ある五月五日 / 狂聡

20210508→20221210 Rerelease

 五年前、三十四歳になった年に、聡実はようやく念願の個人事務所を開設するに至った。司法修習生を経て、弁護士として働き、こつこつ貯めた資金を元手に、大阪市内のビルの一角にテナントを借りた。
 狂児はしつこく出資をしたがった。勿論固辞した。やくざがパトロンの法律事務所なんて体裁が悪すぎる。洗浄したきれいな金と、クリーンなフロント企業を使うから、と食い下がられたが、そういう問題ではないし、これはあくまで聡実個人の目標だ。努力を積み、自らの手で得なければ意味がない。
 独立直後は、当然順調とは言い難かった。いくら十年近く弁護士の経験があっても、所詮事務所のネームバリューが物を言う。前事務所の手伝いや、懇意にしていた顧客たちから頂いたちいさな依頼を、聡実はこつこつ堅実に片付けた。ひとつひとつを丁寧に誠実にこなし、信頼を育み、着実に次へ繋げていく。聡実が勤めていたローファームは、民事刑事どちらも満遍なく扱っていた。聡実自身、独立を見据えて、どちらも人並み以上に研鑽してこなしてきた。実力は、同世代の同業者よりずっとついている自負がある。努力の甲斐あり、事業は一年ほどで軌道に乗って、いまはパラリーガルを雇っても慌ただしく忙しくさせてもらえている。
 仕事は回してもらっていても、独立したての収入は乏しく、しばらく事務所は赤字経営だった。予め起業用とは別に、余分に積み立てておいて資金は、けれど少しも使わなかった。独立する直前に舞い込んだ、思わぬ〝副業〟のおかげだった。
 ぱち、と聡実は目を覚まし、枕元のスマートフォンを手繰った。六時。ゴールデンウィーク真っ只中、休日にしては早すぎる目覚めである。二度寝に勤しみたいが、目が冴えてしまっている。昔はいつまでも寝られたのに。年々、寝ていられる時間が短くなっている気がする。歳とるってしんどいなあ、と以前ぼやいたら、隣に眠る年上の恋人に、「三十代でそないなこと言うてたらこの先どうすんねん」と叱咤された。曰く〝おじさんの玄人〟から見れば、まだまだ若造の類い、おじさんぶるのは十年早いと言う。
 いや、僕もう若造ちゃうし。世間一般的に見ておじさんやし。そもそも、「狂児さんとっくにおじさん卒業してじじいにランクアップしとるやろ。赤いちゃんちゃんこ着たやん」と返すと、途端にむっと不機嫌を露わにした。
 赤いちゃんちゃんこは、彼が記念すべき還暦を迎えた夜、レストランディナーから帰宅したあとに、聡実が着せた。絶対着いひん、嫌やで、と狂児は五十八になった誕生日からしつこく拒まれ続けていたが、聡実は絶対に執り行いたかった。還暦は生まれ変わり、新しい寿命を授かる歳と言われている。更なる長寿を願うこのならわしだけは、必ずやっておきたかった。この先、彼には少なくとも五十年は生きていてもらいたい。
 たかが慣習、されど慣習。祈れば届くかもしれない。聡実の想いで説得して、渋々着てはくれたが、狂児はよほど嫌だったのか、いまだに苦々しく眉をしかめる。ボロボロのジャージも、妙な絵のついたTシャツも平気で着るのに、そんなに気に入らなかったのか。ちなみに流石の稀代の色男も、真っ赤なちゃんちゃんこは似合わなかった。
 すやすや眠っている狂児は置いて、聡実はベッドを抜け出ていく。昨夜は相当宵っ張りだったので、しばらく起きてこないだろう。いや起きないでしっかり寝てほしい。
 聡実は洗顔と寝癖直しを済ませ、部屋着に着替えて身支度を済ませた。トースターでパンを四枚焼く合間に、たまごをふたつ溶いてフライパンに流し、ハムとチーズを用意する。トーストに切った具材を挟んで作る、簡易サンドイッチが今日の朝食だ。ダイニングテーブルにコーヒーとともに並べて、書斎のラップトップを隣に広げる。行儀が悪いが、ゴールデンウィーク明けは打ち合わせが詰まっている。〝副業〟の締切はその翌週、あまり猶予がない。空く時間は有効活用して、進めておきたかった。
