0401 / 狂聡

20210404

  • はにかみユリイカ……さとみくん18歳になる
  • genies……さとみくん19歳になる
  • 酒は飲んでも飲まれるな……さとみくん20歳になったあと
  • マイベイブ……さとみくん21歳
  • ある五月五日……きょうじ64歳の誕生日
  • ※~2022/12/17まで限定公開※

    はにかみユリイカ

     十四歳の夏、狂児とはいろんな話をした。カラオケ天国の個室や、車のなかで。口火を切るのはほとんど狂児で、聡実は相槌を打ったり質問に答えたりと、終始受動的だった。返す言葉も十四歳らしく、遠慮がなくきつかった。思春期真っ盛りで愛想のない子ども、狂児はそのやり取りを、とても楽しんでいたように見えた。
     誕生日の話も、狂児が切り出した。受付を済ませて部屋に行く途中、バースデーソングの外れた合唱が漏れ聞こえてきたからだろう。部屋に着いて間もなく、狂児が「そういえば」と尋ねてきた。
    「聡実くん、誕生日いつなん」
     答えたくない。咄嗟に身構えた。クラスメイトにからかわれた記憶ばかりが、脳裏に反芻する。聡実はメロンソーダのストローを噛み抵抗を試みたが、すぐに諦めた。からかわれるのはごめんだけれど、そのくらいで嫌がるのは、子どもっぽい気がする。十四歳のちゃちなプライドに抵触したし、狂児はしつこい。答えるまで訊かれるのは、もっと嫌だ。
    「……四月一日です」
     案の定男は「エイプリルフールやん」とおもしろそうに言った。はやくも聡実の内心に後悔が積もった。「嘘みたいな日やな」と続く常套句に辟易として、眉がきつくしかめられる。
    「だから言いたくなかったんや」
     僕かて選んでその日に生まれたんちゃうわ。なんやねんみんなして。こっちは聞き飽きてんねん。胸のうちでぶつくさ悪態を吐き、聡実はがじがじとストローに歯を立て、苛立ちをぶつける。
    「ごめんごめん」
     狂児は笑い混じりに、ぶすくれる聡実を宥めすかしにかかった。軽い言い方。謝る気がさらさら見当たらない、不機嫌な目つきで睨み上げると、狂児はますます笑みを深める。
    「そう怒らんでや聡実くん。ボク反省してます。嫌やんな。好きでエイプリルフールに生まれたわけちゃうのに」
     立てかけられたグランドメニューが手繰り寄せられ、聡実に向けて開かれる。「お詫びになんでも好きなもん食うてええよ」
     いつもと変わらんやんけ。あからさまな顔色伺い。乗っかるのも癪な気がしたけれど、いつまでも拗ねているのはみっともない。溜息をひとつだけ落として、聡実は男の誠意を受け取ることにした。
     次に彼が聡実の誕生日に言及したのは、歌の指導を終えて車に乗り込んだあとだ。
    「来年の誕生日、なにが欲しい?」
     シートベルトを締める手を止め、丸くした目で聡実は運転席の男を見上げる。
    「は? 来年?」
    「うん。今年はもう過ぎてしもたから、来年」
     ハンドルに頬肘をついて、待ち受けていた宵闇色の双眸は、うきうきと楽しそうだ。不思議と聡実の顔は熱くなり、しかめっ面を象っていく。
     大体、早すぎないか。いまは七月、聡実の誕生月は四月で、まだ十ヶ月近く先だ。時期外れにもほどがある。しかも食事はともかく、やくざに有形物を贈られるのはいかがなものか。今更かもしれないが。
     聡実は窓の外に目を逸らした。
    「別になんも要りません」
    「えー。あるやろなんか。なんでもええんよ」
     エンジンがかけられた。風力を全開にしたエアコンが唸る。ひとまず吐き出された生ぬるい風は、あっという間に冷えていった。
    「そんな先のこと、いま訊いてどうするんですか」
    「他と被りたないし、大事なセンセのお祝いやからな、じっくり時間かけて似合うもん探しときたいねん」
    「そう言われても」
    「親に頼まれへんもんとかさ。どう? ない?」
     運転しながらも、狂児はこちらに身を乗り出さんばかりの勢いで重ねて問うてくる。なにか答えを与えておかないと、次回以降も執拗に訊かれそうだった。
     欲しいものは、正直に言えばある。両親にはリクエストしにくい。でも狂児に明かすのは、もっと気恥ずかしかった。なぜなら欲しくなった理由に、明確に彼が絡んでいる。
     聡実の視界は無意識に、その”欲しいもの”を追う。たやすく頬が赤らんで、ぎゅっと下唇を噛んだ。くちが重い。言いづらい。でも言ってみなくては、叶わない。
     ひとりで葛藤しているうち、車窓は団地近くの風景を映していく。――もうすぐさよならの時間や。どうせ答えなこのひと諦めへんし、適当なもん言いたないし。聡実は観念して、ちいさな声で白状した。
    「……時計が欲しいです」
    「時計?」
    「僕来年、高校生になるから、腕時計が欲しいです。その……」全身が熱を噴き出す。汗が額に滲む。目は泳ぎっぱなしで落ち着かない。「その、狂児さんがしとるのみたいな、かっこええやつ」
     聡実はのちに本で学んだ。やくざという職業が、いかに見目を重要視するか。同業他社への威嚇、ひと目で相手に格下だと思わせないため、商売を円滑に進めるため、見栄とプライドを服や貴金属に当てかえて、男たちは武装している。ファッションに興味があろうがなかろうが、ハイブランドを纏って、頭の先から足の爪先まで、隙なく整えておく。ただし、ただ高いものを着るだけでは能がない。やくざとしても質も同程度だ。自身を完璧にプロデュースできるセンスが肝要なようだった。
     当時、聡実の世界にいたおとなは、両親、友人の親、兄、先生、そのくらいだった。やくざの狂児は異質だった。誰よりも整っていた。父母と違いスマートな腹回り、いい匂い、清潔そうで皺ひとつないスーツ姿。父が時折着るときは、肩の位置が合わずネクタイがよれていたのに、狂児はまるで完璧だった。職業柄だけでなく、案外神経質な性質も作用していたのだろう。
     彼の外観で、とりわけ聡実の目を惹いたのは、腕時計だった。装飾が一切ない彼の手元の、唯一のアクセサリー。やくざと聞いて連想する、派手な金ピカではない。針のかたちが特徴的で、シックな革ベルトにシンプルな文字盤、中学生のお粗末な審美眼にしても、とても格好良かった。この時計が似合う狂児自身も、悔しいが格好良いと思った。憧れた、そう、きっと、あのときは彼に一種の憧憬を抱いていた。
    「あ、同じやつやなくてええんです」
     反応のない狂児に、聡実は慌てて続けた。
    「それごっつ高いやつやろ。そんなん僕持て余してまうから、僕に似合いそうなやっすいやつでええんですけど、」気がついて言葉が途切れた。腕時計なんか貰って、万一両親に見つかったらどう説明するのか。「う、腕時計やなくてもええんですけど……」
     しもた。やっぱ言ったらあかんかった。しどろもどろに焦って、言葉尻が窄まっていく。車はいよいよ普段の停車場に着いた。ハザードが焚かれ、ギアが切り替わって、シートベルトが外れる音が連なる。
     狂児が不意に動いた。聡実の左腕を取って、見つめている。引っくり返したり骨を確かめたり、笑顔もなく真剣に吟味する仕草に、聡実はたじろいだ。
    「な、なんですか」
    「んー? 細いなあ思て」
    「……悪かったですね、ヒョロヒョロで」
    「責めてへんよ」間延びした声が、「どんなんがええかな、時計」と言い、聡実は弾かれたように狂児を見遣った。ええの、と訊くと、ええよぉ、と深々と頷いている。
    「これ! っていうの絶対選んだるからな。来年楽しみにしとってネ」
     嬉しそうに細められた夜色、珍しく嘘くさくない笑顔だ。プレゼントする側の狂児のほうが、なぜだかおおいに喜んでいる。なんでやねん。聡実は訝しみつつも、自分の手首にはめられるだろう時計を想像し、仄かにくちびるをたわませた。

