狂聡ログ② / 狂聡

20210103

  • 小林氏の感慨……コバニキから見た狂児について
  • いただきますの夜……突然キス欲にみまわれる聡実くんの話
  • とるにたらない記念日……週末にいちゃつく狂聡 4621です
  • あの子ぼくが薬指見せたらどんな顔するだろう……喧嘩して別れたふたりがまたくっつく話
  • 恋はア・ラ・モード……猫耳メイドコスプレをする聡実くんの話
  • one night.……ピロートーク
  • 小林氏の感慨

     人間ってやっぱ変わるもんやなあ。目の前に転がる物体を眺めて、小林は漠然とそんな感慨を抱いた。
     一月四日、やくざにも仕事始めというものがある。なにせ表向きは金融なり不動産なり会社を経営、もしくは会社に所属しているのだ。ただし、年末年始の休暇というものは、世間と違いほぼないに等しい。特に古参や幹部連中は、大晦日から三箇日も、組の恒例行事で予定が煮詰まっている。会食やら参拝やら挨拶回りやら、直接的に業務と関わりないものではあるが、コミュニケーションも立派な仕事だ。やくざは自営業で、案外人脈や礼儀がものを言う職業だ。早朝から深夜まで、あっちにこっちに顔を出しては酒を飲み、タバコに火を点け、他愛のない話に耳を傾ける。労基度外視の休みなし、アルハラセクハラなんでもあり。紛うことなくブラック企業である。
     目の前の男も、若輩ながら幹部の一員であるため、年越しも年明けも出ずっぱりであった。食事会に納会に年始の挨拶回り、口がよく回り気の利く愛想のいい男前はどこへ行っても人気者だ。ナリ坊、きょうちゃん、狂児、よう来たなあ、まあ上がり。幹部になる前、若衆の頃から、組長や若頭、小林もよく狂児を連れて歩いた。彼を連れているかいないかで、相手の応対にも違いが出るくらいには、男にも女にもよくモテる。
     狂児本人は、「下戸なのに酒呑みのメシに付き合わされるんはしんどい」とぐだぐだ文句を言いつつ、仕事なのでサボらず同行して、自身の役割を着々とこなしていた。そうして迎える仕事始めに、「地獄からの解放や!」と喜び勇み、本来の業務に邁進していたのだ。去年までは。
     今年は、ソファに腰を据えて動かない。タバコを燻らしながらくちびるを尖らせ、見るからに拗ねている。
    「どうしたん、腹でも壊しとるんか」
    「……なあアニキ。ブラック企業て世の流れに反してると思わへん?」
    「せやな」
    「な? やめへん? 三箇日働くんやったらその分四日からお休みにしようや」
    「そらあかんな。会社回らへんようなるで」
    「俺らみたいな上層部おらんでも会社は回るやろ。つうか回る仕組み作ったらええねん」
    「どうしたんや。おまえいっつも四日から嬉しそーにキビキビ働いとったやろ」
     小林は胸元のタバコケースをまさぐる。狂児がすかさず立ち上がり、自身のジッポを用意するので、そっと手で止めた。再びソファにからだを戻した男は、無気力な顔でぶつぶつと文句を垂れ続ける。
    「……今日はもう徐行運転や。俺ももう四十オーバーやもん。初老やで初老。そないにずーっと働いてられへん」
    「プレシルバーが働くのに若モンがそんなん言うなや」
    「プレシルバーってなに?」
    「アキちゃんに言われた。五十代やからプレシルバーやて。六十んなるとシルバーに昇格するらしいで」
     ひと回り以上年下のいとしい彼女は、ヤクザ相手にも口さがない。寄る年波には勝てぬと言うが、悲しい話やわ、と小林はタバコに点火し、ソファの背もたれに凭れて、天井に紫煙を吹き出した。
    「ほな四十代かてプレプレシルバーや。休み休みしか働けへん」
    「なんや聡実センセと会えへんかったんか」
     図星を絵に描いたような強い視線が、小林に向いた。真っ黒のおおきな瞳孔。度の強いコンタクトが入ってある程度収縮しているだろうに、真ん丸で強烈な圧力がある。
    「……会えたけど、初詣のたかだか一時間二時間て会えたて言うんかな。聡実くん眠そうやったし」
    「ええやん初詣デート」
    「楽しかったですよ。楽しかったけど、せっかく大阪におるのに、東京で会うより時間短いってなんやねん」
     短くなったタバコを灰皿に押しつけ、狂児は忌々しげにぼやいている。
    「聡実センセに寂しい〜いかんとって〜って縋られたんか?」
    「……いや、ぜんぜんです」
     僅かに間を空けて、緩く首を振る愛弟子は、戸惑うような色をかんばせに滲ませた。「ほんならまた東京で、って。あっけない終わりや」
    「ほぉん」
    「むしろ俺のほうがあかんねん。いまの子ぉがドライなんか、聡実くんがたまたまドライなんかわからんけど。俺のほうがいっつも焦ってるんですわ」
     両膝に肘をつき、手で顔を覆って俯いている。はあ、と溜息とともにまろび出てくる弱音を、狂児は堪えきれずに続けた。
    「会いたくてしゃあなくなったり、時間足りひんもっとおりたいって縋りたなったり。聡実くんはひとっこともそんなん言わへん。いっつもスンとしとる。誘うんもいつも俺からで……なんや、俺ばっかり好きみたいやな」
     ぽつりと呟いた末尾の一言は、口にするつもりがなかったのだろう。狂児は眉をしかめて「いまのなし」と口早に撤回し、煙を払うように手で掃いた。小林は頷き返す。わかっているじゃないか。そうするのがいい。
    「うん。そんでおまえそれ、聡実センセの前で絶対口走ったらあかんで」
     灰皿を手繰り、小林は手元のタバコの灰を払った。
     聡実とは彼が十四歳の夏、スナックカツ子で会ったきりで、詳しく彼のひととなりを知るわけではない。けれど、カタギで十代、これから輝かしい未来を待ち受けている大学生の男の子が、反社会的勢力の幹部で四十代、下手すると親子ほども歳の差がある男と、恋人関係を結ぶ覚悟は、並大抵のものでないことは、簡単に想像がつく。いや、簡単なんて言っては失礼だ。きっと自分が思う以上、一介のやくざの想像の範疇など、軽く凌駕するほどの覚悟と、愛であるに違いない。
    「それにわからんで。言わへんだけで、こころんなかではどう思っとるかなんて」
    「え?」
    「寂しくても言わへんだけかもしれんやろ。おまえどうせ、ごっつ年上やからって格好つけて、焦っとるん隠しとるんやない?」
    「そりゃあ、見せたないでしょ。二十五も下の子に。そんな醜態」
     訊くと、別れが惜しくても口にはせずスマートな態度できりをつけ、会いたくてたまらなくなり約束を取り付けるときも、仕事の所用で上京するからと嘯いているようだった。
     かっこつけの意地っ張り。小林は鼻で笑った。
    「実年齢は離れとるやろな。でも恋愛経験で言ったら、おまえも聡実センセもどっこいどっこいちゃうか?」
     狂児にとって、四十代間近にしてとうとう迎えた初恋だった。ヒモをしていた分女性経験は多々あれど、身を焦がすような恋愛ははじめてである。ただ説きつつも、聡実が初恋かはわからないので、もしかするとあの子のほうが少しは経験豊富かもしれないが、とは余計な火種になりそうなので黙っておく。
    「おまえがそうやって平気なツラしよるから、ほんまは死ぬほど寂しくても、聡実センセも言いにくいんかもしれへんで」
     狂児は虚空を見て……おそらく聡実の様子を反芻している。やがてスマートフォンを握り、「電話してきてもええですか?」と訊いてきた。が。
    「あかん、もう出んと間に合わへんやろ」
     小林はタバコを押し潰し、とんとんと腕時計を指した。今日はふたりで朝から組長と若頭を迎えに行きそのまま会合に参席、小林は午後から債権回収とフロント企業に顔出し、狂児も自身の持つ会社とクラブの用事が詰まっている。
    「……やっぱブラック企業はあかんな。撲滅させたろ」
     吐き捨てるような呪いに小林はけらけらと笑い、立ち上がった。「業界全体での内部改革が必要やろな。マツリいち有能なおまえならできるで。精々がんばりや」
    「ウッワこころにもないこと言いなやアニキ〜もー腹立つ〜」
     狂児はまだぶつくさぼやきながら腰を上げた。ポケットの車の鍵をちゃらちゃらと鳴らし、先を行く背中を眺めながら、小林は口端を緩ませる。
     薄笑いが無表情か。二種類しか顔に浮かばないほど感情が鈍く、また他者への関心の薄かった男が、たったひとりのこころに献身して、機微を気にして、振り回されている。
     恋はひとを狂わせる。よく耳にする常套句は、まさしく目の前の男が体現している。その通りだと思う。まあ、いくら初恋に夢中でも、お仕事はこなしてもらわねば困るのだが。とはいえ狂児は口で駄々をこねるだけで、きちんと責務を遂行していく男だ。だからこそ、若頭補佐の位置を若くして獲得し、継続できている。
     優秀で鈍くてかわいいいとし子。それから、その子に連れ添ってくれている、根性の据わった聡い子。なんだか新年早々、甘やかしたくなってしまった。お年玉をあげるような気分で、「狂児」と小林は広い背に声をかけた。
    「俺運転したるから、若頭んとこ着くまで電話してええよ」