 思わぬ〝副業〟はおよそ五年半前、年末の帰省シーズンにもたらされた。高校時代、仲が良かった数人の同級生で飲みに行き、ほどよく酔って入った二軒目のバーで、ある友人がぽつぽつと愚痴りだした。彼は東京の大手出版社勤務で、年明けに異動になり、ファッション雑誌編集から文芸部所属になると言う。異動直後からある文芸雑誌の副編集長に抜擢され、中堅のエッセイストを担当しつつ、出版社主催の新人文学賞の審査員を任された。彼はもともと文学を深く好んでいて、望んだ異動ではあった。だがそれらはとても、異動になったばかりの新人の仕事ではない。特に後者の審査員は、売れる新人作家を発掘する重大な責務だ。彼は疑問を呈したが、部長は聞かなかった。彼の小説を読むちからを、随分高く評価しているようだ。ありがたいが、「荷が重い」とぼやいていた。
「一般公募の文て、めちゃめちゃやねんか。文に酔うとるやつ、ストーリーをわざとらしく重くして酔うとるやつ、そんなんばっかやで。ほんまにプロ目指しとるんか? みたいな。素人の文て、ぶっちゃけほんまに読むのしんどいねんで」
「大変やなあ」
「ひとごとみたいに言うて」
「ひとごとやしな」
 笑う聡実に、友人は続けた。「聡実みたいになあ、素人なのに文が読みやすくてうまいやつ、なかなかおらんよ。おまえなんで小説家だかエッセイストだかにならへんかったんや」
「なんでて」
「書いてみたらええのに」
「はあ?」
「んー……エッセイとか? たとえばパートナーとの日々とかな、そういうのでも聡実の文なら充分読めるもんになると思うんやけど」
 高校の卒業文集にしたためた聡実の文を、彼はいまだに覚えているらしかった。情感と熱のこもった、名文やったと絶賛している。あれは思いの丈をぶちまけただけで、一気に書き上げ提出前に読み返しもしなかった。粗だらけのひどい文だと思うのだが。
 文筆業を営むつもりはさらさらない。ただちょうど当時聡実は独立を思案している分岐点にあり、新しいことに挑戦してみたい意欲があった。
 帰宅後、狂児に経緯を伝えて相談した。パートナーとの日々を書くなら、当人の許可が必須である。狂児は「個人がわからへんようにするならええよ」と条件付きで頷いた。勿論、聡実も書くなら、自分たちまで一切辿れないよう、濁しに濁して書くつもりだった。お互い、特に狂児は恨みも憎悪も買う悪の立場だ。名前も職業も嘯き、明かす真実は美味しい上澄みだけにする。年の差、共働き、結構ラブラブであること、その程度だ。ペンネームは本名とかすりもしないものを宛てがった。
 何本か書いてみて、数日後に友人に送った。多忙ななかですぐに目を通してくれ、少々の手直しは必要だが、このまま世間に公開できるレベルだと評された。友人は編集長に掛け合い、なんとトントン拍子に、ウェブマガジンでの月一連載が、決まってしまった。
 更に、掲載された初月の閲覧数が、連載エッセイ内で群を抜いてトップ、ウェブマガジン開設以来の数字だったらしい。まさかのことに、聡実は動揺したが、友人は原稿を読んだ瞬間に、予想できていた展開らしかった。卒業文集よりは、ひとに読まれることを意識して書いたけれど、それでも狂児との日常の一端を、淡々と書き起こしたに過ぎない。誇張もなく。聡実には、あれのなにがおもしろいのか俄に信じがたかった。
 連載を開始するにあたり、条件を提示させてもらっている。そのうち数点は、むしろ友人のほうから提案してくれた。高校時代の、特に仲の良かった友人たちは、聡実のパートナーが誰なのか、おそらく気付いている。配慮に感謝して、我儘を通した。編集担当は永続的に友人が担うこと、アーカイブの掲載はなし、次回更新時に、前回分は元データごと処分すること、魚拓や本文コピーができないようプロテクトも徹底してもらい、書籍化メディアミックス、著者取材は断固NGだ。あくまで副業であり、本業が軌道に乗ったあとは、隔月掲載に減らしてくれている。
「なににしようかな」
 聡実はサンドイッチを齧りながら、タブレットのスケジューラーを開いた。狂児との生活で起きたことは、ここにメモをとっている。日記紛いのこれらが、連載のネタ帳みたいなものだった。エッセイでは、話に関わらない限りは季節も月も明確にはしていないが、万が一の用心もこめて、ランダムに数ヶ月ほどずらした出来事を書くようにしている。