     約束は果たされなかった。十四歳の八月十一日を過ぎ、冬を越えて、一年経っても、二年経っても、狂児は姿を現さなかった。ラインのやり取りも、2019年で止まったままだ。
     高校の三年間、聡実の腕には両親からのプレゼントがあった。有名な日本メーカーの、黒いゴムベルトの時計。一介の高校生らしい、スポーティなデザインの。
     入学祝いに貰って、嬉しかった。嬉しかったけれど、時刻を確かめるたびに、三度誕生日を迎えるたびに、思い出した。手首に触れた男の体温、聡実の我儘を喜び張り切る笑み。狂児はなにを贈ってくれるつもりだったのだろう。この腕に、どんな時計を選んでくれようとしたのだろう。
     答えはかたちを得て、十八歳になる四月一日に現れた。
    「聡実くん、これ」
     空港で三年半ぶりに姿を見せた狂児は、髪が短くなり、少し痩せていた。同じく東京に行くと宣い、またあの夏と同様、歌の練習に付き合うよう強引に言いくるめられ、羽田の到着ロビーで出待ちされて、二時間カラオケルームにふたりでこもった。相変わらず彼ひとりの独壇場で、気付いたら連絡先も交換させられて、誕生日に会う約束まで交わされた。
     四月一日の夜、狂児主催のバースデーディナーは、表参道のイタリアンだった。ドレスコードのないカジュアルな佇まいとはいえ、見渡す店内に、自分みたいな学生然とした客は他にいない。場違いでは。落ち着かなかったが、向かい合う狂児はこちらの葛藤に気付きもしないでにこやかであったし、聡実は仕方なく食事に集中した。
     最後のデザートを待つ間、それまでぺらぺらよくくちを回した狂児が、急に淡々とトーンを落とした。小ぶりの紙袋をふたつ持ち出し、テーブルになぜかこわごわと載せている。
    「なんですか、それ」
    「誕生日プレゼント。遅くなってしもたけど」
    「遅くなってって、今日当日、」言いかけて、聡実は息を呑んだ。――まさか。「……十五のときの?」
     頷く狂児は、緊迫した面持ちで、いつもの薄笑いを一切排除している。
    「いまのきみと、十五歳のきみに。せやから二本あんねん。ほんまに遅なってしもて、ごめん」
     聡実は袋を受け取り、それぞれの中身をテーブルに並べた。正方形のケースがふたつ、刻まれたブランド名が違う。
    「紺色のおおきい箱のが十五歳の聡実くん、黒のが十八歳の聡実くんに」
     どちらも疎い自分でも見聞きしたことのあるロゴだった。クラスメイトが雑誌を広げて、羨ましがっていたブランド。
    「三年も経ってしもて、もう要らへんかもしらんけど」
     恐る恐る、聡実はケースを開いた。紺色の箱には、文字盤の下地がダークブルーの時計が収まっていた。メタルベルトが巻かれて、ブラックレザー、ブラウンレザーの二本の替えベルトが付属している。黒いほうにはシルバーの文字盤で、ベルトにブラウンカラーの牛革があしらわれたもの。どちらも針までシンプルで、ごちゃごちゃと装飾じみていない。ベルトが細身で、聡実の細っこい腕でも遜色ないデザインだった。
     じっと、瞬きもなく、二本の腕時計を見下ろす。聡実のために、じっくり時間をかけて、狂児が選んでくれた時計。狂児が、十五歳と十八歳の聡実を想って、これ! と感じて贈ってくれたものたち。
     ――あ、あかん。
     急速に目の奥が熱くなる。堪えきれない。う、と声が漏れたときには、数粒のおおきな雫が、時計を撫でる手の甲にぼたぼたと落ちた。
    「ちょ、」向かいの男が絶句した。周りに他の客がいる場で、急に泣かれては確かに驚くだろう。場が騒然とするのが肌でわかる。自分でも嫌だ。とっとと収まって欲しいのに、コントロールができない。どころか鼻水やら嗚咽まで出てきた。
     聡実は眼鏡を腕で押しのけて、手で強く目を押さえ俯いた。言ってやりたいことがいっぱいある。なのに喉が詰まって声にならない。ひっ、と肩が震えるばかりだ。
    「なんで、泣くん」
     狂児は聡実の隣に来て膝をついた。途方に暮れた口調で囁き、伸ばしかけた手を引っ込めて、また伸ばしかけ、を繰り返している。
    「嫌やった? 要らんかった? 今更」
    「ちゃう」
     聡実はおおきく首を振った。それだけは違う。要らなくなんかない。ずっと欲しかった。ずっと。でも、もう叶わないものだと諦めていた。
     十四歳の夏、忘れもしない八月十一日を境に、自分たちの縁は切れたはずだった。メッセージを送っても返事はなく、下校中に迎えにも来ない。スナックカツ子の場所も、祭林組事務所の住所も、ネットで調べて知っている。会いに行こうと思えば、いつでも足を向けられた。
     でも、できなかった。怖くてできなかった。もし、狂児がいなかったら。会えなかったら。また、地獄に逝ったと通告されたら。
     だってあんなに纏わりついてきたのに、あの日を境にぴったりとなんの音沙汰もない。そういうことだろう。狂児は狂児の意思で自分との縁を切ったのか、もしくは物理的に会いに来れないか。
     次第に聡実は思い込むようになった。狂児さん、ほんまは死んだんや。あの日の出来事は、ほんとうは真夏の白昼夢かなにかで、狂児はもうこの世にいないのではないのか。聡実の歌は正しく鎮魂歌として、彼の魂を弔ったに過ぎなかった。
     彼の意思で会いに来ないわけがない。死んだから来れない。そのほうが楽だった。いつまでも来ない待ち人にこころを疲弊させるより、結論づけて、男の存在も、男へ向いてやまない強烈な感情も、終わりにしたほうが、ずっと楽だ。
     死んだと自己暗示し続けても気持ちは排除できず、エンドマークもつけられないまま、高校三年間が過ぎた。春を迎える直前に、狂児は生きて聡実の前に現れた。
     すぐには信じられなかった。いま会話している相手は亡霊か、それとも幻覚に苛まれているのか。ちっとも湧かなかった現実感が、贈られた時計に触れた瞬間、怒涛のように押し寄せてくる。成田狂児は生きていた。自分の歌で、確かに地獄から連れ戻していた。
     なら、どうして。ふつふつと怒りに似た寂しさが沸騰する。なんで会いにきてくれんかったん。なんでLINEの返事してくれんかったん。なんで僕のことほっといたん。なんで、十五の誕生日にこれを渡してくれんかったんや。なんで。なんで。なんで。泣き喚いて殴ってやりたい情動が体内に溢れ返るのに、手は涙を抑えるのに必死で、震えるくちが紡いだのは。
    「狂児さん」
    「は、はい」
    「生きとってくれてありがとう」
     会いたかった。僕かてほんまはずっと会いたかったんよ。手のひら越しでくぐもった声を、狂児は確かに聞き取ったらしい。息を呑んだ男は、俺も、と細く応えて、やっと指先が頬に届いた。
    「俺こそ、また会うてくれてありがとう。これからもよろしく、てしてもええかな」
     あたたかい手。震えているのはなぜだろう。ますます彼が生きている実感が立ち上り、比例して目頭が熱くなる。ぐっと堪えて、聡実はやっと狂児に向き直った。真っ黒な瞳は、緩く弧を描き、喜色を湛えている。
     聡実が泣くと、狂児は笑う。文集に書いた一節がよみがえる。当時は腹立たしかったが、いまは少し、違う。懐かしくて、それからそのメカニズムが三年を経て解けそうなこともあるだろう。聡実が泣くと……聡実が狂児へ向ける感情の発露に、男は笑う。本心から、慣れていないぎこちなさで。腹は立ってもほっとした。ほっとして、嬉しく――そう、嬉しくなった。
     たまらない気持ちが芽生えていく。拍動を緩やかに速めていく。ずび、と鼻を啜って、聡実は頬を宥める手に手を重ねた。三年半、彼とともに死に追いやっていたこころが、被っていた憧れの皮を剥いで、生きていた歓びを糧に再生して、膨らんでいく。十四歳の頃より、会えなかった頃より、おおきく、明瞭になる。
    「僕以外に、誰があんたの先生できんねん」
     もう絶対、僕の傍から離れんで。僕も離さへんから。いまはまだ素直に言えず、聡実は呆れた素振りで握手に応えた。

    genies

     外した眼鏡を畳んでテーブルに置く。布団の空いている隙間に身を潜らせて、聡実はリモコンで部屋の電気を落とした。溜息を吐くと同時にこぼれた、「疲れた」の一言に、背中から回る腕がぴくりと力む。
    「ごめんな」
     いつもの快活さは鳴りを潜め、しんと静かな声だった。顔を見ずとも、どん底に落ち込んでいるのがわかる。普段ほとんど素の感情を見せたがらない狂児にしては珍しい、よほど悔やんでいるようだ。
    「痕、残ってたな」
     うで、と掠れた声が呟く。夜の静けさに紛れてしまいそうに低い。
     大学生、一人暮らしの安アパート、風呂場は廊下と直結して、脱衣所なんてものはない。廊下で服を脱いでいる最中に、トイレに立った狂児がたまたま遭遇した。瞬時に二の腕に走った目が瞠り、一瞬だけひどく曇ったのを聡実は反芻する。
    「もう痛ないですよ。そのうち引くやろ」
    「いまはやろ。俺加減してへんかったから、ほんまにごめん」
     泣きそうだ。やはり顔が見たくなったけれど、振り向いたらきっと、明るく嘘くさい表情に取り繕われてしまうだろう。諦めて、聡実は抱きすくめる狂児の腕を撫でるに留めた。
     自分の手が聡実を傷つけたことが、よほどショックだったのか。男は聡実と一定の距離を取りたがった。それをなんとか宥めすかして、聡実は今夜を彼の腕のなかで過ごせている。
     気にしなくていいのに。頑健なからだで、子どもの頃から傷や病気の治りは早かった。このあざも、どうせ知らぬ間に綺麗さっぱり消えている。と、説いたところで狂児はずっと気に病むだろう。痕が消えたら、なるべく報せてやることにして、聡実は、遠慮がちに腹に回る手に、手を重ねた。
    「ええんよ。願い叶ったし」
     だからいいのだ。こんなたかだか二、三日で消える痕なんて気にも留まらない、忘れてしまうくらい、聡実は満足した心地に浸っている。ほんとうは一緒に浮かれてほしいけれど、難しいだろうから、少しくらい自分の安心と歓びが皮膚越しに伝播して、彼の悔恨が緩和できたらいい。
     もうすぐ日付が変わる。四月一日から二日にまたがる深夜。念願の恋人同士になって、はじめての夜。聡実の十九歳を迎えた一日が、終わる。