    いただきますの夜

     そう日にちが空いたわけでもなかった。以前に会ったのはちょうど一ヶ月ほど前だ。十一月のカラオケ大会が迫っていた頃。狂児のほうが仕事が煮詰まっていて、聡実と会う時間を、カラオケに行く三時間しか捻出できなかった。ばたばたと個室に滑り込んで、発声練習と曲の仕上がりを見てやって――最近は聡実が前もって曲を選んで狂児に送り、個人練習の成果を東京で確認する流れになっている――、そうだ、家に送り届けてもらったとき、降りる間際にくちびるをちょっと掠めるくらいのキスしかできなかった。
     だからだ。たぶん。
     十二月に差し掛かる、雪がちらつく夜に、狂児は上京してきた。今回はスケジュールに余裕があり、また東京での仕事も重なっていて、一週間ほど滞在するらしい。大学帰りに駅のロータリーで拾ってもらい、食事を済ませて聡実宅に辿り着いた。狂児は電車があまり好きでないそうで、移動用に東京にも車を一台置いてある。レクサスの黒塗り、最上クラスのハイブリッド。月に一回乗る程度のセカンドカーにはあまりにももったいなくて、はじめて見たとき、聡実はこの男とは一生金銭感覚合わんやろな、と軽く引いた。
     こんにちは、と助手席に乗り込んで挨拶をして、予約をしてあるらしいレストランに向かう。もうそのときから、今夜の聡実は妙だった。車のなかで話すときも、食事中も、アパート近くの月極駐車場に停めるときも、徒歩でアパートに向かう道中も、ずっと頭からもやもやと離れない。はじめは小さなものだったそれは、いまや頭のなかめいっぱいに膨張している。次第にからだへ症状が移り、そわそわと落ち着かなくなった。
     やばい。なにこれ。どないしよう。と持て余しているさなか、限界は訪れた。ドアに鍵を差し込んで、回し、ドアを開けて聡実が先に入り、ただいまあ、とのんきな声を上げる恋人が、後ろ手にドアを施錠した音を耳が拾った瞬間だった。