 すいすいと捲りながら辿っていく。読むと、その日の記憶がまざまざと蘇る。ある日のメモに、聡実は小さく口端を緩めた。
 ――狂児の隠しグセ発覚。納豆は匂いから苦手。近くでパック開けるのも、ほんまはきつい。はよ言えや。何年一緒に住んでんねんドアホ。
 大学卒業後、大阪で同棲を始めて十七年。思い出は山程。特に一緒に暮らしてはじめて知る事実は、数えきれないほどたくさんあった。主に狂児の、格好つけと、妙な遠慮による隠匿が。
 たとえばルンバについた一号二号三号という味気ない名前や、キングサイズの高級ベッドは聡実がはじめて泊まりに来る前日に買ったものであること。タバコの本数、若白髪、花粉症、とくだらない隠しごとはまだいい。
 聡実にとってショックだったのは、自分に無理に合わせてくれていたことの、十指では足りないほどの多さだ。ひとりでいると一日一食二食ほどで済ませる小食体質、深夜の食事は胃もたれしていた、朝は昔から食べないほうで、狂児の普段着は洗濯機使用禁止のものばかりであること。
 知らなかった。聡実が気付いたから、教えてくれたのだ。遠距離恋愛中は、どれもこれも隠されていた。聡実の夜食や間食に付き合ってもらったし、アパートに泊まった翌朝は朝食をふたり分用意した。量は控えめでも完食していたはずだ。苦しかったのではないか。服だって何度か洗濯機にかけた。もしかして、だめになったものもあったのでは。
 言ってくれたら良かった。狂児が聡実に合わせて、無理や我慢をする必要はなかった。
「なんで教えてくれんかったん」悔しさに苛立ち、声を張って噛みつくと、「嬉しかったから」と殊勝に笑って狂児は答えた。食事に誘われて嬉しかった、食べる? と訊いてくれて嬉しくて頷かずにいられなかった、洗ってくれようと思うこころが嬉しかった、朝ごはんを同じメニューを食べられることが嬉しかった。
「そんなん、ヒモのときにやって散々してもろてるでしょ。そんときも言わへんかったん」
「……ぜんぜんちゃうよ」
 ヒモ時代の話と比較すると、狂児はいつも僅かに悲しげな色を滲ませる。伏せった夜色の虹彩が、かすかに震えたように見えた。「ぜんぜんちゃう。女たちにはすぐ言うたよ。要らんかったから。聡実くんのは、ほんまに嬉しかった。」
「言うたらやめてまうやろ」と訊かれて、「当たり前やん」と即答した。狂児は安心と落胆を滲ませて続ける。
「腹パンパンでしんどくても、ほしかってん。やめてほしくなくて、せやから言われへんかった。嫌な思いさせてごめんな」
 普段、仕事の荒い仕草が定着してしまって、声も素振りもおおきい男であるが、本来の狂児は案外静かな佇まいをしている。明るくもやかましくもない。発声も抑揚が少ない。表情の動きは必要最低限だ。
 目の前の彼の様子を鑑みる。ちいさく低い声、ちいさな表情の変化。外面を取っ払った、本心の、素の感情が露わになっていると、聡実にはわかった。
 狂児は重ねて頼んでくる。「あんま食べられへんけど、夜食とか朝ごはんとか、誘ってよ」
 なんやねんそれ。怒りはぐっと喉の奥に呑み込まれ、収縮してなくなってしまった。聡実は溜息で声音を切り替え、首肯して返した。
 とはいえ、食べられないのに無理してほしくない。朝は聡実のほうが早い日が多いので、何度か黙ってひとりでこそこそ食べていたら、「やから言いたくなかったんや」と本気で拗ねて、フォローが大変だった。
「かわいいとこあんねんなあ」
 二十五も歳上の男への感慨にしては甘ったるい。ヒモやらやくざやら爛れた人生を送っているわりに、喜ぶ琴線がおぼこいところがある。
 そういえば今朝も置いてきてしまったが、あとで怒られるだろうか。パンを齧りながら寝室を慮っていると、急に背後から腕が伸びてきた。思いきり背中に上体をのし掛けられる。聡実はうわ! と悲鳴を上げた。睨み仰ぐ先、眉毛に寝癖をつけ、寝起きの髭面の犯人はにやついている。男の眼鏡のフレームが、後頭部に擦れて痛い。
