     ワインのアルコールはしっかり聡実の体内に影響し、見事でろでろの酔っ払いが完成してしまった。
    「きょうじさん」
    「はあい」
     肩に頭を預けて、見上げてくる上目遣いの双眸は、蜂蜜のようにとろみを持って、甘ったるくまばゆい。
     狂児が強引に持ち込んだふたりがけのソファは、比較的からだのおおきい自分たちには少々手狭だ。それでも彼は、自分との間に最低限の間を空けて、隅っこに縮こまるようにして、いつも座った。付き合って二年と十ヶ月、未だに狂児の体温に照れて、自分からはけして寄り付かない。その距離を、狂児が我儘を訴えて、抱き寄せたり座り直したりして、嫌がられながらも詰めてくっつくのが常だ。いまは狂児が動かずとも、既に二の腕が布越しに触れ合うほどに近い距離を保っている。更に聡実は腕を絡めて、よりからだごと擦り寄った。
    「きょうじさん、きいて」
    「なあに聡実くん」
    「あんなあ。ここからうごいたらあかんよ」
    「なんで?」
    「なんでも。あかんよ。ぼくつかまえとるもん。ぜったいあかん。おとなしくしとって」
    「えーでも俺もトイレ行ったりしたいよ」
    「ここでしたらええねん」
     えー、と不満を垂れつつ、狂児の頬はずっとゆるくたわんでいる。暴君じみた口振りをしつつ、聡実は狂児が席を立つ旨を申し出れば、仕方なしに許諾してはくれる。ただし手を繋いで移動するし、トイレや風呂ならドアの前でずっと待っている。なあ、きょうじ、まだ? 出てくるまでしつこく急かす声にも、はじめは焦りに駆られていたけれど、最近はどうしようもなくかわいく感じて、ずっと急かされていたくなる余裕も生まれ始めた。
     はじめて酔っ払った聡実を見たのは、二十歳になりたての頃、いろんな酒を試飲していた時期だった。岡家は兄が下戸で父がそこそこ、母がうわばみで、聡実はどれに転んでもおかしくなかった。本人も当時は酒にたいして興味もなく、まずはどのくらいの耐性があるか知りたいと言い、狂児は付き添い酒を提供した。はじめは弱い缶チューハイ、カクテル、それからビール、次いで焼酎、日本酒。どれもこれも聡実は平気な顔で飲み干した。日本酒を一升瓶空にしたところで、やっと仄かに頬が赤らんだ程度だ。その赤みもすぐに引いてしまい、こらかなりの酒呑みやで、と狂児は戦々恐々とした。
     ウイスキーをクリアした次にチャレンジしたのが、ワインだった。はじめての酒種への挑戦は、なるべくアパートで行うことを聡実は望んだ。その日も宅飲みで、わざわざ買ったワイングラスで一杯を飲み、二杯目を半分ほど減らしたところで、聡実の異変が始まった。顔を真っ赤にして、目が据わり、発する言葉は舌足らず。酔うとる、すぐにわかった。ワインは中断、水を用意せねば。立ち上がる狂児の脚を、けれど聡実が強く掴んだ。「どこ行くん」と不満げにくちびるを尖らす。拗ねたような、子どもみたいな顔。聡実のそんな顔ははじめて見た。呆気に取られた狂児が素直に答えると、「いらん。いらんからここ離れんで。ぼくにつかまっとってよ」と聡実は握り締める手をより力ませた。ぎしぎしと骨が軋む。慌てて頷き座り直せば、満面の笑みで腕を絡ませ、肩にもたれて頬を擦ってきた。……おかえりきょうじ。ぼく、きょうじのこと、だいすきやで。
    「もうつかまえたからな、ぎゅっしたる。ふふ、うごけんやろ」
     動けるわけないやーん。引っ掛ける腕のちからを増して、ぎゅうぎゅうと狂児の腕は締め付けられている。正直に言えば、細い聡実を振りほどくことは、とても容易い。物理的ではなく、心理的な捕縛のために、狂児はここを離れられるわけがなかった。