     四月一日、狂児は昼過ぎにやってきた。当初は前日の夜から訪れる予定が、仕事が長引き朝一の便も逃し、ランチタイムを過ぎた頃合いの到着までずれこんだ。予期せぬ仕事だったらしく、珍しく電話での連絡で、電波越しの声が息切れて慌てていたし、聡実宅に着いても立った気が収まりきっていなかったのだろう。
     四月一日、聡実の十九歳の誕生日。ふたりははじめて派手なケンカをした。
    「誕生日、なにが欲しいん? ぜんぜんLINE返事来れへんかったな。すぐ買えるもんやったらええんやけど」
     約束に大幅に遅れてしまった謝意を述べて、狂児は玄関口で言った。靴を脱ぐ様子はない。部屋に上がる気は、今日もないらしい。
     はじめて来訪してきた日に、上がるよう促した聡実を、狂児は苦笑いで諭した。「あかんよ、俺はここまでや。こっから先は許されへんわ」
     いつ来ても、狂児は必ず三和土までで立ち止まる。けして敷居を跨がない。まるで見えないボーダーライン、或いは深く隔たる崖でもあるように徹底している。
     誰に許されへんのやろう。聡実は靴箱に肩を預けて、腕を組み狂児を見遣った。少なくとも家主の自分は、許して誘って、受け入れる準備がある。他に誰に許される必要があるのか、甚だ疑問だ。でも狂児は頑なに、「許されへん」と拒む。一向に一歩を踏み出さない。家に上がることも、――自分たちの宙ぶらりんな関係性についても。
     空港で再会を経て、月に一、二度ほどのペースで狂児は東京に現れた。ただし、十四歳の夏とは、連れ立つ先がまるで違う。カラオケに行くのは大会が近い時期だけで、普段は食事に連れて行ってもらったり、ついでに買い物に付き添ってもらったり、遠出して景色を嗜んだり、時折は映画を観たり。思ってもくちにはしなかったが、昔からあるデートプランのテンプレートみたいだ。
     車移動を好む男は、やがて東京用に一台の車を仕入れた。センチュリーよりはランクダウンした、それでも黒塗りの立派な高級車だ。約束の日に天気が悪ければ、家やバイト先、大学に迎えに来てくれもする。遠出は大概、この車での移動だ。
     不思議だった。なぜわざわざ、遠路はるばる東京にまで聡実に会いに来るのか。ほんとうに仕事の所用が絡んで来るときもあれば、ただ聡実に会うためだけの場合もある。比率としては圧倒的に後者が多い。一泊二泊滞在していくときもあれば、東京に着いたその足で聡実と食事し、別れてすぐ大阪にとんぼ返りする日だってある。
     無駄じゃないか。とんでもなく。お金も時間も。少なくとも聡実は、友人や曖昧な関係の人間に対して、そんな行動は起こせない。聡実も年に一度は帰省しているので、そのときに会えばいい。狂児だって役職付きで、暇な身分ではないはずだ。
     帰省のタイミングを待てず、多忙な時間を僅かにでも裂いて、片道三時間以上をかけて、560キロを越えて会いに来るには、必ず大層な理由と裏打ちする感情がある。そしてそれは、狂児は一切くちにしないが、聡実に向けるあまねくもののなかに……特に視線のなかに雄弁に溢れかえっている。
     察したのは、空港での再会から重ねて三度目に会ったあとだった。腕の刺青を晒したときの狂児の瞳。あれは”そういうこと”だったのだろう。
     なら、なんではっきり言えへんのやろ。言うてくれたら、僕は頷く準備いつでもできてんのにな。聡実から告げてもよかったのだが、期待と強い確信があっても恐れが拭えず、行動には至れなかった。勘違いだったら、立ち直るまでにまた三年以上かかってしまいそうだ。
     刺青まで彫って、足繁く東京にまで通うくらいだ。いつか言ってくれるだろう。待った。ずっと待った。けれど一向に、男が動く気配がない。
     もしかして、ほんとうに勘違いか。よぎった不安はすぐに払拭できた。
     狂児が、キスしてきたからだ。
     忘れもしない、去年の十二月のクリスマス。そもそも恋人でもなんでもない男が、クリスマス当日を狙い、プレゼントを引っ提げて会いに来ること自体不可思議なのだが、まあいい。狂児とのディナーのあと――新宿の五つ星ホテルのレストランディナーだった。窓際の特等席で、比喩なしにとんでもない夜景だった――、ふたりはタクシーに乗っていた。その日も狂児は忙しく、ディナーのためだけの東京滞在で、終電までには大阪行きの新幹線に乗らねばならなかった。珍しくホテルの最寄り駅での待ち合わせだったのは、車を拾いに行く時間すら惜しかったようだった。
     それだけ余裕のないスケジュールのくせに、危ないから家まで送る、と言って聞かなかった。仕方なくふたり並んで乗り込んだタクシーのなか、日々の疲れと満腹感で聡実はうとうとしていた。ほぼ寝落ちかけていたそのくちびるに、ふに、と触れる感触があった。
     狂児のくちびるだった。
     え!? 驚いて聡実は飛び起きかけて、いやいま動いたらこの男は確実に逃げてしまう、天性の勘を働かせて咄嗟に衝動を抑え込んだ。狂児はほんの数秒でくちびるを離し、つつくように聡実の手の甲にちょんとだけ触れて、「なにしてんねやろ」と低くぼやいた。
     いや、それ言いたいのは僕やねんけど。なにしてんねんオッサンほんま。ちゅーする前に言うことあるやろが。沸々と湧き上がる怒りは、我慢の限界を如実に表していた。もういい。知るか。そっちが言わないならこちらから言ってやる。
     意を決して迎えた本日、十九歳の四月一日。
     欲しいものなんてひとつしかない。
    「恋人」
     ぎょっと顔を跳ね上げる狂児に、聡実は続ける。「恋人が欲しいです」
    「……それ、俺あげられへんやん」
    「あげれる」
     聡実は即答した。
    「狂児さんにしか、できひんプレゼントやねんけど」
    「無理やて」
    「無理ちゃう」
    「なんでわかんねん」
    「キスされたから。クリスマスの夜に」
     は、と狂児の喉が、息を呑んだ。からだの横に垂れる両手が、血管が浮くほど強く拳を握っている。
    「知らんけど。なにそれ。俺はしてへん」
    「は?」
    「聡実くんあんときうとうとしとったやん。夢やろ。相手も俺とちゃうかったんやない? 欲求不満なんちゃう? 恋人まで欲しがって、聡実くんエッチやなあ」
     へらっと象られる笑顔は、温度がなく冷たい。よく回るくちは突き放す声音を吐き出し、聡実は舌打ちを堪えて顔を顰めた。
    「……ふうん。そういうこと言うんや」
     夢なわけがない。だったらなぜいまも、このくちびるに色濃く感触の残滓があるのか。
    「そういうことって、事実や。俺はしてへん。恋人は悪いけど自分で探して。大学にいっぱいおるやろ」
     腹が立つ。頭に血が上るのがわかる。名前をからだに刻み込んでおいて、560キロの距離を数時間の逢瀬のために往復して、あんなにこわごわとしたキスをして、もうほとんど明らかなのに、どうしてまだ隠すのか。挙げ句「他を探せ」。聡実の一歩を、恋を、踏み出した期待と勇気まで踏み躙った。
    「ふうん」
     そっちがその態度なら、こっちも考えがあるわ。生返事を打って、聡実はパーカーのポケットからスマートフォンを取り出し、ディスプレイに指を滑らせた。
    「僕な、好きなひとがおんねん」
    「え?」
    「いや、おった、にせなあかんか。大阪に住んどるのにしょっちゅう僕に会いに東京来るから、僕のこと好きなんかなって思てた。キスもしてもろたし、ほな欲しがってみよ思てたけど。勘違いやったみたいや。キスも幻覚らしいわ。虚しいやつやな、僕」
     ほな、ええわ。もう。「ところで狂児さん、僕、大学入ってもうかれこれ十人くらいから告白されてるんです。好きなひとおるからて断ってたけど、いまフラれてしもたし、脈なしってようわかった。で、告ってくれた子のなかにな、僕好みのかわいい子もおったん。その子に付き合ってもらお」
     告白してきた子の何人かは、それ以前からの知り合いで、ゼミや飲み会のグループLINEに入っている。誰とも一度も個人ではやり取りはしていないが、送ろうと思えばすぐに連絡は取れる状態だ。
     本気で送るつもりはないものの、最低な話だ。本命にフラれたからって、彼女たちを使う。誠意もくそもない。自棄に巻き込んでごめん。胸のうちで謝罪しつつ、アプリを開いてメッセージを打つ素振りをしていた矢先。
     伸びてきた手がスマートフォンを奪い、廊下に払い除けた。画面から壁にぶつかった端末は、背を向けて廊下に倒れ落ちた。
     聡実は手の主を睨みあげた。「なにすんの」
    「なにって……」
     狂児の声はあからさまに狼狽していた。本人も無意識の、反射的行動だったようだ。自身の手を見下ろし、呆然としているうち、ごく、と上下した喉仏が、細々と呟いた。「俺のこと、好きなんちゃうの」
    「好きやけど、でも狂児さんは僕のこと好きとちゃうやろ」
    「そんなこと言うてへん。フってへんし」
     ごにょごにょと張りのない声が、弱々しい言い訳を紡ぐ。ちっとも意味がわからなかった。核心から逃げてばかりで、適当にはぐらかしてこの場を乗り切ろうとしているようにしか見えない。
     ごまかされへんし、逃さへん。聡実は怒りのままに吐き捨てた。
    「タクシーでのキスは、僕の幻覚や言うたやんけ。してへん言うたやん。ほな僕のこと好きとちゃうってことやろ。ちゃうの」
    「それは、」
    「ほんで恋人も俺はあかん自分で探せ言うたな。せやから探してんねん。邪魔すんなや」
    「あかん」
     怒鳴ったわけではないのに、狂児の低い拒否は狭いアパートのなかに、わん、と響き渡った。両方の二の腕を捕らえる手には、異様にちからがこもっていて、手の甲に血管が浮き出ている。肉が軋んで骨まで拘束される鈍痛。聡実は奥歯を噛み締めた。
    「あかんて」
    「離せや。痛い」
    「あかんやめろ、そんなんせんで」こちらの抵抗は聞きもせず、狂児は捲し立てるように訴える。血走った暗い瞳は爛々として、瞬きもなくかっ開いて聡実を凝視した。「好きちゃうわけないやろが。こっちは腕にきみの名前まで彫ってんねんぞ。よそなんか見んなや」
    「なんで狂児さんがキレんの」
    「キレてへんわ」
     もしかしたら、このひとも大概、自身の気持ちに振り回されているのかもしれない。ふとそう思い至った。四十も過ぎて、元ヒモだと言っていたし、人間関係の経験は豊富なのだと思い込んでいたけれど。だって支離滅裂だ。行動と言動がちぐはぐで、一ミクロンも筋が通っていない。冷静さを欠いて暴走している姿を見ていると、反比例して、尖って沸騰した気分が次第に落ち着いてくる。
    「いやキレてるやん。鏡で自分の顔よう見てみい。青筋浮いてんで」
     はっと瞬いた男は、即座に拘束を解いて、戒めるように自身の手を握り締め付けた。ごめん、とか細く謝る顔は、焦燥と動揺の色が濃い。寄る辺のない子どもみたいに泳ぐ目は、伏せっている。
     溜息を吐き、説くように聡実は淡々と問いかけた。
    「恋人にもなれへん。でも他のやつと付き合うのも許されへん。好きや言うたりキスしてへん言うたり。なにがしたいん」
    「……聡実くん、ほんま堪忍して。俺、いまのままがええねん」
     聡実は即座に「それこそ許されへんよ」と一蹴した。互いも気持ちに蓋をしたまま、なあなあに過ごす。そんなことは続けられない。
     人生は長くて短い。死ぬまでに後悔は少ないほうがいい。十四歳のとき、狂児への愛を自覚したとき、狂児からの恋を見つけたとき、身に沁みてわかった。
    「どっちかやで狂児さん。僕を好きなん認めるか、僕がよそのやつといちゃこいてんの遠目に見るんか。いま選んで」
    「いま」
    「いま」
     いま、と繰り返して、狂児は黙り込んでしまった。立ち竦むおおきなからだが、まだ迷いながらもよろよろと選んだのは、聡実が立っているのに疲れて腰を下ろし、ついでにスマートフォンに手を伸ばしたときだった。
    「俺な聡実くん」
    「はい」
    「自分から告白したことないねん」
    「は?」
    「やからなんて言ってええんかわからへん。なんて言うたらええ?」
     流石モテ街道まっしぐらだった色男は違う。自分から欲しがらずとも引く手数多だったわけだ。悪態を吐いてしまいそうになって、やめた。
    「なんて言うたら、聡実くん俺の恋人になってくれんの」
     あまりにも真剣な面持ちでこぼすから、狂児としては本心の、重要な悩みなのだろう。
     ひとまず画面が割れていないことだけ確認して、聡実はスマートフォンをポケットにしまった。立ち上がって、不安げな顔と向き合う。
    「言いたいこと言うたらええんやない。僕のことどう思ってんのか、僕とどうなりたいのか言うたら」
     そもそもいまの問い自体が立派な告白であるし、なにを言われても、聡実の答えはイエス以外にないのだが。どうせなら素直にイエスと言いたくなるようなことを言ってほしいし、狂児の無垢な本心を聞いてみたい。
     腕を掴もうととした手がゆっくり下がって、やがて聡実の五指をやわく摘んだ。震える指。汗ばんでいる。たどたどしく、くちびるが開く。
    「俺を聡実くんの恋人にして。一生の恋人にして」
     絞り出すように告げられた台詞に、聡実は頬を照らし、万感の思いで「ええよ」と返した。