「ちょっと!」
「おはよぉ」
「おはよぉちゃうわ! 危ないやんけ! 喉にパン詰まったらどうすんねん」
「俺がとったるよ」
「誰がやくざの世話になるか。フツーに病院行くわ。ていうかどいて。重い」
 つむじに押し付けてくる頭を、ぺし、と叩いてやる。渋々退いた狂児は、眼鏡をかけ直しとろとろと洗面所に向かった。髭剃りと洗顔を済ませてキッチンを経由し、戻ってきた手には、コーヒーとバナナ一本、剥かれたりんごのタッパー、ヨーグルトとパン半切れの載ったトレイ。これが狂児の朝食である。
 聡実の朝食には付き合いたいが、同じメニューを寝起きに摂取するのは、元来小食且つ朝食抜きの生活に慣れた胃に、負荷がおおきい。模索した結果、健康にも考慮して、フルーツヨーグルトに落ち着いた。聡実からすればなんの腹の足しにもならない、小動物のようなメニューである。昼夜の食事量もハムスターみたいなちんまりした盛り方で、図体の消費カロリーと合わず、時折心配になるが、六十半ばを迎えても、狂児の人間ドッグ結果は毎年オールAだ。
「お誕生日さまほっとくのはどうかと思いますけど」
「昨日遅くまで電話応対しとったやん。疲れとるやろうし寝かしといたろ思たんですけど」
「お気遣いありがとうございます。でも起こしてほしかったです」
「怒ってるん」
「怒ってないです」
「狂児さんが敬語で僕に話してくるときは怒ってるときやん」
「怒ってないです。さみしかったです」
 りんごをヨーグルトにディップして一口齧る、六十四歳に成り立ての男。ロマンスグレーの前髪がかかる、黒縁眼鏡の向こうから、拗ねた目が覗いている。「夜中までお誕生日おめでとーございますーなんてオッサンに祝われて、くたくたになってベッド行ったら聡実くんもう寝とるし、起きたら起きたでおらへんし。ボクまだきみから祝ってもらってませんけど」
 今年の春、とうとう成田狂児は組長を襲名した。
 数年前から打診はあった。前組長の体調が芳しくなく、祭林の跡目を継げるのは狂児しかいない。前組長含めた幹部満場一致の、正しく組の総意であった。本人は「柄やない」とはぐらかしていたが、いよいよ覚悟を決めたらしい。
 極道の組長なんて、悪人の頂点みたいなものだ。聡実にとっては喜ばしくも誇らしくもなく、祝う気はない。狂児も求めていない様子だった。ただ随分時間をかけて悩んでいたので、覚悟の部分についてだけは、めいっぱい労ってあげた。
 組長の誕生日には、日付が変わったと同時に祝いの電話やメッセージを贈る風習が、やくざの世界にはあるらしい。祭林組は、昨今衰退の一途にある反社会的勢力のなかでも、珍しく規模を保持または拡張している組織だ。腕のいい元若頭、つまり現組長におもねるべく、五月五日になった途端に怒涛のバースデーコールが鳴り響いていた。三本目を受け取ったあたりで、悪しき風習、来年はなくす、と狂児は喚いていた。三十分ほど様子を眺めていたが、とても終わりそうになかったので、諦めて聡実は先にベッドに入ったのだ。
「日付変わる前に言うたやないですか」
「フライングやん! そんなん祝ったことになりません!」
 しかめ面でぶう垂れている。出会った頃は「三十過ぎたら誕生日なんてどうでもええねんけど」と興味なさげに吐き捨てていたくせに。
 面倒臭いな。聡実な頬杖をついて嘆息した。
「わかりました。お誕生日おめでとうございます」
「おざなり!」
「ええやん。お昼からお誕生日さま特別デートコースやねんから、我慢してくださいよ」
「えー。ほなカラオケで俺のリクエストいっぱい聞いてや」
 狂児の誕生日には、必ずふたりでカラオケに行く。毎年一曲だけリクエストを受け付けるのだが、今日は好きなだけ聞いてやろう。
「わかった、わかった。なんでも歌ったるよ。ね」
 ラップトップを退けて、聡実は狂児の左手に自身の左手を重ねた。次いで小首を傾げると、途端にぶすくれた眉がほどけて、やに下がっている。四十手前の男のぶりっこを、かわいいな、と味わっている顔。
「……聡実くん、俺を誑すのうまなったね」