     若い恋人は、自身でなんでもこなしてしまう。家のこともバイトも勉強も、離れて暮らしなかなか会えないさみしさやいとしさ、感情の整理についても、なにもかも、ひとりで片をつけてしまう。大阪と東京、はじまりから遠距離恋愛で、狂児は仕事柄、彼との約束を反故にしてしまうときがままある。聡実はいつも「仕事ならしゃあないですね」とスマートに割り切るので、一度、訊いてしまったことがあった。
    「俺と会えんくて、さみしくないの」
     聡実は「さみしいですよ」と眉をひそめ、僅かに頬を赤らめて答えた。「でも付き合うときにわかってたし、声とか文字とかで喋れるから、平気」
     ひとは、酒に酔って現れた姿が、本性であるという説がある。本性でなくとも、聡実のなかに蓄積するさみしさが、酒のちからを借りて、こうして顔を出しているように、狂児は思えてならなかった。嬉しくてたまらない。かわいくて、仕方がない。
     狂児が汗ばむ前髪を梳いてやると、聡実はその手を拾って、ちゅ、と指先に幾度もキスを落とした。
    「きょうじのゆび、すきやねん」
    「ほんま? 嬉し」
    「きょうじのことすきやから、ゆびもすき」
     ぼくもうれしい。きょうじがちかくて、ぼくの五感、いま、ぜんぶきょうじしかひろえへん。素面では絶対に吐かれない台詞。けれど酔った戯言ではなく、本心だと狂児は知っている。



     同じベッドで抱きしめ合って眠った翌朝、聡実は「最悪や」と起き抜けにぼやいた。本人曰く、泥酔すると記憶をなくす性質であるらしいので、幸いにも――彼にとっては。おそらく――昨夜のやり取りはまったく覚えていなかった。レストランから帰宅するタクシーのなかから覚えがないようで、「なにか迷惑かけませんでしたか」との問いに、狂児は「まったく」と首を振った。あれは迷惑ではないし、むしろ喜ばしい夜だった。
     出来得るなら、時間や状況を問わず、ああいう面を見せてくれたらいい。
    「聡実くん」
     ふと思い立ち、狂児はキッチンに向かう背に声をかける。
     確かに、自分たちには顔を合わせるだけにもさまざまな障害があって、お互いいまの立場を捨てられもしない。だからと言って、さみしさを押し殺す必要もない。
    「呼んでくれたら、呼ばれんでも、俺聡実くんのそばにおるよ」
     俺はさ、いつでも聡実くんに捕まっとるよ。俺の首にはまる首輪には、聡実くんが持っているリードが繋がっとんねん。やから、たまらんくなったら、いつでもリード引っ張って、俺を隣に置いて、ぎゅっして離さんかったら、ええんよ。
     聡実は目を細めて「なに急に」と低く訝しんだ。正しい反応だ。昨夜を覚えていないなら、まったく意味がわからないだろう。けれども台所に消えていく後ろ姿、その耳朶とうなじがペンキで塗ったみたいに赤くなっていたので、狂児は満足げに、はは、と肩を揺らした。

    crazy about you

     人生、「最悪や」と思うことは多々あれど、大体の事象が、案外“最も”なんて冠詞がつくほど悪い状況にはない。実際は大袈裟に表現しているだけで、少ししたら忘れてしまう程度の出来事ばかりだ。
     しかしいまこの状況は、間違いなく最悪であった。狂児は内心で何度も「最悪や」を頭を抱えて繰り返し、目の前に見えている人物を凝視している。