    酒は飲んでも飲まれるな

    「二十歳おめでとう」
     狂児はチューハイのプルタブを開けて、聡実のグラスに注いだ。ありがとうございます、と受け取る顔には、緊張の色が滲んでいる。いまどきの子なら二十歳になるまでに一口くらい飲んでいそうなものだが、聡実は一切固辞していたそうだ。大学の飲み会でも、親戚の集まりでも。四月一日午後七時半、これが彼にとって正真正銘、人生初の飲酒行為である。
     誕生日になにが欲しいか。ひと月前に訊いたとき、聡実は少し考えて、「お酒飲んでみたい」と答えた。「二十歳のお酒解禁を、狂児さんとしたい」と。いままで一度もくちにしていないと言うから、興味がないのかと思っていたが、どんなものか、気にはなるらしい。残念ながら狂児は超がつく下戸のため、ノンアルコールでの相手にはなるが、もちろん快諾した。
     初飲酒の銘柄は、聡実と相談の上で用意した。岡家は父を含めた父方の家系と兄が弱く、母が大変強いそうだ。聡実はどちらの体質を引き継いでいるか。
     まずはジュースに近いところから始めてみるか。飲めない狂児も酒に疎いため、若衆に聞き込みして選んだ缶チューハイをいくつか持ち込んだ。いま空けたのは、はちみつサワー味だ。
    「いきます」
     深呼吸をして、宣言した聡実は、ぐいっと煽った。グラスを両手で持ち、こくこくと喉仏が動くさまを、狂児も固唾を飲んで見守ってしまう。
    「どう?」
     グラスをテーブルに戻した聡実は、少し考え込む仕草を見せた。「からだがかっかする感じ、ある? 頭がくらくらするとか」
    「いえ、ぜんぜん。なんやただのジュースやなって感じ」
     味が気に入ったらしい。聡実はあっという間に缶をひとつ空にした。いまのところは、赤くなる様子もない。
    「一応お水挟んどこか」
    「うん」
     念のため用意しておいたミネラルウォーターを一口含み、「もう一本飲んでみてもええですか」と聡実が訊いてくる。チューハイくらいならいい気もするが、アルコールはあとから急に効いてくる場合がある。はじめての酒で、からだも反応が鈍いのかもしれない。少し間を空けるように指示をして、十分ほど待ってから缶を空けた。次はグレープサワーだ。今度はグラスを介さず、缶のままぐびぐびと飲み進めている。
    「うまい?」
    「うまい。でもやっぱりジュースみたいです」
    「ちなみに俺それ一口二口であかんかったよ」
    「えっ弱」
     ぎょっと目を丸くしているが、下戸はそんなものである。
     幸いにして、聡実はどうやらアルコールを受容できる体質のようだった。あとは限界量がどこにあるか。今日見つける必要はなくとも、はやめにわかったほうがいい。酔い潰れるならできるだけ自分の前で、もしくは東京にいてすぐ駆けつけられるときにしてほしかった。如何せん、聡実はトラブルを引き寄せる気がある。慣れない酒で正体を失くしている最中に、なにか起きたらと想像すると気が気でなくなる。純粋に心配で、下心をくちにするなら、救える救えないに関わらず、聡実のピンチに寄り添うのは、常に自分でありたい。
    「聡実くん、どうする? もうちょっと飲んでみる? ビールもあるけど」
    「飲んでみたいです」
     即答するのに笑ってしまって、狂児は台所に立った。アルコールに耐性があるとわかって、より興味が湧いているようだ。用心して350mlの小ぶりな缶を二本買ってきたけれど、500mlでも良かったのかもしれない。
     案の定、ビールも「喉が痛なる」とぼやいたくらいでさっと二本飲み干していた。今夜持ち込んだ分はすべてなくなった。ちょうど聡実もギブアップだった。一気に水分を採って腹に溜まり、苦しくなっていた。酔っ払った様子は微塵もない。少しも顔に赤味はなく、滑舌もいつも通りの明瞭さ。受け答えも正確で、まったくの素面だ。
     今日はここで打ち止めにして、ふたりは寝る支度に入った。部屋の電気が消える。おやすみの言葉を交わし、狂児は後ろから聡実を抱き締め、目を瞑る。ちっとも酔わへんかったなあ。酔っ払いの介抱に徹するつもりで来たのだが、飲めないより飲めるほうが、ずっといい。まだまだいまの日本のコミュニケーションでは活きるだろう。
     それにおそらく、ただ飲めるだけはない。下戸の身であっても、職業柄様々な飲兵衛たちを見てきた。研鑽した勘が囁く。……この子、たぶんめっちゃ強いわ。
     二度目の飲酒は、残念ながら自分とではなくゼミの飲み会で行われてしまった。酒を解禁して、はじめてアルコールメニューを見、ハイボールが美味しそうだったそうだ。試しに飲んだらとても美味しく酔いもなく、ハイボールを二杯とビアカクテルを一杯摂取したとメッセージが届いた。そこで終いにしたのは、単純に飲み放題がオーダーストップになったからだった。
    『ちっとも酔えませんでした。僕お母さんに似たんやな』
     電話をかけてみたら、駅からアパートに向かって歩いているところだった。はず無域の合間に、明朗で聞き取りやすい発音が紡ぐ。
    「足ふらふらするとかない? 気持ち悪くもないな? もーなんでタクシー使わへんの。心配やなあ」
    『ぜんぜん平気です。タクシーなんかもったいないわ』
    「俺が出したるって」
    『ええって。僕の遊びのお金をなんで狂児さんに出してもらわなあかんねん』
     怒られた。次に会ったときに、タクシーチケットを束にして渡す算段は、そっとなかったことにしておく。
     やはり予想通り、聡実はかなり酒に強い。本人も、ますます酒に好奇心が湧いてきたようだ。ビール、カクテル、ハイボール、チューハイをクリアして、次は日本酒焼酎あたりがいいだろうか。狂児は半月後の来訪までに銘柄を調べておくことを、脳裏のメモに書き込んだ。
     日本酒や焼酎なら、年若い者よりアニキたちが詳しい。たまたま近い日に月に一度の定例会があった。幹部や古株が一同に会す場で、雑談に混じって聡実の話をすると、一気にやかましくなった。なんや聡実センセ飲めるクチか! 組の飲み会連れてこいおまえより役に立つわ!
     絶対連れてくるかい、と反駁しつつ、あれがええこれがええと口々に挙がる銘柄をスマートフォンに打ち込んでいく。祭林組は自分を含めた数人を除き、構いたがりの酒飲みの多い集まりだ。途中指が攣りそうになりながら、なんとか控えきったが、すさまじい量だった。味や酒の回り方の違いまでは拾いきれなかった。
     さてどこから試すといいものか。数日後、メモをスクロールしながら唸っていると、小林が、日本酒と焼酎をそれぞれ一本ずつ、見繕ってきてくれた。
    「どうせおまえわかれへんやろ。焼酎はクセあるし、このへんから始めてみたらええわ」
     その通り、大正解である。酒に関しては門外漢、入りたての若衆より役に立たない。自分で探したかった気持ちもなくはないが、今回ばかりはありがたく頂戴しておいた。
     返礼の用意もあるから銘柄を検索してみたら、どちらも随分な高級品のようだった。聡実もボトルのロゴを見た覚えがあったらしく、「飲めへんかったらどないしよ……僕殺されてまう」と怯えていた。それはないしにろ、果たして飲めるだろうか。ビールやハイボールが良くても、日本酒は酔いすぎる者も多い。
    「めっちゃうまい。すごいこれ。ぐいぐいいけてまう」
    「……あらそぉ」
     心配は杞憂に過ぎず、聡実は日本酒も焼酎も軽々と受け入れていった。どころか、いままで飲んだどのお酒よりも美味しいとご満悦だった。焼酎の一升瓶は、その後二晩で飲み干してしまった。
     これで確定した。年若いこの恋人は、相当な酒豪、うわばみと称してもいい体質を持っている。
     大阪に戻った夜、仕事の電話ついでに小林に報告をすると、情報は一気に組内に回っていった。祭林組の男たち……特に幹部連中はみな、十四歳の聡実の絶唱と度胸にこころを奪われてしまっている。本人が嫌がろうとも、一目置かれた存在だった。若衆たちはともかく、組長を含めた古株の役職付きたちは、聡実を構いたくて仕方がない。狂児がやんわり拒んでも無視だ。狂児に会うたびに、彼らは「聡実センセに」とイチオシの酒を預けていく。いまや大阪の狂児宅には、数十本の一升瓶が転がっている。
     下戸の部屋に置いておいたって仕方がない。東京へ向かうたび、狂児は彼らから預かった酒を聡実宅に持ち込んだ。聡実本人が飲みきらずとも、友人とでも消費していってくれれば良いので、一度に複数本渡した。
     アニキたち推薦の銘柄はなかなかの高級酒ばかりで、「こんなんただの大学生が家飲みするもんとちゃう」と聡実は戦々恐々としていた。友人たちにも、どこで手に入れたのかとしつこく訊かれるらしい。けれど値段相応に美味しいのだろう、持っていくと素直に喜んでいる。どころかここ一、二ヶ月は、狂児が買う土産より、酒の中身を先に確かめる。食べものよりも嬉しそうだ。
    「やっぱ美味しいお酒知ってはるんやなあ。これもめっちゃうまい」
    「そう。良かったやん」
     八月、季節は真夏真っ只中。飲酒が許されてからはじめて迎えた夏休みは、大学三年生の聡実においてはめいっぱい遊べる最後の夏だ。秋からは就活の準備が始まり、来年は卒論で忙殺される。
     聡実は案外交友関係が広く、飲めるタチとわかってから飲み会の誘いが増えた。先日も友人とはじめてビアガーデンに行って、やはりビールより焼酎や日本酒が舌に合うと悟ったと教えてくれた。ビールは炭酸が腹に溜まって、つまみが美味しくなくなる。ただ学生が行ける範囲の居酒屋では、和酒の揃いが悪く、だったら家飲みのほうがずっと楽しめる。つまみは好きに用意できて、出どころは言えないが、美味しい酒なら家のほうがたくさん持ちあわせがある。聡実家は、すっかり同窓生やゼミ生の溜まり場になった。
    「へえ、そうなんや」
     狂児は頬杖をつき、茫洋と応えた。その様子に、聡実が怪訝な顔を向ける。
    「どうしたんですか。なんか元気ない?」
    「いんやあ。めっちゃ元気やで」
     笑顔とピースを構えて返せば、ふうん、と納得しきらない相槌を打ちつつ、食事と酒のほうに意識を再び戻していった。
     元気。そんなもんないに決まってるやん。嘯いた笑顔を象り、内心で狂児は悪態を吐いた。
     昔から、「きょうちゃんはぼーっとしとるねえ」と言われることが多かったが、思春期に入る頃には、物事に対して興味や関心、執着がほとんどなくなっていた。感情の動きが鈍く、こころは常に凪いでいる。どうでもいい。気にしない。なにをされても嬉しくも腹立たしくもならない。
     やくざになっても、変わらなかった。教育係の小林に教わった通りに仕事をこなし、やくざの仕草を身に着け、楽しくもなんともない。できるからしているだけで、仕事もプライベートも、自らの意思でどうこうした記憶はほとんどない。状況の先読みも、金になるターゲットを探ることも、教わった道筋の一環だった。その道を教わった歩き方で淡々と進んでいたら、気付いたら若頭補佐なんて役職に就いていた。
    「ぼーっとしとるなあ」とは何度も指摘を受けたし、「こころがゴリゴリに固まってんねんな」といろいろなアクティビティに連れ回されるなど、マッサージめいたこともされた。けれどずっと、顔や声に浮かべる表現は、いつまで経っても場に沿うよう適当に貼り付けているだけのはりぼてだった。
     なのにその鈍すぎるこころは、聡実にだけはひどく過敏に反応した。聡実にだけは、能動的だった。いま、狂児の内心には暗雲が立ち込めている。もやもやする。むしゃくしゃする。不快さに振り回されて、それが表に出てしまって、その日以降、狂児の所作はいつも以上に荒くなった。