     ――あかん、なんやめっちゃキスしたい。


     聡実はくるりと踵を返し、狂児の肩をドアに押し付けた。ごん、と鈍い音がして、真っ黒な瞳がまろく膨らむ。構わず聡実は僅かに背伸びをして、くちびる目掛けて噛み付いた。かぷ、と覆うようにくちびるで挟んで、表面を舐めて離す。眼鏡が高い鼻にぶつかってずれた。邪魔くさいな。しかめ面で至近距離を保ったまま眼鏡を外し、コートのポケットに入れておく。ぽかんと驚くくちびるが、さとみ、と呼ぼうとしたのか薄く開いたのを見逃さず、再び目を伏せて重ねた。狂児の舌は聡実と違って分厚くて長いから、ノックしやすい。伸ばした舌の先が、口のなかにいた彼のそれに触れる。つんつんと突くと、狂児の左手が後ろ頭に回ってきたのがわかった。強く抱き寄せられて、その長い舌がぬるりと出てきた。
    「っん……ふ、」
     聡実の口内に来て、まず舌の裏側をねぶった。ぐじゅ、と水っぽい音が鼓膜に届く。それから一度、ちゅう、とくちびるを吸い上げるようにして離れて、また角度を変えて重なったときには、今度は歯列をなぞり、歯茎の肉を舐めて、唾液が多量に滲み出す。じゅるりとそれも舐め取って、くちびるをくっつけたまま、狂児は頭の向きを無理やり変えてきた。ふあ、と間抜けな声が漏れて、真向かいの瞳がおもしろそうに弧を描く。笑うな、と文句を言いたいが、その声すら貪る口のなかに飲み込まれる。
    「ふ、ン、……、きょうじ、もっと、」
    「……ん」
     顎に滴る唾液を吸い上げ舌先で拾い、互いに開いた口ががぶりと合わさった。ぐち、ぐち、艶かしく粘っこい音を立てて合わせながら、聡実は熱くなってきてコートを脱ぎ捨てる。狂児はどうだろう。襟のあたりを摘んで訊くと、ドアから少しからだを浮かせて、器用に袖を抜いていた。
     狂児のキスは、獣の食事みたいだ。体格に見合ったおおきな口が、聡実の口だけでなく、すべてを蹂躙せんとする。からだがふるりと震えた。頭から食べられてしまいそうな危惧と怯え、けれどそれらは些末なもので、こころの大部分を占める感情は期待と高揚だった。
     それに、ただ食べられるのは性に合わない。聡実も自身のできるだけ、食べ返す。舌の長さが違うから、少し難航するけれど、自分ばっかり食われるのは心外だ。僕かて狂児を食べたいねん。そう思って、ぎゅっと彼の口のなかに入り込む。苦いタバコの味の唾液。吸ってもいないのに覚えてしまった、メビウス10mgの味。まっずいな、と冷静に感じて眉が寄るのに、やめられない。自分の口のなかに、美味しそうな食事を眺めたときのように、唾液が生まれるのがわかる。ずるずるぺろぺろと舌が蠢いて、視界が潤む。涙がきっと頬に垂れている。
     ふう、ふう、と息が荒くなり、頬に熱が上る。これは酸素不足ではなくて、キスで迸る快感のせいだ。全身のちからが抜けてきた。縋るように聡実の手が狂児の髪に差し込まれて、応えて支えるために狂児の空いた腕が腰に回った。
    「なに、どしたん、急に」
     鼻先同士がつん、と触れた。狂児の舌先が、ほろほろと溢れる涙を舐め取り、源であるまなじりにもくちびるを落として拭ってくれる。感じやすいのか、若いせいなのか、キスだけで聡実の瞳は涙腺をばかみたいに狂わせて、涙を溢れさせる。狂児の双眸はもっと我慢強い。宵闇を詰め込んだような夜色のふたつは、潤んで星空みたいになっても、泣きはしない。それがいつも、少し悔しい。
    「わからへん……でもしたい……」
    「はは。ええよ、しよ」
     楽しそうな声に次ぎ、くちゅくちゅと口内の皮膚をなぶられる。あ、う、と意味のない気の抜けた声が溢れる。狂児の呼吸にも、甘ったるい声の残滓のような音が混じる。もともと低くて色気を纏う声質なのが、キスによって揺り起こされたらしい性欲が滲んで、艶っぽさに拍車がかかっている。キスの触れ合いも好きだが、狂児のこの、吐息についてくる色っぽい一音がたまらなく聡実は好きだった。否応なく高ぶって、肩を掴む手が力む。
    「ベッド、行きたい」
    「うん。靴、脱げる?」
    「脱げる。でもキスやめんとって……」
    「はあい」
     行儀悪く、スニーカー同士の踵を踏みながら脱ぐ。狂児の足元を一瞥すると、同じように靴底の段差を踏んで、ごそごそと脱ごうとしていた。艶のある傷ひとつない革靴。そうだった。ここに手入れセットを置くくらい、丁寧に扱っていたと言うのに。
     咄嗟に「靴べら使て、傷ついてまう」と指すと、「キスしとったら使えんもん」と返ってきた。「ちょっとくらいええです。僕、我慢できるよ」と譲歩しても、「聡実くんのお願いのが大事」と言われてしまった。でも、と言い募りかけたところに、「俺が嫌やねん離すの」と更に重ねられる。なにそれ。
    「我慢できへんの?」
    「できへんよ。もういま頭んなか第一優先聡実くんのお願い、その次がベッド行く、その次の次の次の次くらいやもん、靴」
    「めっちゃ下やん」
    「そう。めっちゃ下やねん。やから気にせんとってええよ。ありがとね」
     はい脱げた、とぽいぽいと革靴を蹴飛ばすように狂児は放る。けして軽くはないはずなのに、よいしょ、と聡実の膝裏を掬い上げるようにして抱き上げられた。「ほな行こか〜」とのんびりした声に反して、濃厚なキスが再びくちびるに降ってきた。歩く一歩のたび、キスの深度が揺れて、聡実は狂児の首元に腕を回してしがみつく。
    「舌噛まんようにね」
    「うん、」
     辿り着いたベッドに優しく寝かされて、上気する頬にちゅ、とかわいらしいキスが落ちた。
    「俺ね、聡実くんのわがまま、めちゃくちゃ嬉しいねん」と覆い被さる狂児は、ジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを解いて笑う。言葉の通り、心底の喜びを顕にした笑顔が近付いてきて、シャツのボタンを片手で外しながら、耳朶を食んで、囁くように続く。「やからもっと言ってええよ。俺にしたいこと、してほしいこと、ぜんぶ我慢せんといてね」
     心臓に響く低音声。聴覚から全身にぴりぴりと伝播して、ああ、と思わず吐息がこぼれた。感じ入っているのが明らかで恥ずかしい。そこで喋らんで、と言いたいけれど、耳が極度の性感帯であることは彼にとっくに知られているし、今日はもっと聞いてぞくぞくしたい気分だったから、口を噤むことにした。
     そうか、狂児は僕のわがまま好きなんや。茹だる頭がぼやいて、申し訳ない気持ちも、軽々しく持ち上げられてしまってささくれだつ男のプライドも、薄れていく。ぜんぶどうでも良くなってくると同時に、やっぱり悔しさが僅かにも滲んだ。自分ばっかり、とは思わないようにしているけれど、欲に振り回されて周りが見えなくなって、今夜みたいに箍が外れるのは、恥ずかしくて仕方がない。狂児はもっと上手に飼い慣らしているように見える。数カ月空いても、こんな風にはがっつかない。ましてたかだか一ヶ月、ちょっとのキスしかできなかったくらいで、こうはならない。聡実はむっとくちびるを尖らせた。もう少しコントロールができればいいのに。歯がゆい感情を知ってか知らずか、狂児は「かわいい」と口端をたわませ、親指でなだめるように撫でてくる。
     いつか、できるようになるのだろうか。そんな風に願いつつ、今夜は諦めて身を委ねようと思う。聡実はまた欲に従順になり、狂児の頬を包んだ。
    「僕、まだ足りひんのやけど、狂児さんは?」
    「俺ももっとしたいなあ」
    「せやったら、しよ」
     もっと、しよ。目が合って見つめ合う。いとおしそうに眇められる夜色の瞳。引き寄せられるようにして、また細く息を吸い込んだくちびるが重なった。