     現在、五月六日深夜二時。シノギ先のキャバクラで部下や嬢によるバースデーパーティーの接待を受けて帰宅したマンション、人気のない、リノリウムを叩く足音だけが響くエントランスで、コンシェルジュが「おかえりなさいませ」と淡々と頭を下げるのが、目の端に微かにうつる。視界と意識の大半を占めるのは、今頃東京のアパートにいるはずの、去年の冬に付き合いだしたばかりの、二十五歳下の恋人。セキュリティロックを解除し、自動ドアが開いた途端、弾かれるように顔が上がって目が合った。ぱっとすぐに逸らされ、腕のなかのバックパックを、不安げにきつく抱え直している。聡実くん、と茫然と呼ぶ狂児へ、何事もなかったかのように表情を整え、聡実は「おかえりなさい」と眠たげな目を擦った。
     なんでいるん。ゴールデンウィークは、バイトと学校が忙しいから帰省しないのではなかったか。先々週電話したときに言っていたばかりだ。残念だが、狂児も仕事が詰まっていて東京に行けそうにないので、次に会えるのは五月の終わり頃かと互いの予定をすり合わせた。昨日も朝から何度かラインでやり取りをしていた。大阪に帰ってくるなんて一言も教えてくれなかったのに。
     しかも、ここは狂児の家、自宅だ。どうやって来たのだろう。聡実が来たのはたった一度きりだ。あのときはまだ付き合っていなくて、狂児はけして彼を家に招きたくなかった。自身にはびこる下心を隠すのに必死で、カラオケやレストランと会う場所も外を徹底した。家なんて、自分のいちばんのテリトリーに入れてしまったら、聡実をどうしてしまうのか、恐ろしくてたまらなかったのだ。
     一度だけ許したのは、聡実が新幹線の終電を、うっかり逃してしまったと言うからだった。去年の夏、帰省最終日、聡実はまだ十九歳だったが、友人たちとの飲み会に参加していた。翌日朝はやくに臨時講義があり、実家だと新大阪までは距離が遠く、乗りたい便に間に合わない、ホテルに泊まるお金もない、と訴えられた。狂児が以前家の場所を訊かれて、新大阪が近い、と話したのを覚えていたらしい。ホテル代くらい出すつもりだったが、だったらネカフェか野宿すると言って譲らず、やむなく迎えに行って一泊してもらった。その一回しかない。住所も最寄り駅もなにも知らないはずなのに。どうやってここに辿り着いたのか。
     驚いて言葉にならない疑問は、視線から聡実が正しく読み取った。少し気恥ずかしそうにはにかんで、瞳が横にスライドする。「サプライズやってん」と答えがあった。
    「狂児さん、僕の誕生日のときサプライズや〜言うて知らせなしに来たやろ。そういうの好きなんかな、思てん。せやから嘘吐きました」
    「うそ」
    「うん。ゴールデンウィークの分の課題は、もう終わらせてあんねん。バイトはあるけど、ちょっとお休みもろてん。今日……あ、もう日付変わってしもてるから昨日か。昨日と今日」
    「おやすみ」
    「うん。それから家は、ごめんなさい、前に来たときに、大体の位置目処つけてて。ナビでなんとなく住所も見とったから」
     勝手にすみません、と頭が下がる。いくら土地名を見ていても、あんな、タクシーの走り去る車窓の曖昧な景色から、よく目星をつけたものだ。やはり聡実は賢い。すごいなあ、探偵にでもなれるんちゃうか。いつもなら滑らかに出てくる軽口も、いまは喉が詰まったように一声も出てこない。
     硬直する狂児をどう捉えたのか、聡実は再び「すみませんでした」と悄然と繰り返した。
    「僕、知らんかってん。やくざって誕生日は忙しいんですってね。今日も仕事先でお祝いしてもろたんやろ」苦く笑って言いながら、彼の視線が狂児の手元に落ちていく。両手に指に食い込むほど提げているのは、つい先ほどまで開かれていたパーティーで貰った、プレゼントの数々だ。いますぐ捨てたくなってきて、狂児は咄嗟に後ろ手に隠した。聡実の苦笑いの眉が、余計に下がっていく。