「そら、一緒におると似るって言うし。残念ながら」
「嫌なん? ひどない?」
 重ねた手の、指の間から、にゅっと長い指が滑り込む。同棲から実に三年を経て貰った、揃いの細身のシルバーリングがはまる、ふたり分の手。
 歳をとったな、と思う。狂児はいまだに「つやつやや」と言って撫でるが、年相応に随分かさついて浮く筋が増えた。狂児の手も、同様に生きた年数を重ねている。
 そうだ。今月の原稿は、はじめて出会ったときの話にしよう、不意にそう思った。卒業文集に残してしまったので、相当濁して書かねばならないが、なんとかなるだろう。
 十四歳で出会って、今年の四月、あのときの狂児と同い年になった。
 人生は長い、と誰もが言う。その通り、日本は長寿社会だ。けれど狂児の人生はどうだろう。該当するのだろうか。男の仕事上、死と隣り合わせになる状況もままある。三年半の強制的な別離は、聡実のおおきく価値観を変えた。人生はあっけない。あっという間に終わってしまう。
 最近はまた、少しずつ変化してきている。気は抜けないものの、ひとまず人生は長い。長く生きようと足掻けば。お互いに、六十を過ぎ、四十近くなってもまだ、最期が見通せないくらいに。
 そういえば、「聡実くん置いて死なれへんもん」と宣っていたのだったか。僕も、狂児さん置いて死なれへんなあ。あっという間になんて、終わらせられない。おじさんになり、おじいさんになり、これから先もともに生きていけるように。
 互いの指が絡まる。すり、と触れ合い、擦り寄る肌。視線が重なる。キスの代わりに、はにかみ合った。


 ――はなまるいちご 著/連載エッセイより抜粋


 僕らの出会いは二十数年前、僕が十代、彼は三十代後半であった。彼から声をかけてきたが、ナンパではなく、やんごとなき事情があってのことだった。
 ただ、僕は現在当時の彼と同い年だが、如何なる理由があろうと、十代の子に「LINEやってる?」なんてとても訊けない。訊く気にならない。無理だ。俺だって緊張していたんだよ、と本人は宣っていたが、そういう問題ではない。犯罪である。僕が警察に駆け込んでいたら、どうするつもりだったのだろう。
 つくづく、彼とは価値観や思考回路が違う。まるで合わない。合わないことだらけである。
 たとえばメモ。僕はデジタルネイティブ世代なので、買い物メモとか、生活のすれ違いで直接言えない連絡事項などは、ラインやメールで送って残したい方だ。そのほうが手早いし、楽で、なによりなくさない。それに僕の字は小さくて読みにくいので、同棲開始頃には老眼が始まっていた彼には酷だと思ったのだ。
 けれど彼は、手書きのメモをほしがった。一緒に暮らし始めた頃のこと、寝ている彼を置いて僕が先に家を出るとき、僕はLINEで彼に「先に出るね。行ってきます。」と送った。彼は気に入らなかったらしく、その一時間後、起きた彼から懇々と説教された。「味気ない」「テーブルにメモを残してくれればいいじゃないか」「俺はそんな起きてすぐに携帯を見ない」。僕は手書きが億劫なので、そう言われても気が向いたときにしかメモは残していない。が、どうやら突き詰めていくと、彼は僕の字が好きらしい。その理由が、小さくて丸くて大雑把で僕らしい字だから、だそうだ、僕は大雑把ではあるが、小さくも丸くもない。175センチあり、痩せ型体型である。でも彼には、小さく丸く見えているらしい。老眼の際に眼科を受診して、視力以外に問題は見つからなかった。根本的に、見えている世界がまるで違うのである。
 それから、彼は驚くほどデリカシーがない。欠落している。欠落してはいるのだが、その無神経な言動の裏には時々、センシティブなこころが隠れている。
 僕らが付き合いたての頃、歳の差や同性愛を懸念して、彼は何度も「ほんとうに自分でいいのか」「もっと歳の近いかわいい女の子のほうがいい」「せめて一回女の子抱いて」と繰り返した。挙句「なんなら紹介するし」とまで言いのけた。彼は社内外プライベート問わず非常にモテるので、フリーの女の子の連絡先をいくつか持っていた。