    とるに足らない記念日

     もぞ、と身じろぐ感覚が、スウェット越しの肌をなぞった。眼鏡を外し、狂児はスマートフォンに向けていた目を後ろに投げて、「おはよう」と声をかけた。東京の聡実宅、ほどほどにぬくいホットカーペットの上。うつ伏せに寝転がる狂児の背中を枕にして、読書を嗜んでいた聡実が、いつしか昼寝に転じてから、一時間ほど経っている。
     細い息とともに、んー、とむずがる声が返り、たぶん、おはようと続いたのだと思う。くぐもっていた上に、舌足らずでおぼつかない発音だった。よほど深く熟睡していたのか、ふだん寝起きのいい彼が、ぼやぼやと寝惚けている。残る眠気を振り払うように、軽くはない頭が、背中の上をころころと転がる気配と、寝起きの高い体温。かわいい。狂児は小さく笑う。
     途端、「……あ」と突然聡実が瞬いた。起き上がるのかと思いきや、寝返りをうって体勢を整えるだけで、背中にかかる重みは変わらない。
    「どしたん?」
    「なんでもない。そのまま喋って」
    「なにを?」
     振り向いたら上半身が持ち上がってしまい、「動くな」とクレームが飛んでくる。怪訝に感じつつ、素直にうつ伏せに戻ると、聡実はまた背中に頭を落ち着けて答えた。
    「なんでもええから」
    「まだ眠いんちゃう? 子守唄歌ったろか?」
    「歌いらん。喋ってや。ほら。FMナリタして」
     FMナリタて絶妙にダッサイな。苦笑いでくつくつと喉が鳴り、リクエストに応えるべく頭のなかをさらって話題を探す。正直意図がよく掴めないが、聡実の願いは出来得る限り、なんでも叶えてやりたい。
     いくつか話せるトピックを見繕い、咳払いを挟む。狂児は早速ご要望のラジオトークを口に載せた。休日、夕方に差し掛かる頃合い、陽の陰りを窓の向こうに眺めながら、FMナリタ、放送開始である。
    「時刻は、えー、いま何時? そうねだいたいね〜、なんちゃって。……あ、十五時五十三分やって。半端やなあ。FMナリタ、パーソナリティはボク、成田狂児でお送りします」
    「トークの入りが古いねん」
    「しゃあないやん。俺もうすぐアラフィフやで」
     頬肘をつく腕が痺れかけてきた。狂児は腕を寝かせ重ねた手の甲を枕に顔を預け、続ける。
    「えー、こないだ、ボクの食い意地張ったかわいい恋人が、『鶴ってうまいんかな』言うてたんですけども」
    「食い意地は余計や」
    「食欲旺盛は元気な証拠やで。……で、そういや食ったことないな〜て気になったんやな。というのも俺がお世話になっとるアニキのひとりが、わりと見境ない食道楽で、ようゲテモノ食材に付き合わされたんやけど、鶴はなかったなあ思て。ほんで調べたんよ」
     いつだかの深夜だった。からだを重ねてしばらくして、動いたら腹減りました、と聡実がこぼした。
     聡実はすこぶる代謝が良く、三大欲求のうち最も食欲が強い、根っからの食いしん坊である。セックスのあとは、ほぼ必ずと言っていいほど食べものを要求してくる。それもおつまみ程度ではなく、どんぶりや麺類や定食など、いわゆるスタミナメシに分類されるほどの量と種類をだ。疲れ切って眠いはずで、実際に目をしばたたかせながら、毎度空腹を訴えてくる。食欲には目をつむって寝てしまったらいいのに、と思うが、本人曰く、腹が減ったままでは寝られないのだそうだ。
     その晩もいつもどおり、聡実のなかでは眠気より食い気に軍配が上がっていた。さっさと食べさせて寝かせてやりたいが、大概セックスのあとは狂児も自炊するには気力がない。これまた普段と同様に、スマートフォンの検索画面を片手に、近くにある深夜営業の店をおしなべていたときだった。
     いまのようにうつ伏せていた狂児の背中をぼんやりと見つめた聡実が、無垢な声でふと呟いた。……鶴ってうまいんやろか。
    「紋紋見てよだれ垂らすんはどうかと思いましたけども」
    「垂らしてへんわ」
    「慣れって怖いよなあ。まあ、で、調べた結果、江戸時代の頃は五大珍味のひとつやったらしいねん。いまはいろいろ厳しくなって、禁止になっとるけど。ちなみ味はぁ、鶴の種類によってちゃうみたいやけど、俺の背中におる鶴は、硬くてうまないので、観賞用だったそうです」
    「狂児さんと一緒やな。硬くてうまない」
    「ほな柔らかいもち食感目指してエステにでも行こかな」
    「アラフィフのオッチャンの肌がやらかいの、なんか嫌です」
     ええ、と不満げな相槌を返すと、聡実はくすりと笑みをこぼした。あ、笑った。反射的に振り向こうとしかけて、狂児は堪えた。動いたらまた怒られそうだ。……ああ、でも、いま、見たかったな。声だけやなくて、どんな風に笑ったのか。聡実の笑顔はなかなかに貴重だ。
     十四の頃から数えたら、もう七年の付き合いになるけれど、聡実の笑顔は易々と拝謁できる代物ではない。沈着な印象と裏腹に、案外聡実の表情筋はよく働く。けれど喜怒哀楽の真ん中ふたつはよく表れても、前後ふたつの表情に関しては、表現がちぐはぐだった。気恥ずかしさが勝るのかなんなのか、眉を結んで怒るように喜んだり、無表情で頬だけ赤らんだり、ある意味器用なちぐはぐぶりだ。少なくとも狂児には、ほとんど笑顔は浮かべない。ちなみに十四歳の頃は一度も笑いかけてくれず、泣き顔のほうが多かったように思う。
     はじめて笑顔を見たのは再会して数カ月を経たあとだった。情けないことに、狂児は腰が抜けたようによろよろとしゃがみこんで、しばらく動けなかった。
     聡実の表情はどんなものも愛している。泣き顔も、怒った顔も、すべてが慈しむべき対象になる。それに笑わなくたって、喜んで楽しんでくれていることは、ちゃんとわかるのだ。けれど、好きな子の笑顔は格別だと知ってしまった以上、できるだけ目に焼き付けたいものだろう。
     以前に比べれば笑うようにはなったけれど、まだまだ貴重な数瞬だった。聡実の笑顔は。いま、ひとつ見逃してしまったことを、溜息を吐きたいぐらいに悔いる程度には。
    「ではここでお便りです。大阪市のキョウチャンさんから」
    「自分でキョウチャン言うな」
    「えー、ボクの恋人、聡実くん言うんですけど、聡実くんが背中で遊んだまま、顔見してくれません。喋るんはええけど、せっかくふたりでおるし、ぼちぼち顔見てお話したいな〜思うんですけど、どうですか? 背中の聡実くん」
     聡実はしばらく間を空けて、「アホ」とぼやいた。
    「話しかけたらラジオちゃうやないですか」
    「さっきから会話しとったからもうラジオちゃうやん」
    「僕のはラジオ聞きながらの独り言やもん」
    「なあ、俺の背中でなにしとったん? 教えてくれへん?」
     すぐには答えが返らない。やがて背に伸し掛かっていた重みが退いて、聡実は隣にからだを横たえ直した。頬が微かに赤らんで、しかめ面の尖ったくちびるが、密やかに告白を紡いだ。「狂児さんの背中あったかくて心地ええし、背中に耳当てて聞くと、狂児さんの声、すごく耳に気持ちええねん」
     低くて、じいんとからだの骨中に響いてな、気持ちええねん。ほんで、うまく言われへんけど、僕のからだんなかの、芯を揺るがされてるみたいになる。
    「せやからずっと聞いとりたくなって、お喋りお願いしたんや」
     昼寝のために眼鏡を外し、剥き出しの薄いまろくておおきな虹彩が、眼窩のなかをきょろきょろと泳いでいる。狂児はすっかり楽しんだらしい、赤味を増す耳朶を摘んで、くいくいと揉んだ。
    「聡実くん、ほんまに俺の声好きやね」
    「うん。好きやな。こればっかりは……認める。好き」
     悔しそうに苦々しく聡実は首肯する。以前に一度だけ、狂児に惚れたきっかけを、「声」だと教えてくれたことがあった。合唱コンクールのあと、話しかけられたときにはまず、耳が聞き惚れてしまって、そこから芋づる式に、あらゆるところが目を惹いた。そのうち好きなのが声だけでなくなったと、自覚したときにはもう、手遅れだった、と。
    「声だけ聞くんも良かったんやけど」聡実は次いで、ぼそぼそと言った。「けど、こうやって目ぇ合わせて、顔と一緒に聞くんが、いちばん」
     ええな、と告げる口角が、ゆるゆるとたわんで僅かに上がる。今度は、見逃さずに済んだ。
     聡実が笑顔を見せてくれるたび、狂児は宝物が増えていくような感覚を得て、たまらなくなった。はじめて見たときのように、腰を抜かすことはもうないけれど、それでも同等の、言い尽くせない膨大ないとおしい感慨が胸に迸る。
    「今日、ええとこにディナー行こか」温かい寝床で昼寝して、少し汗ばんだ額の前髪を、狂児はそうっと指先で撫でる。
     日々はこんなに尊いものだったろうか。聡実と過ごすようになってから、狂児はよくそう考える。聡実を知らない三十九年間よりも、出会ってからの七年のほうがずっと濃厚で鮮明で、たくさんの記憶が残っている。聡実とのあまねく日々を大事にしたいから、忘れたくないから、残っているのだと思う。笑顔を見せてくれた日は、尚更鮮烈だ。
     今日という日――なんてことのない、ただの冬の土曜だって、聡実がもたらすまばゆい宝物は、いとも容易く特別な日に塗り替えていく。
    「え? なんで?」
    「お祝いしよ」
    「なんの?」
     四十代後半が抱える恋にしては、あまりにうぶで純粋めいて夢見心地だ。素直に口にするには、なけなしのプライドが障る。
     困惑して問う聡実には、「内緒や」と狂児は答えず、慈しむようにくちびるを親指でなぞるに留めた。