    「前日にすればよかったですね。あ、ちゃうか。サプライズがあかんかったんやな」
    「……い、いつ来てん」
    「うん? でも20時くらいですよ」
     六時間やんけ。悲鳴をあげなかっただけ褒めてほしい。なにが、でも、やねん。しれっとすな。いくら空調が効いているとはいえ、こんなエントランスで六時間も待っていたのか。紙袋を荒く手放し、狂児は思わず聡実の二の腕を掴んだ。最悪や。これはほんまもんの最悪。なんでどっか店入らんの。なんで家んなかで待ってへんの。言いかけて、咄嗟に呑み込んだ。いや家の場所も教えてなければ合鍵だって渡していないのだから、当たり前じゃないか。
     脳内はパニックに陥っていた。恋人を放って、自分はなにをしていたのだろう。誕生日の夜をシノギ先で過ごすのは、やくざになって以来、毎年のルーティンではあった。今年は念願の恋が成就したから、できるならかわいい愛し子と一緒に過ごしたいと考えてはいた。でも聡実は帰阪してこないし、狂児も東京に移動できる時間すら捻出できない。
     お祝いしてくれへんの、さみしいわあ。帰らないと言う聡実に、ほんとうはちょっとでも拗ねたかった。そんな子どもじみたこと、二十五も歳下の子相手にできるはずがない。四十も中盤に差し掛かる中年やくざの、なけなしのプライドが邪魔をした。五日の朝、ハッピーバースデーの花束を抱えた子犬のスタンプが届き、それで満足しようと言い聞かせた。
     なに意地張ってんねん俺のドアホ。素直に言えばよかったのだ。そうしたら聡実を六時間もこんな場所で待たせることも、嘘を吐かせることもきっとなかった。愛想笑いも浮かばないくらいショックがおおきい。
     六年ちょっと前に、実に三年半も勝手に音信不通状態になり、狂児は聡実をやむを得ず待たせた。若く、別離を知らない十代が経験するには酷すぎる。なんの通知も寄越さないラインを見るたび、心臓が直接握り締められるような息苦しさを感じた、と前に聡実は教えてくれた。狂児は死んだ。せやから連絡は来んねん。言い聞かせて思い込まないと、不安に囚われてやまなかった、と。勝手に殺してごめんなさい、と謝られたが、狂児のほうこそ謝っても謝りきれない。彼の青春を守りたかった。夜に生きる自分の存在が、瑞々しい未来への道筋の妨げになってはならない。そんな方便を掲げて距離を置いて、結局深い傷をつけてしまった。なんの役にも立たない後悔は、いまも狂児の胸中に、かさぶたにもならない瑕疵として、おそらく一生残っていく。
     心傷には特効薬がない。時間薬と言ってもなかなか癒えにくい。多感な十代に負ったものは尚更だ。トラウマなのか、狂児を待つとき、聡実はいつも以上に顔が強張らせている。きっと六年前、十四歳の夏から三年かけて味わった待ちぼうけが、頭によぎるのだろう。そうして待ち人を見つけると、ほっと肩を撫で下ろして、頬の緊張をほどき、微かに涙を滲ませるのだ。
     しおしおとちからが抜ける。ほんまに最悪。キャバクラになんか寄らず、真っ直ぐ帰ってこればよかった。俯いていく狂児のつむじに、「狂児さん」と声がかかる。
    「落ち込まんで。僕気にしてへんよ」
    「そんなことあらへんやろ。ほんまにごめん。遅くなってしもて」
    「ううん」
     聡実は「ほんまに気にしてへんから」と首を振るが、頬の強張りがまだほどけていない。おそらく、また嘘を吐かれている。焦燥に駆られて、凝り固まるからだを抱きすくめて、狂児は背中を出来得る限り優しく撫でた。気にしていないはずがない。いま聡実の胸のうちには、いかほどの不安と猜疑が駆け巡っているだろう。