 最低である。僕がゴリ押ししたかたちではあったが、悩んだ末に彼自身が自分の意思で頷いて、僕らは恋人同士になったのに。人生ではじめて殺意が湧いた。
 僕は彼に女の子の好みを伝え、電話番号を示させた。彼は能面みたいな顔でスマホの連絡先アプリをめくり、見せてきた。嫌なら言わなかったらいいのにと辟易しつつ、僕はその場で電話をかけた。勿論フリである。僕は童貞ではなく、好きでもない女の子とセックスする気もない。かわいい声の女の子を思い浮かべながら、必死に演じた。彼女が僕のイマジナリー童貞を卒業させてくれると言外に匂わせ、電話を切ったあと「じゃあね」と言って、腹が立ったから、隠していた事実……僕が非童貞であるとも明かした。その場を立ち去ろうとした僕を呆然と見ながら、なんと彼は、目を潤ませたのだ。「嫌だ」と言って、腕でも肩でもなく指を握ってきた。「嫌だ。俺とだけエッチしてほしい」「過去の女誰。むかつく。きみとのエッチの記憶消してやりたい」と駄々をこねる顔色が真っ白で、僕は怒りより笑ってしまいそうだった。
 本来ならここで一発アウト、僕らは即座に別れたほうがいい場面である。こんなクソみたいな男は、将来の幸せにためにも捨てたほうがいい。友人が、このクソ野郎と付き合っていたら、僕も世のひとたちも、いま読んでいるあなたも、そう友人に勧めるだろう。
 でもこのクソ野郎パートナーは僕だ。僕も大概クソ野郎なのだと思う。僕は嬉しかった。彼が、僕の過去に嫉妬を見せたこと。僕を結局手放せないこと。クソ野郎はわかっているのだ。自身が、一般的とはかけ離れた価値観を持っていること。それで関係が終わっても仕方がないこと。わざと終わらせようとしているのだ。でも結局、自分が苦しくて最後の最後に耐えきれない。僕を傷つけるだけ傷つけて、結局自分が嫌なんだと気付いて、やめる。書き連ねながら、この男マジで最悪だな、とやはり腹が立つ。当時は死にそうなほど傷ついたけれど、いま思い返すと、子猫に引っ掻かれたようなかすかな傷だった。
 バツが悪そうに俯いた彼は、いい歳をして自分の感情にひどく鈍いのだ。こういう拮抗を経てはじめて、自身のなかにある気持ちに気付く。僕はその、彼のなかに潜む気持ちが、なんとなくわかっているから、こういうことをされても、耐えて彼を引き摺りだし、本音を聞いてばちんと頬を叩いてやる。僕らの関係は、そうやって続いてきている。僕のそういう、ど根性みたいなところを、彼は「俺には無理」と言って、ちょっと眩しそうな目で見てくる。

 僕らはなにもかもが違う。理解できないことも山ほどある。信じられないと罵倒し合ったことも数えきれない。二十数年の歳の差は、育ってきた環境、歩んできた道筋、触れてきたものがまるで違うし、僕らは生き物としての種族が違った。さながら美女と野獣。僕が美女とか野獣とかではなくて、異種族恋愛。友人曰く「それラノベによくあるやつ」。ラノベにはちょっと、僕らの恋愛は異端すぎる気がするけど。
 今日、僕たちは結婚記念日を迎える。お互いアニバーサリーに興味がないので、特になにするわけでもないつもりだったが、気分がノったので、僕はこの紙面を使って、告白と宣誓をしておこうと思う。彼もこの連載を読んでいるので、あとで「直接言うように」と怒られるかもしれないが、僕はシャイなデジタルネイティブなので、文字で勘弁してほしい。
 僕らがまあ、美女と野獣だとして、僕らは呪いがかかっているわけではないので、人間同士には一生なれない。彼の野獣のように尖った爪か、美女のように闇を照らす眩さに傷つけられながら、僕はそれでも彼を愛している。僕もきっと彼を、野獣のように尖った爪か、美女のように闇を照らす眩さで傷つけていると思う。それでも彼も、僕を愛してくれている。歪な相思相愛だ。
 生まれ変わっても愛し合いたい、なんてことは言えない。生まれ変わったら、魂や、もしかしたら顔は同じでも、記憶も声も違って、僕らではない。今生で、僕らは僕ら自身の出来得るすべてで努力しながら、僕らの日々を、寄り添って過ごしていきたい。死ぬときに満足して、できるだけ悔いなく、笑顔で逝けるくらいには。