    「ちっさい男やなあ」
     向かいに座る小林が、呆れた声でそう吐き捨てた。
     早朝に聡実宅を出て帰り着いた昼、事務所で一服しているところに、小林が入ってきた。舎弟に任せた債権回収が滞り、朝方まで付き合って指導しがてら目処を立ててきたらしい。ふわあ、とおおきな欠伸をして、それからソファに座る狂児を見た瞬間、彼は開口一番に問うてきた。――なにスネチャマになっとんねん。
    「すね……?」
    「スネチャマやん」
     意味がわからず訊き返すと、どうも眉間に皺を寄せて、くちびるがぶすくれていたようだった。まったくの無自覚だった。小林自身「俺か組長やないと気付けへんのやないか」と補った。まったく組随一の鋭い観察眼を持つアニキには恐れ入る。
    「拗ねてませんけど」
    「ほななんてそないにブーたれてんねん。聡実センセか?」
     明らかにおもしろがってにやつく顔に、話す気はさらさらしない、ただこのひとも大概しつこい男である。言わないと、妙な噂を立てられかねない。最近狂児がスネチャマやねん、だとか、俺にもなんも言わへんとこら反抗期やわ、だとか。
    「ほら、アニキに言うてみい。ひとに話すと案外パッと解決するかもしれへんで」
     吐き出したところで状況は変わらず、楽になれるとは思わなかったが、やむなく狂児はぽつぽつと心境を語った。聡実が、小林たちのくれた酒をいたく気に入っていること。聡実の感想を、酒を預けてきた組員たちに伝えると、「ようわかっとんなあセンセは」と物知り顔で頷かれるのが、どうも気に入らないこと。聡実も最近は狂児の手土産よりも酒瓶のほうに先に目がいって、期待もそちらのほうが強いこと。
     これ、ただのしょーもない愚痴やんけ。狂児は改めて実感し、小林も次第に訝しみ、しかめ面になり、やがて膝に頬杖をついて気怠げな姿勢を取った。そうしてこぼした一言が、「狭量すぎる」の指摘だった。
    「……狭いですかね」
    「狭いやろ。俺らが贈った酒に嫉妬してどうすんねん。びっくりするわほんま」
     小林は胸ポケットを探った。素早く狂児はライターを構えて、先端に火を灯す。紫煙がふわりと天に昇っていく。
     狭いやろか。いやでも当たり前の感情とちゃうんか。自覚はあっても、ひとに指摘されると、案外癇に障るものだ。狂児は眉をしかめて反論した。
    「恋人が、自分のプレゼントより他人が贈ったもんのほう喜んどったら、嫌にならんのですか」
     狂児は手元のタバコを灰皿に押し付け、ソファの背もたれに倒れ込むように体重をかける。くちにしながら、新鮮な驚きが胸のうちに広がった。嫉妬。嫉妬なんて感情は、幼い頃を除けばはじめてに等しいのではないだろうか。自分のなかにもそういった、恋人関係にありがちなこころが生きていたらしい。
     滅多にない狂児の反論に、めっずらし、と小林は驚きつつも、呆れ混じりに首を振った。
    「そら残るもんならまだしも消えもんやん。しかもおまえと聡実センセいくつ離れてんねん。二十五? あかんあかんなってへん、もっとどーんと構えとらんかい。そんななあ、年下の恋人に、嫌や~飲むな~もう持ってったらへん! みたいなんすんなや」
    「持ってったらへんとは思ってません」
    「ほんまか?」
     小林に見透かされ、たじろぐ。ある。すごく思っている。なんなら一度だけ、サボって持っていかなかった。聡実は少し落胆していて、余計にむしゃくしゃしてしまった。
     これ、あかんやろ。小さな感動と同時に、強烈な気恥ずかしさが襲ってくる。小林の指摘通り、なにせ嫉妬の対象が、酒である。それも狂児から尋ねて得た、善意のプレゼントに。
     あかん。四十五のおっさんが二十歳の子になにしてんねん。鬱陶しい。鬱陶しがられたらどうしよう。なんとかして、聡実に気付かれる前に抹消しておきたい。狂児は黙々とスマートフォンに向かい、検索フォームに打ち込んだ。嫉妬、消す、方法。嫉妬、しない、方法。表示された検索結果を、いちからじっと熟読している。
     その真剣なつむじに、小林が一言投げかけた。「はやいとこ聡実センセに言うたらええと思うけどな。おまえが臨界点超えて、妙なことしでかさんうちに」
     小林は異様に先読みができる男である。組長に次いで状況判断が巧みだった。物事の先が見えすぎて、組内では「予言者」「未来人」と揶揄されている。そんな男の忠告が、外れないわけがなかった。

     九月に入った。聡実はバイトと勉強に明け暮れている。絶対に落とせない単位に絡んだ課題が大量且つ難題で、一向に片付かないそうだ。バイトのシフトを減らし、予定のない日はほぼ家に缶詰で、外食は断られてしまった。外出するために見を整える時間も惜しいと謝られた。
     会いたいのはやまやまだが、勉学の邪魔はしたくない。行くのをやめたほうがいいか訊いた返事は、食い気味の「来て」だった。
    『ほんまになんもできんけど、勝手言って申し訳ないんやけど、狂児さんには会いたいです』
     普段そう素直な子ではないので、時折こういったストレートな台詞をぶつけられると、参ってしまう。
     気分が最高潮に舞い上がっていると、往々にして茶々は入りがちだ。昼頃、順調に仕事を終わらせ、例の如く酒を片手に東京に向かおうとした狂児の足を、舎弟の電話が引き止めた。最近入った若い組員が、同業者にケンカを吹っ掛けたらしい。悪いことに相手は祭林ときな臭い関係にある組の構成員だった。
     肩ぶつかったくらいで拳使うな。アホちゃうか。自分でケツも拭けんうちに勝手なことすんなや。教育係にあとを任せて発ちたかったが、相手が悪い。すぐに抗争にはなりはしなくとも、いつかの火種のひとつになっても困る。ことを穏便に運ぶべく、狂児が出向かざるを得なかった。
    「お互い、アホを下に持つと苦労しますなぁ」
    「ほんまですわ。ご迷惑おかけして」
    「いやいや。発端はこちらにあります。ほんまに申し訳ない。これに呆れず、これからもよろしゅう頼んます」
     幸い警察の目にも触れず、向こうも新人の下っ端が、なにも知らずケンカを買ってしまったと苦笑いだったが、お互い腹の底ではなにを考えているか悟らせない。軽く金を包んで渡し合いことなきを得たが、きっかけを作った組員のしつけまでがけじめである。教育係ともどもしっかりとお灸を据えて、やっとのことで乗り込んだ新幹線は、最終便だった。新大阪のホームに降りたときには、既に発車ベルが鳴り響いていた。狂児が慌てて乗った背中でドアが閉まった。危ない、なんとか間に合った。
     深い一息とともに、腕時計を見遣る。聡実宅に着けるのははやくとも0時過ぎ、思わず舌打ちが溢れた。勉強のフォローをしてやりたくて、昼過ぎに行って家事をぜんぶ担おうと思っていたのに。夕飯を作りながら、おかずを作り置いて、掃除を済ませて、買い物も行ってやって、せめてもの手助けをしたかった。
     明日も夕方は出ねばならず、やりたいことのすべてはできそうにない。苛立ち混じりに髪を掻き混ぜた。おおきな深呼吸でなんとか自分を宥めようと心がける。到着予定時間のメッセージを聡実に送り、狂児は今日のことの顛末を報告すべく、狂児は仕事用のスマートフォンを取り出した。
    「すんません、蒲田まで」
     品川に着いてドアが開いた途端、ホームへ飛び出し、走ってロータリーに向かいタクシーを捕まえた。真夜中、車内はクーラーがよく効いているとはいえ、からだを蝕む熱はなかなか下がらない。仕事着のブラックスーツのまま来てしまって、暑くて敵わなかった。一日分の汗がシャツに染み入っている。じっとりと蒸れて、気持ちが悪い。着替えたい。あっつ、と狂児は低くぼやいた。喉がからからだ。そういえば新幹線でコーヒーを飲んだきりだった。
    「ごめん聡実くん、遅なってしもて」
     しずしずと階段を昇り、部屋の明かりがまだ点いていることを、小窓で確認する。起きている。いや、点けっぱなしで寝落ちている可能性も捨てきれない。合鍵でアパートのドアを開けると、聡実は台所でスルメを齧っていた。勉強は小休止にして、風呂はもう済ませたらしい、スウェット姿で、小さな調理台には並べた水の入ったコップとスルメとピーナッツ。文庫本を片手に立ち食いしている。
    「めっちゃくしゃくしゃやん。走ったんですか?」
    「もー焦ってしゃあなかったわ! ほんまは昼にはここにおるはずやってんで!」
    「そらしゃあないでしょ、仕事やもん。中間管理職って大変ですね。下の面倒まで見て」
     お疲れ様です、と淡々と労って、聡実は文庫本に栞を挟んで片付けている。愛想はないけれど、言い方や目つきで本心からの言葉だとわかるので、嬉しい。狂児はくちびるをにやつかせて礼を返した。
     会えたことでほっとしたのか、水を目の当たりにしたからか、急速に喉の乾きが強くなった。水、水。喉がいがらっぽくなってくる。
     狂児は調理台のコップに手を伸ばした。
    「新幹線からなんも飲んでへんねん。これもらうね」
    「うん。……ん!? 待ってあかん!」
     ぼうっと頷いた聡実が、はっと息を呑んで狂児にストップをかけたが、既に水はいくらか喉を通ったあとだった。一口、二口でコップを戻し、生き返った気分で大仰に息を吐いた。
    「ん? あかんかったん?」
    「あかん、っていうかそれ、」聡実が申し訳なさそうに理由を明かす前に、――異変は訪れた。
     体内が炉を焚いたように急激に熱くなり、激しい頭痛が起きた。狂児はよろめき足元をふらつかせて、咄嗟にシンクに手をついた。けれどあまりちからが入らず、そのままずるずるとくずおれるように床に倒れ込んでいく。
     慌ててからだを支えようと脇に手を入れた聡実が、続けた。「それ、日本酒やねん」
     ああ、道理で酔っ払ったときの感覚に似ているはずだった。だからスルメなんて食べていたのか。晩酌に日本酒、立派な飲兵衛になったものである。構えなく一気に飲んだものだから、下戸のからだには痛烈なパンチだった。あかん、膝でも立ってられへん。なんとか立ち上がって、横になれる場所まで動きたかったが、無理だ。頭が回る。意識が途切れる。このままここで寝るだけならまあいいか。ここに転がしといてくれてええよ聡実くん。ごめんね。残念ながらひとつも声にはならず、狂児は諦めて、瞼を下ろした。記憶があるのは、ここまでだ。
     次に意識が再開したときには、もう陽が上ってしばらく経っている時間帯だった。しっかり熟睡してしまった。
     うっすら開いた瞳に光が射して痛い、反射的に瞼が眼球を庇う。最悪や。掠れた悪態が喉を吐く。折角聡実と過ごせる夜だったのに。遠距離恋愛の、生きる世界に隔たりのある自分たちには、いかに貴重な一夜だったか。狂児は呻き、寝返りを打ちたいが鈍い頭痛が許してくれない。くちのなかは苦く、腹が空っぽで余計に気分が滅入る。それでもなんとか重たい瞼を持ち上げれば、ぼやけた視界には覗き込む聡実の顔が写っている。
    「起きた」
    「……なんじ?」
    「6時。気持ち悪ない?」
    「きもちわるい」
     蚊の鳴くような声に、聡実が軽く吹き出した。
    「弱ってる狂児さんおもろい」
    「おれはぜんぜんおもろない……」
    「ふふ」
    「ふふ、ちゃうよ……なあきのう迷惑かけんかった?」
     酒を誤飲してから、朝目が覚めるまでの記憶が、切り取ったようにきれいに抜けている。狂児がおそるおそる訊くと、聡実はベッドの隙間に座って、前髪に指を梳き入れた。シャツに染みるほど汗だくだったのに、シャワーも浴びていない。汚いよ、と抵抗しても無視して、細い白魚に似た指先が、そろそろと頭を撫でてくる。
    「ぜんぜん。おとなしくぐっすり寝とりましたよ」
    「台所で寝落ちた気がすんねんけど」
    「僕が運んだっていうか肩貸したっていうか、半分起きとったんちゃうかな。自分の足で歩いてました」
    「聡実くんどこで寝たん」
    「狂児さん奥に押し込んで、ここで寝ましたけど」ぽん、とベッドの座面を叩く。
    「狭かったんちゃう」
    「いつも寝てるやんここで」
    「せやけどいつもはなんていうか、くっついとるやん」
     シングルベッドに高背の男がふたり収まるには工夫が必要だ。聡実限定でくっつきたがりの狂児が口実にして、聡実を腕のなかに招き入れて眠るのが、いつものスタイルだった。今朝の狂児の腕は布団の外に垂れていて、からだはベッドの真ん中に転がっている。とても聡実の話は信じられない。
     狭かっただろう、こんな大男がベッドを占領して。床に転がしといてくれたら良かったのに、と眉が下がるが、明け渡してくれた優しさを慮れば軽々しくくちにできない。ますます気分が滅入った。
    「風呂にも入らんとベッドに上がって、ほんまにごめん」
    「ううん。僕がすぐ止めへんかったし、あんなコップで日本酒飲んどったらそら勘違いするわな。ごめんなさい」
    「聡実くんいっこもわるないよ」
     咄嗟に起き上がったら、すさまじい頭痛にすぐに撃沈した。再びベッドに倒れ込む狂児を、聡実はにこやかに眺めている。珍しい。こんなにずっとにこにこしている彼を、いままで見たことがない。「おとなしくしとって」と額から前髪を梳く手は優しく、声も弾んでいる。
     いまだかつてないほど機嫌がいい。これは間違いなく、昨夜なにかあった。なんやねん。俺なにしたん。酔い潰れている間の記憶が、ますます惜しくなる。問い詰めたくても、酒が抜けきらずくちを開くのも億劫だ。
     聡実は「もっかい寝たら」と誘った。
    「まだだるそうや。顔色悪い」
    「いやや、おきる」
     夕方には大阪へ戻らなくてはならない。なぜか折角聡実の機嫌も上調子なのに、みすみす無駄に時間を過ごしたくない。掠れて小さな声で抗うけれど、撫でる手の心地よさとひどい倦怠感が、からだをベッドに押し留める。
     なぜだろう。下戸とはいっても、仕事柄酒を飲まねばならない場面は山程ある。当然衆目の面前で、組を代表する若頭補佐が倒れるわけにはいかない、吐きそうになっても気合で乗り切っていた。なのに、いちばん格好つけたい聡実の前で、その振る舞いがどうしてもできない。
    「寝たほうがいいですよ。僕ずっとここにおるし。ね。ほらねんねやで」
     いなす、穏やかな囁き。なあ、なんでそんな楽しそうなん。俺昨日ほんまになにしたん。教えてよ。訊きたいのに、からだは再び眠りに落ちようとしている。くちは開かず、瞼も閉じていく。
     結局聡実宅に滞在できる限界まで寝てしまい、起きて早々にシャワーと身支度を済ませて、狂児は泣く泣く東京を離れた。起きてもまだ聡実は上機嫌で、勉強が忙しいだろうに、なんと入場券を買ってまで、品川駅の新幹線ホームまで着いてきた。しかも別れる間際に「またはよ来てね」と頬にキスまで降らせた。
     そんなこと、再会して二年間で一度もなかった。もはや恐ろしくなる。何度尋ねても、上機嫌の理由をその日は教えてもらえなかった。