     知りたかった。隠さないでほしかった。ぜんぶ、八つ当たりでもなんでもいいから、すべての感情を狂児に晒して、ぶつけてほしかった。
     四十年以上生きてきたなかで、向けられたことはあれど、自分が持つのははじめての感情だった。不安も悩みも、嬉しいことも悲しいことも、相手のすべてをつまびらかにし、知りたいと願う飽くなき欲望。いままで付き合ってきたどの女に望まれても、疎ましく気色が悪くて鬱陶しかった。なんでおまえに教えなあかんねん。俺のことは俺のことやろ。冷たく内心で詰って、適当な嘘ばかりで応えて、すべて無碍にして振り払った。
     なのに聡実に対してはどうだろう。逆に狂児がしつこく求めて、知りたがっている。やかましく干渉して、鬱陶しいだろう。でも知りたい。きっと、いままでの女たちも同じような心境だったのだろう。細いからだに回る腕に、ぐっとちからが入る。
    「嘘吐かんで」
    「……うそちゃう」
    「気にしてるやろ。聡実くんさっきから俺の目、ぜんぜん見てくれへんやん」
     聡実はひとの顔を見て話を聞く子だ。逸らすには必ず理由がある。
     知りたい。本音も、なにもかも。
    「ほんまの気持ち、教えて」
     頬に指を添え、じっと視線を重ねる。徐々に、薄く敷かれていた笑顔が失われていく。聡実はそれでも頑なに目を逸らして、瞼を伏せた。そのまま、額が肩に擦り寄る。顔を隠して、ようやく素直になれるらしい。ぽつぽつと、掠れた声が呟いた。
    「五日のうちにお祝いできるかなって思ってたんです」
    「うん」
    「でもぜんぜん帰ってこおへんし、ネットで調べたらやくざてお誕生日はお祝いの接待受けたりせなあかんのですね。知らへんかった。こら遅なるなって思ててんけど、別に待っとったらええかと思って」
     連絡してくれたらよかったやん。まろびでそうになった責め立てる印象の台詞はからがら呑み込み、「サプライズやったから、俺になんも言えへんかったん」と言い換えた。聡実は頷きかけて、ゆるゆると頭を振った。
    「それもあるけど、仕事の邪魔したらあかんかなって。キャバクラとかでお姉ちゃんらとお祝いするんやろ」
     元やくざに取材した記事で読んだそうだ。最近のネットはつくづくひとの仕事をなんだと思っているのか。踏み込みすぎだ。載せるほうも載せるほうだが、取材で素直に答えるアホもアホである。要らんこと言いよって。カタギの恋人が勘違いするやんけ。舌打ちしたくなった。
     狂児が言い訳する間もなく、聡実が続ける。
    「勝手に来てしもたんは僕やし。もう来てしもたし、蜻蛉返りも勿体ないし、渡したいものもあったし。せやから待っててん」
     語尾がどんどん窄まっていく。渡したいものってなに。期待が急上昇して訊き返したくなるのを必死に堪えていたら、腕のなかの恋人はひとつ溜息を吐いて、沈んだ声を普段の冷静なトーンに切り替えた。「でももうええわ。僕帰る」
    「え!?」早口で諦められて、狂児は抱擁を解いた。聡実の目は相変わらず合わない。
    「な、なんで。もうええってなに。誕生日プレゼントやろ!?」
    「うるさ。何時や思てんねん」
    「ええねんここ防音やから! ちゃうねんそんなんどうでもええねん。待ってや、諦めんでよ。俺ほしいよ」
    「要らへんやろ」聡実の視線は、足元に投げ捨てられたプレゼントたちに下りている。「こんなにたくさん、立派なものもろてるんやから。僕のちんけなもんなんか、渡されへん」
    「ちんけちゃうよ」
    「ちんけやて。見てへんのになんでわかるん。桁がちゃうよ。僕のはきっと、ゼロが一個足らへん」