    あの子ぼくが薬指見せたらどんな顔するだろう

     岡聡実には、やくざの彼氏がいる。二十五歳も歳上の、成田狂児という名のその男は、四代目祭林組にて若頭を勤める、根っからのやくざである。
     付き合いはじめておよそ十年、はたから見れば順風満帆、おしどり夫夫的にいちゃいちゃラブラブしている彼らだが、実は一度だけ別れたことがある。聡実が二十歳になった頃、原因は狂児の「やくざセンチメンタル病」にあった。
    「俺、きみのそばにおったらあかんと思うねん」
     二十歳をすぎた冬、いよいよ始まる就活に向けて準備を手掛けていた頃だ。突然聡実のアパートにやってきた狂児は、玄関先で急にそう語り出した。出迎えた聡実はぽかんと口を開けて、「は?」と気のない相槌を打たざるを得なかった。
    「なに急に」
    「やって俺やくざやんか。それも若頭なんて、もうずぶずぶにやくざやん。誰かの人生踏みにじって生きてきてる。せやから恨みもたくさん買うとるし、きみのこと危ない目に合わせてしまうかもしれへん。いやなもん見せてまうかもしれへん。それに二十五も年離れて、俺、聡実くんに好きでいてもらえる自信ないねん」
     ここまでの独白で終わる話だったら、聡実も聞き流した。ええ加減にせえよ、しつこいねん、と軽く叱るだけにしただろう。狂児には、たまにあるのだ。自分たちの立場を急に顧みて、差を憂い、センチメンタリズムを表し始めるくせが。
     突然始まるそのめそめそを、聡実は「やくざセンチメンタル病」と名付けた。発病のきっかけはまちまち、再発が多いが、けれども一応は治る病だった。聡実が適当にこころのうちにある、愛情の一部を語って宥めれば、すぐに。「俺やっぱりきみのそばにおりたいしおるわ離れられんもん」と、患者は腕の聡実を見せびらかして開き直りだす。そんなに簡単に翻せるならめそめそしなや。相手をするにも疲れるので、そろそろ本気でやめてほしいと聡実は呆れていた。
     しかし、その夜は違った。狂児はとうとう、「せやから別れよ」と言った。
    「……ほんまに言うてる?」いままでにない展開だ。狂児の視線は、真摯に逸らしもせず聡実を見据えている。本気で、別れを決意してしまったのだろうか。
     ぞっと血の気が一気に下がって、聡実はふらついた。別れる。もう、恋人は終わり。互いの愛は、結ばれない。求め合うことを許されない。彼の腕には、自分の名前まで彫られているのに?
    「やくざなんも、歳離れてるんも、今更やないですか。なんで別れなあかんねん」
     問い返す声は震えて、聡実はほろほろと頬を涙で濡らした。狂児は目を逸らし、「ごめん。でも別れよ。俺はきみの人生にはいらんねん」と頑として縁を切りたがった。「いままでありがとう」と殊勝にも礼まで言って、聡実の返事を待たずに、踵を返した。
     薄いドアの向こう、かんかんと外階段を降りていく足音が聞こえる。聡実は耳をそばだてながら、子どもみたいに泣き喚いた。僕の人生に狂児がいらんなんて、そんなこと言わんで。決めつけんで。絶対にあるはずがない。むしろいちばん必要であるものなのに。おおきくなににも替え難かった宝物を失った痛みと寂しさは、言葉にし尽くせない。傷が深すぎて、心臓に到達していたかもしれなかった。癒すことも叶わないだろう。かさぶたすらできやしない。からだが、銅像にでもなったみたいに重い。苦しい。その晩はずっと、玄関にしゃがみ込んだまま、聡実は動けなかった。