     次に聡実宅を訪問できたのは、一ヶ月後、十月の入り口だった。予定通りの新幹線に乗れたあたり、前回よりはスムーズに大阪を離れられたと言える。ただやはり間際まで仕事に捕まり、手土産を用意する猶予はなかった。恋人への贈りものは、隣の空席に転がした、酒瓶が二本入った袋ひとつだけ。まったく忌々しい。酒なんか嫌いや。私怨を込めて蹴飛ばしたくなる衝動を抑えて、狂児はじっと睨めつけるに留めた。
     聡実は大学が午後休講らしく、家にいると前もって連絡をもらっていた。合鍵はあるけれど、在宅しているなら開けてもらう。チャイムを鳴らし、ととと、と駆け足気味の足音がドアの向こうから透けて聞こえる。薄いドア、薄い壁、簡単にピッキングできそうな鍵。築三十年は経過しているアパートは、狂児からすればすべてが心許なく、ほんとうはもっと頑丈なアパートに引っ越してほしい。出資するから。マンションを一室プレゼントしてもいい。怒られるだけでは済まないので、くちには出さないけれど。
    「おかえり」
     僅かな間を空けて「ただいま」と返す狂児に、聡実は呆れた顔を見せた。
    「また緊張してる。ええ加減慣れてくださいよ」
    「無理やもん」
    「四十代がもん言うな」
     ホテル宿泊をやめて、聡実宅に泊まりだし、彼は毎度そう出迎えてくれるようになった。言われるたび、同棲している錯覚を得てしまう。たまらなさに、ちっとも慣れが進まない。胸がじいんと熱くなり、いつもすぐに応えられなかった。
     酒瓶の入った袋をテーブルに置き、ジャケットとネクタイをハンガーに引っ掛けておく。風呂場で手を洗わせてもらい、ちょうどコーヒーを煎れてくれていた聡実を手伝い、各々カップを持って部屋に戻った。
     目敏く袋を見つけた恋人が、あ、と声を上げる。縦長のマットな黒地のペーパーバッグは、あからさまに一升瓶が入っていることを主張している。喜ばれるん、なんか嫌やなあ。俺が選んだんとちゃうのに。悪態を吐きつつ、組長と小林からである旨を伝えようと持ち上がったくちは、聡実の落とした独り言に遮られた。「なんや、持ってきてくれたん。ほんまになくても良かったのに」
    「え?」
    「ん? あ、」
     しまった、とくちを塞ごうとして、一瞬反応した利き手は、残念ながらコーヒーカップに使っている。聡実は代わりに下唇を噛んでくちびるを閉ざした。傷がついてしまうからやめてほしい。
     狂児はカップを預かって机に置き、くちびるを撫でて諌めてから、空いた両手を拾い掴んだ。
    「どういうこと? お酒要らんかった?」
    「いや要ります飲みたいです」即答だ。
    「ほなどういうこと? 教えてくれへん」
     前屈み気味に、視線を逃さず合わせて問う。執拗に、答えを得るまで訊き続ける姿勢を滲ませた。聞き流してもいいのかもしれないが、狂児の頭のなかにはいくつかのキーワードが飛び交っていた。小林に忠告された「妙なことをしでかす」、聡実の謎の上機嫌、いまの不可解な反応。すべてをリンクさせる答えは間違いなく、先月の無様に酔い潰れた晩にある。
     しばらく目を瞑って熟考していた聡実は、やがて深々と溜息を吐いて、観念した。
    「ほんまに言いたくないんですけど、しゃあないですね」

     ◇◆◇

     ――あの晩、狂児は確かに台所で酩酊し、潰れた。ぐったりくずおれて顔色は真っ青、とても歩ける様子ではなく、ほぼ引きずるかたちで、聡実は大柄な恋人をベッドに運び込んだ。上半身をまず載せて、次いで下半身を上げる。苦しそうなのでネクタイとベルトも外してやった。丁寧にからだを扱ったつもりはなく、でもまったく目を覚まさない狂児の姿は、流石に心配だった。
     苦々しい顔つきで、狂児は眠っている。早生まれでひとり飲めず、酔い潰れた友人たちを介抱し続けた経験が活きそうだ。吐き気のために、たらいとビニール袋、ミネラルウォーターのペットボトルを出しておく。
     掛け布団を載せてやり、自分ももう寝よう。明かりのリモコンを取るべく、踵を返しかけた聡実の手を、背後から強引に引っ張るちからがあった。狂児の目が、うっすら開いている。薄笑いがテンプレートのくちびるは無表情、視線も朧げで、焦点が合っていない。顔が一変して真っ赤だった。
     狂児さん、と呼んで、腕を離すよう引っ張り返して抗ってみるが、より力まれて剥がせない。
    「狂児さん、離して」
    「いやや」
    「嫌言われても。僕寝られへんやん」
    「いややって」
     子どもか。いやいや駄々をこねる声は小さいものだが、如何せんちからが強い。引っ張られるせいで、中腰になる体勢がつらい。聡実は一旦座って、腕をとんとんと叩いた。
    「なあ、離してって。僕もベッドで寝たいんやって」
     狂児は離さへん、と譲らない。頑なだ。酔っ払っておかしなっとる……どないしよ。戸惑っている聡実に、狂児が更に言葉を重ねた。「ほんまはいややねんずっと」
     ……ほんまは? ずっと? 聡実は首を傾げた。咄嗟に、腕の引っ張り合いを言っているのではないと思った。
    「なんの話してる?」
    「なんの……わからん。おれいまなに言うてる?」
    「知らんがな」
     こっちが聞きたいねん。酔っ払いに言っても無駄だとわかりつつ、つっこまざるを得ない。狂児は脈絡なく「ちゃうねん」と言いたいことをとにかく止めなかった。なにがちゃうんや。
    「いややねん。さとみくんがお酒飲むん。いやや」
     男は無表情の眉をわずかに歪ませる。会話は成立していないが、低い訴えは真実に気付かせてくれるいいアシストだった。聡実はきょとんと目を丸くして、すぐに悟った。そういえば最近、彼は様子をおかしくするときがあった。まさしく聡実が飲酒しているときだ。彼が組から預かったとする手土産の酒をくちにすると、少しだけ、ほんの少しだけ不機嫌になるのだ。
     もしかしてそれか。つけた検討は大正解だった。まったく同じ内容を男のくちが紡ぎ出した。――アニキたちの酒のほうが、うれしそうやな。おれが持ってくるリクローおじさんのケーキより。551の肉まんより崎陽軒のシュウマイより串カツの田中のテイクアウトより。はたちになったさとみくん、食い気より飲兵衛やから。
    「酒の味なんかおれにはわからんもん。飲まれへんし。おれきみとアニキたちの橋渡ししとる気分や。なんでおれがそないなことせなあかんねん。のけものやん」
    「のけものになんかしてへんけど」
    「なってるやん。おれだけその酒、うまいかどうかわからへんねんで。味わかる前にベロベロや」
     それは下戸だからもう仕方がないので諦めては。と思ったが、体質をコンプレックスに捉えているなかで、真っ直ぐ指摘するのは流石に可哀想で、聡実は言い換えた。
    「僕禁酒したらええの」
    「それはあかん」食い気味だった。「さとみくんは好きにしたらええよ」
     聡実が飲酒すること自体が嫌なわけではない。核心は違うところにある。探るように見据えて、聡実は問うた。
    「ほな僕どしたらええの。狂児さん、ほんまはなにが嫌なん」
     狂児は逡巡した。「言ったらあかん気する。キショイで」と急に怖気づくので、「あかんくないよ。僕が許す」と偉ぶって促した。いまのいままで駄々をこねておいて、今更キショイもくそもない。
     狂児は踏ん切りをつけるまでいくらか間を空けて、開き直った。はっきりと、おおきく伝わる声量で告げる。
    「アニキたちと仲良うならんで。嬉しそうに受け取らんで。おれのケーキのほうだけよろこんで」