     そういうことじゃなくて。喚き散らしそうになる。だめだ。狂児は目を瞑り深呼吸を挟んだ。まったく、普段ほぼ動かない感情が、聡実相手だと活発化しすぎる。仕事以外で大声を張ったのはいつぶりだろうか。仕事でだってフリばかりだ、素の気持ちが、頭痛がするほど昂るなんて、片手で数えられるほどしか経験がない。
    「聡実くん、聡実くん、ほんま聞いて。ちゃうねん。額とちゃう」
     確かに、額で言ったらあの紙袋の中身たちは、一個単価は最低でも数十万はするだろう。一介の大学生には、用意できない代物ばかりかもしれない。でもそれはあくまで、祭林組若頭補佐の成田狂児に対する、賄賂のようなものだからだ。
    「俺個人へやないねん。あれは俺の肩書きと、俺のバックにおる組への『今後もご贔屓に』って挨拶なんや」
     部下が贈ってくるのも同様だ。やくざはプライドとメンツ、弱肉強食と権力、戦国時代の世界である。敵は組外だけにあらず、むしろ組内のほうがずっと警戒せねばならない。高慢かつ競争心の高い生き物であるやくざは、必ずしも一枚岩とはいかず、組内にはいくつもの派閥ができていく。そのパワーバランスは、肩書きの上下関係とは比例しないことが多い。組長だろうが若頭だろうが、役職に甘んじていると、いつかちからをつけた下に寝首を掻かれる。
     下っ端の構成員は常に目を配らせている。誰についていけば自分は安泰か。誰がいちばん組のなかで強いのか。誰のもとで働けば自分はのし上がる術を身につけられるのか。政治の世界と同じだ。信条やマニフェストより、財力や権力でひとは強弱を判断する。肩書きが相応しくなければ争って奪う。祭林は無縁だが、幹部の座を争い、或いはクーデターによる内部抗争の勃発は、そこここの暴力団内で日常茶飯事的に起きている。
    「俺は成田さん派ですついていきます俺のことよきにはからってくださいって言う、やっぱりこれも賄賂やねん。なんかあったら後ろ盾になってくださいって言う。だからさ、あのなかに純粋な誕生日お祝いなんて一個もないよ」
     聡実の肩を撫でて、狂児は続ける。
    「聡実くんだけや。ゴマスリとか媚び売りとかやなくて、俺が生まれたことを、お祝いしてくれるの」
     三十も四十も過ぎたら、誕生日なんてどうでもよくなる。ひとに祝われてはじめて思い出すくらいだ。まして狂児にとって五月五日は単なる取引先からの接待を受ける日であり、鬱陶しくても仕事を円滑に回すために喜ぶ振りをする日である。二時や三時までパーティーは続き、昔は酒まで飲まされ、二日酔いにも苦しんだ。疲れ切ったからだをベッドに横たえ、悪態を吐くのが常だった。祝いの言葉を手向けられたって、なんの感慨もない。正直に言えば、毎年カレンダーを五月に変えるたび、来たる五日が億劫でたまらなかった。
     聡実が教えてくれたのだ。五月五日は狂児が生まれて、聡実と出会ったことに感謝を述べる日で、「おめでとう」の一言が、これほどの歓びを与えてくれるものであると。
    「そないに大事なこと、他にないよ」
     なんでもそうだ。恋人の立ち位置も、誕生日への祝福も、聡実がくれるものに比べたら、いくら高額であろうとも、他はすべてちゃちでちんけになる。まして誕生日にかこつけた、権力ほしさの貢物なんて、ごみと同じだ。いますぐ焼却炉に焼べてしまったっていい。要らない。要るのは、たったひとつ。
    「そのリュックんなかに入ってるやつだけ」
    「……なんで知ってるん」
     聡実の眉が鈍く絞られた。仄かに頬が赤らみ、バックパックを抱く腕が締まる。
    「大事そうに持っとるから、そうだったらええなって思て。……なあ、ほんまにちょうだい。ほしい」