     狂児から「やっぱりよりを戻してほしい」と連絡があったのは、季節を越えて春先の頃だった。狂児と別れて三ヶ月が経ち、聡実は四年生に進級していた。就活と講義とバイトで忙しない日々を送っていたさなかだった。
     ラインに届いた一言のメッセージを読んだ瞬間、聡実は彼をまずブロックした。メッセージが届いてはじめて思い出したのだ。元彼とまだ繋がったままだったなんて、しまった。失態だ。こういうのは、すぐに断ち切っておくべきだった。
     すかさず男は電話をかけてきた。が、幸い電話帳に登録してあった彼のデータは、既に消去してあった。スマートフォンには未登録の番号が並び、誰か判別できない振りをして、恐ろしくて聡実は出なかった。が、電話はしつこかった。切れてはかかり切れてはかかりを繰り返し、そのたびに何コールも粘られた。やかましい。耐えかねて、舌打ちまじりに聡実は受けざるを得なかった。
    「どちらさまですか」
    『どっ……俺、俺やで。狂児です』
    「ああ、成田さん。ご無沙汰しています。どういったご用件でしょうか」
    『どういったって、そんななんで他人行儀なん』
    「僕たちもう恋人でもなんでもありませんから」
     電話の向こうで息を呑む音がした。なんの声も返らない。沈黙が横たわる。課題に着手するところだった聡実は、「なにもないなら切りますよ。もうかけてこないでください」と冷徹に言い放ち、終話のアイコンをタップしようとした。待って、と悲鳴のような叫びが聞こえて、指を止め、再びスマートフォンを耳に当てる。
    「なんですか」
    『用件、さっき送った』
    「すみません、あなたのアカウントはブロックしているので見られません。見るつもりもありません」
    『より戻したいって送った』
    「なぜ? 嫌です」
     聡実は即答した。「僕には一度別れたひととまた付き合う趣味はありません。別れたひとを好きでいる気もありません。あなたも僕のことなんか忘れて、違うひとに目を向けたらいかがですか。ではさようなら」と捲し立て、いよいよ終話ボタンをタップした。ついでに電源を切っておく。
     これで静かな安寧を取り戻せるだろう。勉強にも集中できる。呻くような嘆息で気持ちにきりをつけ、スマートフォンはベッドに放って、聡実は課題に向き直った。
     気付いたら夜が明けていた。カーテンから差し込む朝陽で目が覚めた。机に突っ伏して眠っていたらしい。寝落ちたわりには、ちゃんと眼鏡を外している。のろく起き上がり、聡実はからだをぐっと上に伸ばした。ばきばきと硬直した筋が鳴らす音に辟易としつつ、空腹を感じて冷蔵庫を覗く。なんもないなあ。コンビニにでも行くか。財布とスマートフォンを握って、サンダルに足を引っ掛ける。
     ドアの鍵を解き押し開いた瞬間、
    「っわ!?」聡実はびっくと肩を揺らして叫んだ。
     真前に、狂児が立っていた。セットの乱れた頭は軽く俯き、シャツもスーツもネクタイもすべて真っ黒な出で立ちだった。
    「おはよう聡実くん」
    「な、なにしてるんですか」
    「開くの、待っててん」
    「ああ。鍵お返し頂きましたもんね」
    「そういうことやないねん。鍵なくても開けられるよ」しれっと恐ろしいことを淡々と告げて、狂児は薄笑いを浮かべている。強張った、ふだんよりぐっと低くなった声が問うてくる。「聡実くん、俺のこと、もう忘れたん?」
     開いたドアを掴むおおきな手が、ぐっと力んだ。閉じさせないと示すように。黒々とした無垢な目が、まばたきもなく見下ろしている。「別れたひとを好きでいる気ない、あなたも僕のことなんか忘れてって言うた。もう他に好きなやつできたんや。……若い子って、ほんま切り替え早いね。ドライやわ」
     聡実は空いている腕を鷲掴み、狂児を玄関に引き入れた。驚いてよろつく男を流し、ドアを閉めて鍵とチェーンをかける。
    「僕のなにを知ってんねん。おまえに僕の情緒を欠片も理解できるはずがない」
     怒りに任せて襟を掴み上げる手が、力みすぎて白くなっている。がたん、と押しつけた狂児の背を支え切れずに靴箱が揺れる。台所が近いので天板に並べていた調味料のストックが、いくらか倒れた。
    「早いってなに? ドライってなんやねん。僕いまめっちゃウェットな気分やけど。絞ったらべっちゃべちゃに水分出てくるわ。あーほらな、涙出てきたやろ」
    「さとみくん」
    「僕は、狂児さんが何度も僕のそばにあんたがおったらあかんって言うたび、めためたに傷ついて考えとった。僕はあかんことない、そばにおってほしいしそばにおりたいて思うけど、狂児さんがそう言うんやったら、もうあかんのかなってすごい悩んだ。ずっと悩んどった。いまやって別れてもぜんぜん忘れられへんし、おったらあかんかったんかなって、僕の人生に狂児さんほんまに必要あらへんかったんかなってずっと悩んでる。でも手離されたから、おらんくっても平気なように生きていかなあかんって切り替えようと必死なのに、なんでそんな、簡単に捨てた僕を拾いにくるん?
     僕、狂児さんが思うほど安くない。ヒモ先の女みたいに、一回捨てられてもまた求められたら応えるみたいな真似できへん。おまえの都合よくおまえを受け入れたりせえへんよ」
    「そんな風に思ってへん」
    「思ってるからより戻そ〜なんて軽々しくアホなこと言えるんやろが。捨てるんなら相応の覚悟して、もう拾いにくんな。僕はそんなやっすい覚悟で、狂児さんの恋人になったわけやなかった」
     人生でいちばん必要だと思ったから、この先ふつうに生きるよりも、確実につらく険しい道だとわかっていても狂児を選んだ。好きでいるこころをつまびらかにして、寄り添おうと思った。一生好きで愛していた。ぜんぶ、踏みにじられた気分だった。ぐず、と鼻が鳴る。詰まってしまって息ができなくて、聡実は口を開いて酸素を取り込んだ。呼吸を後回しにしてずっと声を張り上げていたから、ぜえ、と喉が鳴る。
    「僕の人生に狂児さんがいらんのとちゃう、狂児さんの人生で、僕がそないに重要とちゃうかったんやろ」
     やから二回も三回も、僕は捨てられ拾われって、どうでもいい扱いされるんやろ。ちからなく、腕が滑って垂れ落ちる。聡実は眼鏡を押し上げて目を擦った。
    「……もう、言わへんから」
     狂児の焦燥まみれの声が届いた。肩を抱こうとした腕は迷って躊躇い、弱く拳を握ってからだの横に下ろされた。「絶対、別れるなんて言わへん」
    「信用できません」
    「してほしい」
    「できると思う?」
    「……どうしたら、してくれる?」
    「そんなん自分で考えろや。僕にはもう、無理」
     俯いたまま、告げた。狂児の顔を見上げることは叶いそうになかった。そう、と返る相槌は、いつになくか細く弱々しい。わかったよ。ごめんね。玄関の鍵を開け、ドアに手をかけて言う一言は、まるで子どものように寄る辺なく、幼い発音に聞こえた。