     ◇◆◇

    「せやから僕、無理に持ってこんでええよ、狂児さんから断ったらって返しましたよ。というわけです」
     穴があったら入りたい。いやなければ掘ってでも入りたい。入るだけでは物足りない。上から土をかけて、確実に苦しんで死ねるよう狂児を生き埋めにしてくれる人材が必要だ。スコップはあるし、東京近郊にも人気のない山はいくつか候補がある。誰がいいだろう。運転手は適当に若衆からピックアップするとして、ああ、アニキ。アニキなら容赦なくやってくれる。アニキに頼むか。
     狂児は一瞬で成田狂児殺害計画を組み立てた。隙なく一切の逮捕者を出さず、殺せる方法だった。早速実行すべく、冷や汗で濡れて震える手がスマートフォンを取り出し、発信履歴の小林を探し当てる。
    「なにしてんですか」
    「アニキに電話する」
    「えっいま? なんで?」
    「俺を埋めてもらうねん」
    「は!?」
    「アニキ忙しいから捕まえてすぐ東京来てもらわんと、」
     すかさず聡実がスマートフォンを奪いにきた。狂児は必死に避けて首を振る。これはだめだ。だから酒は嫌だ。要らないことをべらべら喋って。言ったらあかん気したら言うなやどアホ。
     酒に人生を狂わされるのは、これで二度目だ。今回は前回の比でなく、蹲りたいほどの後悔が押し寄せる。四十五年の人生で、いまがいちばん恥ずかしく、失態への絶望や罪悪感が強い。
    「そんな、俺そんなこと言うたんか」
    「言うてましたけど、別にええやないですか」
    「ちっとも良くないわ……」
     最悪だ。他の誰より、聡実にだけは絶対に知られたくなかったのに。狂児は頭を抱えてしゃがみこんだ。
    「聡実くんごめん。できれば、いやできんくっても忘れて。なんなら俺が忘れさせるから。ネッ」
    「ネッちゃうわ怖いこと言うなやアホ。ほんまに、別にええんですけど。まあ、あの」一度言葉が切れて、ぽつんと聡実は、こぼす。「……嬉しかったし」
     嬉しかった。聞き間違いだろうか。確かめたくて狂児がゆっくり振り仰ぐと、聡実は頬を真っ赤にして目を逸らしている。
     嬉しいん。喜んでるん。丸くなって見つめる目が、言外に問うていただろう。聡実はより照れて、早口気味に捲し立ててきた。
    「……狂児さんあんまりそういうこと言わんやん」
     気恥ずかしげに尖ったくちびるが紡ぐ。「僕が狂児さんにああしたいこうしたいって言うことあっても、狂児さんから僕に言うことあんまないやん。きみの好きにしい、ええよ、ええよって許してくれるばっかりで。やから、我儘言うてくれて、ちょっと嬉しかってん。ああ狂児さん、僕のことで掻き回されてくれてはるんやなあって」
     聡実の薄茶色の瞳が、瞼で伏せられる。なにせ二十五歳も離れている。やくざで周囲に流されるばかりの空っぽな人生にしても、人生経験は聡実と比べ物にならない分厚さだ。サプライズ訪問やら早朝深夜に押しかけてくやら、些細な我儘はいくつもあっても、聡実の行動を抑制させたがる独占欲めいた我儘は、一度もぶつけられたことがなかった。はじめてだ。
     できるなら応えてあげたい。妬いて悔しげに乱れる姿が、かわいくてかわいくてたまらなかった、と、照れくさい笑みが語る。……かわいい?
    「俺?」
    「他におらんけど」
    「聡実くん、四十路のオッチャンがかわいいのは特殊な好みやと思う」
    「好きなんやから仕方ないやん」
     真剣な気持ちだとわかっていながら、茶化さずにいられなかった。案の定首元まで真っ赤にして、聡実は睨み見下ろしてきた。ごめんね、と謝る代わりに、狂児は苦く頬を緩める。
    「みっともないやん」
    「みっともなくない」聡実は速攻で断言して、膝を折って狂児と目線を合わせる。「せやからもっとそういうとこ、見せてほしいです」
     聡実は、狂児がなんでも許してくれると言うが、聡実だって同じだ。むしろ聡実のほうが、よっぽど包容力がある。やくざの自分を受け入れて、生活の一部に組み込んでくれて、愛してくれて、覚束ない感情に振り回されるいい大人を、本気でかわいがってくれる。
     聡実と歩む人生は、あたたかみがある。冷えた夜に生きる存在が、得てもいいものか躊躇したくなるくらい、ぽかぽかとあたたかくて優しい。空っぽの更地だった大地に、太陽のぬくもりが照らされて、ぽつぽつと小さな花が咲くような、まばゆい喜びや春めいたやわらかい幸せが、いくつもある。与えてくれる聡実本人に許されなければ、指先すら触れることをためらう人生だ。
     あかんわ、ほんまに俺きみのこと手放せへん。手放すつもりは毛頭ないし、きっとこの子が許さない。でも、ことあるごとに、赦しを乞う一言を胸のうちが吐く。狂児は幾度目かの確信と懺悔を念じて、聡実を抱きすくめた。

    マイベイブ

     大学四年生に進級する春、大半の学生にとっては、本格的な就職活動が始まる時期である。三年生の冬からインターンや説明会に足を運び、下準備を進めてきて、いよいよここからが勝負だ。エントリーシート、面接対策、慣れない作業が延々と続く。リクルートスーツを着込んで粛々と出陣していく友人たちは、既に気疲れと怒涛のスケジュールに、圧倒されかけている。
     聡実自身は院に進学するので、就活とは無縁の日々を送っている。ただし学外の高レベル校で、更に学費免除の特別優待生枠での入学を狙っている。秋から入試が第一次、第二次と続く、落とすわけにはいかず、呆けている暇はない。バイトを極力減らして、家や大学の自習室に引きこもり、もしくは教授の元へ足を運んで教えを請い、ひたすら勉強に励む日々を送っている。併せて卒論にも着手し始めねばならない。就活生にしろ進学希望にしろ、聡実たちは多忙に多忙を極めた一年のスタートを切っていた。
    「岡は東京で進学すんの?」
     三月の最終日に友人たちで集まり、聡実の誕生日祝いにかこつけた息抜きの飲み会を開いた。ほんとうに奢ってくれるらしく、主賓の聡実は遠慮なくつまみでテーブルをいっぱいにして、単価の高い銘柄の酒を頼んでいる。
     尋ねてきた隣に座る友人は、聡実と同じく上京組で、一年次から交流があった。地元では希望職種も収入も得られそうになく、東京での就職を目標にしている。
    「大阪帰る。受かればやけど。でも二番手で考えてんのも京都やから、結局関西には帰る」
    「岡なら余裕だろぉ」
    「ゼミでも評価Sだったじゃん」
     口々に褒められて気恥ずかしくなり、聡実は「やめてや」と手を揺らして払った。入学する時点でいまの進路はほぼ決めていたので、できるだけ成績上位をキープし続ける条件を、聡実は自身に課して四年間邁進してきた。あとは卒論次第だろうが、なんとか優秀生として終われそうだ。入試対策も順調で、現状の学力を当日発揮できれば、まず間違いなく本命に入学はできるだろう。しかし聡実の照準は更に上、特待生枠にあるので、まだまだ猛勉強が必須だった。
    「でも東京残んのかと思ってた。なんか帰る理由があんの?」
    「彼氏だろ」
     向かいの友人が訊いてきた問いに、また別の友人が前のめりに答える。
     いやなんでおまえが言うねん。間違いではないけれど。焼酎を舐めて、聡実は浴びせられる好奇心の視線に、億劫を滲ませて頷いた。言うか言うまいか迷う。ぼそぼそとくちを窄め、店の喧騒に紛れる声量で告げた。「……結婚する、から、戻る」
     え!? 途端、場がどよめいた。アルコールが効いて、テンションの上げ幅がおおきい。マジか! やべえ! 狭い店内に歓声が響き渡り、単なるテーブル席である自分たちを、周囲がちらほらと見遣りだした。
    「うるさい、はしゃぎすぎや」聡実は呆れ気味に諌めた。「たぶんやで、たぶん。まだ決まってへん。すぐやないし」
     親にも兄にもまだ言っていない。他人にはじめて明かした。酒のせいでなく、顔と頭が熱くなる。聡実はぱたぱたと手で扇いだ。
    「いやいやでも決まってんだろ。いつかはするって。そのつもりで戻るんだもんな」
    「ひや〜岡って結構ドラマチックな人生歩んでるよな」
    「やばー学生結婚じゃん」
     きゃっきゃと浮かれて茶化していても、彼らが心底祝福してくれていることは、充分伝わってくる。聡実ははにかんで受け止め、一応礼で返した。
     ドラマチックな人生。まあ、確かにそうだろう。けして凡庸ではなかった。聡実の恋人、もうすぐ婚約者に昇格する男は、二十五歳年上のやくざである。十四歳の夏に出会って、奇妙な運命が絡み、三年半の別離を挟んで再会した。男の腕には覚悟を示唆する刺青が増えていたが、付き合うまでには長い紆余曲折を経た。互いのこころを確認しあい、そうしてやっと、人生をともにしていこうとしている。たぶん。とつけ足してしまうのは、狂児次第だからだ。聡実はとっくにこころを決めていて――そのくらいの気概でないと、一般人が将来有望なやくざとなんて付き合えない――、いつ結婚してもいい。実際の入籍は法改正後になるため、先にパートナーシップ制度を利用するか、やくざが使えるかを確認して、話し合って決めていきたいと考えている。自分たちはまだそれ以前の段階だ。
     狂児からの結婚の誘い、プロポーズを、聡実はじっと待っている。
     別に待つ必要もないのだが、狂児が譲らなかった。付き合うのも、はじめてのセックスに至るのも、ぜんぶ聡実発信だ。情けなくて、若頭補佐の名が廃る。せめてプロポーズは俺にさせてお願い、と強く請われたので、おとなしくしている。
     どちらも狂児が遅くて待ちくたびれての行動だった。今回こそははやくしてほしいのだが、どうも既にとろい気配が漂っている。
     先月会ったときも、その前も、狂児は進路についてなにも訊いてこなかった。そのわりにずっとそわそわして落ち着かず、あれは訊かなかったのではなく、訊けなかった、が正しいだろう。やくざなんて度胸と勢いが必須そうな仕事をしているわりに、彼は結構な臆病である。
     プロポーズするなら、進路を変えられる、いまが絶好のチャンスだと思う。結婚したいから大阪帰ってきてや、そんな風に言ってくれてもいいのに。なにも訊いてこない、聡実が話そうとすると強引に話題を変えるので、狂児はまだ聡実が進学することも、大阪に帰ることも知らない。
     とっととしてほしい。まあ、外堀埋めるくらいなら、してもええよな。聡実は再び焼酎を啜り、明日やってくる男に、なにをせびるか静かに画策していた。