     屈んで強引に視線を重ねてごねる。「くれへんかったらここで大の字になってわんわん泣いたる」とわりと本気の脅しに、まろくつるつるした眉間に、ますます皺が寄った。
    「子どもみたいなこと言いなや。オジサンなのに」
    「ええもん。オジサンはな、長く生きとるから恥も外聞もないねんで」
     無駄な意地を張って、得られるものも得られないようでは、この先の人生後悔ばかりが募っていく。
     しばらく聡実はくちびるを尖らせ躊躇っていたが、四十代の駄々に押し負けてくれた。深い溜息の次、バックパックに伸ばしたはずの手が、おもむろに狂児の両頬に伸びた。
    「過ぎてしもたけど……お誕生日おめでとうございます」
     ちゅ、と啄むようなキスがくちびるに降ったのち、頬やら耳やら真っ赤にした、照れ隠しの不機嫌そうな顔が待っている。世界で、いや宇宙でいちばんの祝福に、狂児はたまらなくなり、ありがとうの代わりに腰を砕く熱烈なキスで返した。


     ◆◇◆


     ちなみに、バックパックに隠されたプレゼントは、ある海外ブランドのネクタイだった。ふたりで風呂に入り、ベッドに横たわる直前にやっと渡してくれた。上質な濃紺の生地に、グレーとライトブルーのピンドットが入ったシックなデザイン。一生つけてる、と狂児が嘘偽りなく呟いたら、「ちゃんと洗濯してや」と叱られた。
     ふと、脳裏によぎるのは、昔ある女に教わった、ネクタイをプレゼントする意味だ。顔も思い出せないほど彼女に興味がなく、やんわり告白されているのだなと当時は思いつつ聞き流していたが、女を口説くには使える豆知識だったので、一応頭の片隅にしまっておいた。いまどきの子は、知っているものだろうか。一瞬早まった拍動は、思い直してすぐに平静を取り戻す。そんな俗っぽいジンクス、聡実が知るはずがないか。
     ベッドに潜り込んだ聡実は、もううとうとと眠たそうにしている。頬杖をつき、向かい合って髪を梳くと、気持ちよさそうに細める目は、そのまま閉じてしまいそうだ。長い時間ひとを待つ心労と、座りっぱなしだったのだから、疲れただろう。来年は絶対なにがなんでも一日空けてやる。狂児が息巻いて意思を固めるなか、微睡むテノールがぽつりとこぼした。
    「ほんまのきもち、もいっこあんねん」
     眠気に抗う瞼は持ち上がりきらず、ゆったりとした瞬きになる。
    「うん? なに?」
    「あんな、ぼく、ネクタイ、あげたやん」
    「? うん」
    「ぼくな、おんなのひとちゃうけどな、ちゃんといみしってて、きょうじさんにあげとるからな、……わかっててな……」
     は。
     いや待って。静止の言葉が声にのる前に、すう、と深い寝息を立てられてしまった。起こして詳しく問い詰めたかったが、大声を出すわけにもいかない。狂児はくちびるを噛み締めて堪えた。
     なあ、なにそれほんまに。聡実の寝顔を凝視しながら、全身の体温が上昇していく感覚を認める。恥ずかしがって、キスひとつ大胆にできないのに、聡実は突然こうやって爆弾を落としていく。振り回されて掻き乱されてたまらない。
     ほんま好き。大好き。
    「俺もきみに首ったけ……」
     あまりにも本気で、なあんちゃって、なんてもうごまかせない。なにも巻かれていない首に、聡実の愛が雁字搦めに絡まっている気がする。喜びのあまり心臓がやかましい。四十代の不整脈は洒落にならないのでやめてほしい。ぐったり枕に頭を預けて、狂児は聡実の背に腕を伸ばし、抱き寄せる。すっかり覚めてしまった意識に、部屋を朝日が照らしても、眠気が戻ってくることはなかった。