     四十路の、恋愛経験がヒモ時代にしかない素人童貞のような男が、頭をこねくり回して必死に考えた結果は、半年ほど空いた、夏に現れた。奇しくもその日は八月十一日、七年前スナックカツ子で互いを射止めた、運命の日だった。
     夏季休暇、帰省する気力がなく、聡実はアパートでごろごろと怠惰に過ごしていた。就活は順調で、既にいくつか内々定を貰ってもいる。ただ本命がこれからで、面接対策の質疑応答と試験問題の資料を提示していたパソコンは、再ログイン画面を表示している。
     ぜんぜん、やる気出んな……ぼうっと天井の壁紙と見つめ合っていたところに、チャイムが鳴った。今日は来客の予定はないし、なにも荷物も届かないはずだが。
     面倒でインターホンの確認もしなかった。はい、と気怠げに出た聡実の五感に飛び込んできたのは、まずは強烈な花の香りだった。鼻腔を貫く慣れない匂いに、思わず鼻を手で覆い、眉をしかめる。視界を占めるのは、匂いの正体は、視界が真っ赤に染まるほどの――あとで数えたら九十九本あった――薔薇の花束。それから。
    「聡実くん、俺と結婚してくれ」
     片膝をついてそれを差し出す、やくざの元彼氏。
     蹴飛ばしてやろうかとどんなに思ったか。けれどできなかったのは、あんまりにも向けられた視線が真剣で、夜色の瞳が、微かに潤んで見えたからだ。
    「薔薇なんか、要らんよな。こんなんじゃなんの信用の証にもならんし、邪魔やし迷惑やろな。ごめん。わかってるけど、これしかもう、思いつかんかった。発想が貧相やねんな。要らんかったら、捨ててくれてええから」
    「……狂児さん」
    「俺の人生で、きみほど重要なもんないよ。……簡単に手離した身でなに言うてんねんって思うよな。でも、ほんまに大事やねん。聡実くんが大事。聡実くんが好き。聡実くんがおらんと俺、もう生きていかれへん。充分、わかったから。せやから、これから先、俺と一緒に生きてほしいねん」
     花束を受け取り、意外な重みに縋るように抱くかたちになった。聡実は淡々と言い放つ。「信用できません。そんなん言うて、また僕のこと捨てるんちゃうん」
    「捨てへんよ。二度と別れるなんて言わへん。俺がきみに不釣り合いだなんてことも絶対言わへん。でも、俺がいくら口で言うたって、あかんよな」
     睨み付ける聡実の目を受け取って、狂児は目を細めた。開き直ったような、軽やかな口調だった。「結婚もすぐに返事もらえるなんて思ってへん。断ったってええねん。恋人にしなくてもいいから、また、できたら俺と会ってほしいねん。月に一回でも、年に一回でもええから。会いたくなかったら、電話だけでもええ。ラインのメッセージだけでもええねん。
     しつこくてごめん。でもこれも、ぜんぶ嫌やったら断ってくれてええ。二度と会わないし、聡実くんとの繋がり、ぜんぶ消す。腕の刺青も含めて」
     狂児は立ち上がり、スーツの胸ポケットを探った。よく見たら一度も見たことがないスーツとネクタイ、足元の革靴は明らかに新品だった。
    「でもこの先、もし俺と会ってくれて、聡実くんが、まあしゃあないから狂児のこと信用したるわって思ってくれたら、これ、つけてほしい」
     花束を抱える手を取って、狂児はそっと載せた。蒼いビロードの、小さな箱。聡実は凝視した。大学生の身分でも、中身は安易に想像がつく。
    「こんなん、」
    「これもな、花束と一緒。こんなんしか思いつかへんかった。押し付けてごめん。要らんかったら、売ったり捨ててくれてええから」
     ね、と手のひらを包み込むように握られる。反駁して、振り払って、花束も指輪もぜんぶ投げ捨ててやりたい衝動は確かにあった。勝手な男だ。半年前に別れたくせに、今更こんな真摯な真似をしてきて、いったいどこの誰に教わったのだろう。やどかりみたいなヒモから、ひとに流されてやくざに転身したような軽薄な男が、そう簡単に揺らがない覚悟を決められるようになるだろうか。長いようで短い半年だ。疑心暗鬼が止まらない。
     それでも聡実は、首肯する代わりに男を部屋に招き入れた。心臓に響く低音声が始終泣きそうに掠れていて、手を挟むように握る彼の両手が震えて、汗で冷たくなっていて、聡実の人生において、彼はいちばん重要で必須であったから。


     ◇◆◇


     クローゼットを開き、聡実は服たちに目配せをして、一着のスーツを選び取った。今日はこれから、狂児の五十三歳の誕生日を祝したディナーである。本人は祝うような歳ではないと遠慮していたが、聡実はどうしてもと押し切った。店の選定もテーブルのリザーブも、すべて聡実が行った。大阪の企業に就職して六年、もう二十八になった。そこそこ地位もあがり、やくざの若頭には負けるものの、そこそこ稼いでいる身だ。彼氏の誕生日に、ランクの低い店には連れて行きたくない。
     はじめて付き合い始めてから十年が経った。間が空いて、二度目の恋人になってからは三年半。狂児は一度も、やくざセンチメンタルな発言も仕草もとっていない。聡実のこころも自分の気持ちも揺らがせず、せっせと聡実に愛を貢ぎ続けている。
     もういいかな。そう思ったのは随分前だったが、狂児の告白からそう年月も経っていなかったので、癪でもう少し焦らしてやりたかった。少し、と表すには、やや長くなりすぎてしまったけれど。
    「うん、ええね」
     スーツを着込み、姿見の前に立った。濃紺のブリティッシュスーツはフルオーダーメイド、ストライプのネクタイと併せて、去年のボーナスを使って購入した。狂児が懇意にしているテーラーで繕ってもらい、特別な食事会やプレゼン、打ち合わせなどにたまに着ていっている。ある意味で勝負服として使ってきた。
     今夜も、聡実にとっては充分このスーツの助力を必要としたい、重要な夜だった。
     リビングのテーブルに出しておいた、真っ青なビロードの箱。蓋を開けたなかには、狂児の気持ちがひとつ、収まっている。シルバーの、外径にダイヤモンドの粒たちを密接して並べて埋めた、まばゆい約束の証。
    「しゃあないから、つけたるわな。狂児さん」
     聡実は摘んで抜き出し、自分の左手薬指に嵌めた。どれだけ食べても飲んでも、体型がほとんど変わらない体質でよかった。貰ってから七年近く経つが、サイズ直しはしなくても良さそうだ。
     さて、仕事終わりの狂児と、ホテルで会うまであと一時間足らず。きっと会ってすぐに、男は気付くだろう。でも自分が言いたいタイミングまでは、いくらバレバレであろうとも真意のほどは言ってやらない。
     おもろいやろなあ。楽しみやわ。彼の様子を想像しながら、聡実は左手をかざし、指輪のきらめきに満足げな笑みを浮かべた。