    「聡実くん、お誕生日なにがほしいん?」
     きた。
     四月一日、赤坂のフレンチレストランでディナーを済ませて、ふたりは聡実宅に帰り着いた。ふたりで狭苦しい風呂に縮こまって入り、のぼせそうな行為を第一ラウンド致した。ぐったりして気力のない聡実に代わり、髪を拭いてドライヤーを当て、狂児が訊いてくる。数週間前から、電話やLINEで何度も問われていたが、今日までずっとわざと答えなかった。顔を見て、直接言いたかった。
    「日付変わってまうよ。なんでもええんよ。車とか、馬とか、ギターとか」
     声が焦っている。相変わらずプレゼント候補の規模がおおきい。
     令和時分に、狂児は未だ羽振りがすこぶるいい。暴対法は年々厳しくなりつつも、うまく抜け穴を見つけているようだ。やくざの仕事も順調で、副業で株やら不動産やらに触れて、うまく稼いでいるらしかった。車も馬もギターも、頼めば買ってくれるだろう。実際、一昨年合宿で免許を取得したときに、祝いに本気でディーラーに連れて行かれそうになり、止めるのに苦労したのを思い出す。
     なんでもええ、は、ほんとうに、なんでもええ、だ。
     今日は車より高いものを請求するつもりだった。聡実はドライヤーの温風に目を伏せる。声が上擦らないように気を配る、あくまで淡々と、答える。
    「家ほしい」
    「ほおん、家、家ね。わかっ……、家ぇ!?」
     梳いていた指が、頭の皮膚にめり込んだ。いた、と声を上げると、「ごめん」ちからが緩み、指が沈んだ箇所に傷がないか入念にチェックしている。深い安堵の息を背に受けて、聡実は振り向いて、向かい合いに座り直した。お互い正座に畏まり、狂児はドライヤーを畳んで横に置き、困惑を顔に敷いている。
    「え、ほんまに家?」
    「うん。あかん?」
    「ええけど……そらまた、珍しいな。きみがそんな高いもん言うてくるなんて」
    「あ。ひとりで住むんちゃうよ。狂児さんと住む家がほしいねん」
     ひく、と膝の上に載る指が跳ねた。聡実は一瞥して、再び狂児を真っ直ぐ射る。「僕、弁護士になります。ロースクールに進学すんねん。大阪の。志望校もう決めてて、秋に受験やねんけど、受かると思う」
     弁護士になる将来は、中学三年の冬、高校受験の最中には決めていた。両親は喜んで聡実の進む道を応援してくれたが、志望するほんとうの理由はどうしても話せなかった。狂児との出会い、あの死を実感した事故がおおきな起因だった。
     やくざと生きるには、どうしたらいいだろう。当時は自覚のなかった初恋を基盤に、漠然と考えた将来設計は、次第に叶えたい具体的な夢に変化していった。手に職をつけるのがいいか。まともな会社で働けなくても、独立してひとりで稼げる職がいい。法律を学べば、狂児への解像度も上がるだろうか。やくざなら、もしかしたら刑務所に入るときもあるだろう。狂児が死んだと思いこんでもなお、その道を違うことはできなかった。
     もともと勉強は好きで、あれだけ部活に注力していても、聡実は成績がすこぶる良かった。高校は近場にある進学校に悠々と進むことができた。学年全体での総合順位は常に上位に位置していた。法学部受験を表明しても、担任は理由も訊かず候補校を挙げるだけだった。両親にはやましさがあったから、できるだけ迷惑をかけないように、大学も成績優秀者向けの奨学金資格を獲って、バイト代の一部は学費に充てた。
    「司法修習も就職も、大阪でやるつもりです。しばらく学生やら研修生やらで、すぐに家賃満額払えると思えへんけど、迷惑かけると思うんやけど、狂児さんと一緒に住める家がほしい」
    「……ほんまに弁護士目指しとったんか。俺とおんの、リスキーやない? ええの?」
     狂児が殊勝げに訊く。アパートのテーブルには、法科大学院受験に向けて、六法全書やら法律関係の資料が散らばっていた。隠す気もなかった。薄々、聡実の進路に気が付いていただろう。
     なんのために弁護士を目指したと思うのか。聡実は「ええよ」と言いきった。
    「そらはじめはどっかの事務所入って、先生の下で修行することになると思うねん。けど、いずれは独立するし、そんときバレんかったらええんとちゃう」
     狂児とのことは、聡実のなかで不変の決定事項だ。誰になにをされようとも、覆せない、覆すつもりはない。
     これはまだ彼には伏せておくが、法科大学院の受験が無事に済んだら、両親と兄に狂児とのことを話すつもりだ。同棲するなら、明かさずにはいられない。ただ聡実は不安視していない。岡家のことだ、縁を切られる覚悟はあり、父と兄は卒倒しそうだが、母親だけでもあっけらかんと祝福してくれるだろう。そういうひとたちだった。でも自分の我儘で負担をかけたくないので、学費は特待生の奨学金で全額賄い、生活費は勉強がてら法律事務所で業務補助のバイトをして、少しでも稼げたらと考えている。
     やりきれるかはわからない。狂児には金銭面で負荷をかけてしまう。自分が想像している以上に苦難の道だと思う。でも、聡実はもう選んだ。
    「狂児さんと一緒に住める家がほしい。狂児さんが、いつか僕に気兼ねなくプロポーズしてくれはるように、僕を逃さへんように、僕の立場を整えておきたい」
     膝の上の手を拾って、包み込むように握った。狂児の視線がじっとそれを見つめ、やがて深い息が落ちてくる。
    「俺、信用ないなあ」
    「そら前科ありますから。余罪もいっぱい」
     冗談めかした台詞に、硬直していた彼のくちびるがほどけて、小さな笑みが浮かんだ。
    「じゃあ、うん」おもむろに狂児は立ち上がり、ハンガーに引っ掛けたスーツのポケットをまさぐって、また目の前に戻ってくる。「ほな、うちにおいで」とともに手に握らされたのは、ストラップもなにもない、無垢なシリンダーキーだった。
    「ん?」
    「ほんま俺、とろいんやなあ……先越されてしもて」
     苦笑いで頭を掻く男は、今年はリクエストの他に、はじめから自宅の合鍵を渡すつもりであったそうだ。
     大阪に進学することはほんとうに知らなかったと言った。狂児は職業柄、あらゆるコネクションを動員して、聡実のすべてを調べられる。出会った頃は少々探っていたが、付き合い始めてからは、一度もしていないと言いきった。
    「大学でどんな話してんのかな、とか、家でどんな生活してんのかなとかさ、気になるよ。でも聡実くん、教えてくれるし、きみが話してくれてんのを聞くほうが、ええなって思ってん。どうでもええことでも、ああきみはその、話しとることに対してそうやって思ってんねんな、って、声や選んでる言葉でわかるの、楽しい。聡実くんの目を貸してもらって、聡実くんの世界を見してもらえとる気がする」
     ほんまはちょっと考えてんけど、と狂児は声を低くして告げた。
    「盗聴器も隠しカメラも、スマホのコピーもな、すぐできんねん。ほんまにできてしまうから、やっぱり知りたいな、やったろかなって思うときもあった。でもそれ、仕事相手にはしても、恋人にはしたらあかんやろ。キモいし……きみには誠実でありたいねん」
     せやからしてへんよ、偉いやろ。冗談交じりとはいえ、胸を張って宣うことでもないと思うが。健気なかわいげを感じて、聡実は一応褒めておいた。
     狂児は続けた。大阪に帰ってくるにしても、東京に残るにしても、いつでもその鍵を使って来てくれたらいい。セーフティハウスや、いくつかある持ち物件のひとつなどではなく、正真正銘、現在住んでいる狂児の自宅の鍵だった。独り暮らしを始めて長いけれど、誰かを招いたこともなく、女を連れ込む、同居するなんて以ての外だ。合鍵なんてはじめて作りたくなった。しかもセキュリティがかなり強化されたマンションであるため、四苦八苦してなんとかできた鍵だと語った。
     ぎゅっと手と鍵を握るおおきな手は、汗ばんで震え、風呂上がりなのに冷たい。けれど見つめてくる視線は、熱がこもってゆらゆらと蕩けている。
    「聡実くん、大阪帰ってくんねやったら、一緒に住んで。一緒の家に帰ろ」
     付き合い始めの日を思い出す。聡実が告白して、狂児は断って、聡実が怒ってケンカをして、「どうやって言ったら恋人になれるかわからない」と迷子のようだった男の顔。口説きかたひとつも知らなくて、自分のしたいことを素直にくちにもできなかった。二十五も離れているから、意地やプライドで外面を固めて、格好つけて、本音をなかなか明かしてくれなかったこともあった。
     嬉しいな。聡実の願いをなんでも聞いてくれてしまう相手だからこそ。先に自分がフライングしてしまったけれど、狂児が自身の意思で用意してくれていて、嬉しい。狂児も本気で同棲を考えて、そういう未来を描いてくれていたのだ。そう強く実感できる気がした。
     弁護士候補と、反社会的組織の幹部。二十五年の人生の隔たり。自分たちはこれから先、一般的な恋人や伴侶たちより険しい道を歩むのかもしれない。互いの世界の差異に、かき乱されることもたくさんあるだろう。
     それでも、生活をともにして、人生を寄り添って生きていきたい。望みは不変で、これから先の日々、聡実も、おそらく狂児も、それだけで、十二分な幸福を得られる確信がある。
    「うん。一緒に住も」
     聡実は狂児の手を、握り返して頷いた。ひとりがふたつのまま、こうやって手を繋いで指を絡めて、好きなところに行って、躓きながらでも、どこまでも生きていこう。
     僕らなら、それができる。

    「あ、聡実くんこれプロポーズとちゃうから。同棲のお願いやから。プロポーズはまた追々」
    「はよせんと僕しますよ」
    「アッあかんよ! ほんまにあかんからな! 絶対すんなよ!」