    恋はア・ラ・モード

    「うわっ」
     悲鳴を上げて、聡実がスマートフォンのカバーを、ばちんと思い切り閉じた。そのまま、机に裏を向けて叩きつける。ばん、と激しい音に、狂児は「どしたん」と様子を覗き込んだ。真夏の夕暮れ、年下の愛し子に合わせて、クーラーを強めに効かせている部屋は、自分には少々肌寒い。後ろから聡実を抱きしめて暖を取っていた狂児は、ぬくい体温に眠気を誘われうとうとしていた。まどろみは覚めて、目を瞬かせてあくびを浮かべる。
    「……見た?」
    「見えんかったよ。なに?」
    「うーん」
     言うか言うまいか。考えあぐねるように、聡実の指先がスマートフォンのカバーを引っかけては閉じ、引っ掛けては閉じ、を繰り返す。「ちょっと、高校の友達に写真を頼んでたんです」
    「へえ。なんの?」
    「高二の文化祭んときの。僕のは要らんから、他のみんなの送ってやって頼んだんやけど、みんなして僕の送ってきてん。意地悪や」
     むくれて尖るくちびるをいなすように、狂児は頬を摘んで揉んでやる。
    「なんで聡実くんのは要らんかったん?」
    「見たないから」
    「えー? 俺は? 見たらあかん?」
     聡実の眉が強く寄り、「嫌って言うても、見せるまで引かへんやろ」と悪態を吐かれた。大正解。よくご存知で。彼と付き合い始めてから、自分の新しい面を見つける機会が多分に増えたが、時折顔を出す子どもじみた我儘さも、そのひとつだった。
    「笑わんといてくださいよ」
    「はぁい」
    「絶対やで。笑ったらここ出禁にします」
    「誓います」
     出禁は困るので真剣に頷くと、深い深い溜息に次いで、スマートフォンをかざしてきた。「これ」
     目の前にちらつく画面には、思いがけないものが写っていた。
     猫耳をつけたメイド服の聡実である。
    「……えっなにこれ」
     眼鏡のない素の瞳を晒し、虹彩の薄い瞳は、上目遣いでこちらを睨んでいる。拡大してみると、まつ毛はマスカラで飾られ、くちびるのぷるりとした艶はラメ入りのリップによるものだろうか。チークのせいだけでなく、気恥ずかしさによる頬の赤みも強い。
    「どういうこと?」
    「猫耳メイドにゃとみにゃんです」
    「はぇ?」
    「猫耳メイドにゃとみにゃんです。なんべん言わすねん」
     裏返った相槌に、やや早口で辛辣じみた照れ隠しが返ってくる。
     なにその噛みそうなダッサイ名前。原型どこいってん。なんべんってまだ二回しか言うてへんがな。強い衝撃に言いたいことが脳内で錯綜して、「にゃとみにゃん」と骨抜きの呆けた声で復唱するしかできない。
     受け取ったスマートフォンを、気なしにスライドしてみたら、今度は全景でのショットが出てきた。上から下まで、随分と凝ったコスプレだった。黒猫を模した耳と尻尾の装飾品は、写真越しにも毛並みが整っていることがわかる。メインであるメイド服は、黒地に白のエプロンを纏った、いまどき珍しいクラシカルなデザインだった。膝あたりまで丈が伸び、裾にレースをあしらったスカートに、白タイツを履いて、足元は黒いパンプスでまとめられている。エナメル地が鈍く光り、低いヒールと甲をまたぐストラップが、勤勉さ、あるいは瑞々しい幼さを醸しているようにも感じる。
    「結構本格的やな……」
    「な。高校の文化祭にしてはやりよるでしょ。クラスの女の子が、そういうの詳しかってん」
     僕こういう運、めちゃめちゃ悪いんです、と拗ねるくちびるは、まだへの字にひねくれている。聡実の妙な運の悪さは、こういうところにも作用するらしい。
     文化祭で模擬店をやるのはまだ良かった。ではどういう店をやりたいか。その案のひとつにあった、猫耳メイドカフェにクラスメイトの一部が食いつき、熱量が波及して、おもしろそうだからとクラス全体の賛成多数で即決定したという。ただ問題は、そのメイドを誰がやるかにあった。クラスで話し合いの末、男女問わず四人ずつがコスプレをすることに決まった。立候補した人数を差し引いて、残りの枠はくじ引きで選ぶことになり、聡実は見事、映えあるメイド役を引き当てた。
    「最悪やと思いました」
    「えー? 似合てるよ」
    「嬉しくありませんけど」
     当時、既にいまの身長とほぼ変わらないくらいに、聡実は成長しきっていた。すいすいとスライドしていくと、ぶすくれた顔でピースをしていたり、同じメイド側の女の子とトレイを持って話している姿がある。なるほど、確かに女子と並ぶと、背の高さが際立った。頭ひとつ半くらい違う。そして笑顔がなく無愛想だ。
     やたらと聡実の写真が多いのは、仲の良かったグループのなかで、彼が唯一男子メイドに当選してしまったからのようだ。別のクラスの友人たちも含めて、こぞって茶化して、シャッターを切りにきたらしい。ちなみににゃとみにゃんは彼らがつけたあだ名だった。
    「他の子のをくれって強調したのに、なんで僕の送ってくんねん。要らんわもう」
    「そらもうフリやで。僕のを送ってください~言う」
    「ちゃうのに……ほんま関西人うっとい」
    「自分かて同じ人種やろ」
     ていうか、令和時分にもメイド喫茶って流行ってるんやなあ。狂児は写真を眺めながら、遠い昔の記憶にこころを馳せる。二十歳で組に入った頃に、秋葉原を発祥として、メイドやコスプレ喫茶の文化が世を席巻し始めた。テレビでも多く取り沙汰されて、ある組員は差し押さえた店舗物件をメイド喫茶としてリニューアルオープンさせ、まあまあいいシノギにしていた。
     狂児も実は一度だけ、メイドコスプレをしたことがあった。メイド喫茶の流行に憧れた組長――当時は若頭だった――が若衆に対し、「店に行かれへんからおまえらやれや」と言い出したためだった。酒の席の妄言だった。一応叶えてみようと足掻いたが、残念ながらいくら若くてもがたいのいい男である、大層見苦しい結果になり、後日本物のメイド喫茶に案内したのは言うまでもない。この話は聡実に伝える気もしなかった。絶対に当時の写真を持ってこいと言い出す。からかい目的でなく、「狂児絶対かわいいから見たい」として。付き合い始めて三年が見え始め、いいか悪いか、聡実もどんどん新しい価値観を見出しているようだ。いや、きみと違って、俺の二十歳はもっとゴリッとしてボーボーやったからね……と頼まれてもいないのに、言い訳を連ねてしまう。
     そう、男の青年期なんてそんなものだ。ゴリッとしてボーボーで、可憐さはなにひとつない。聡実だって、華奢ではあるものの、肩幅は広く、腕も脚も細いなかに筋があって、角張っていて、まろみはない。どこからどう見ても男のからだをしている。
     似合えへんって言えたら良かったのになあ。。
    「そもそもなんで写真欲しいなんてお友達に訊いたん。なにかに使うん?」
     狂児の問いに、聡実はしばらく口籠った。まあ、言いたくないなら、無理に答える必要はない。別の話題に切り替えようとくちを開いたところに、いかにも不機嫌な答えが勢いよくのめり込んできた。
    「にゃとみにゃん復活なんです」
     秋口に開催する学祭で、同じ専攻のメンバーで模擬店を開くことになったそうだ。どんな店舗にするかアイディアを出していくなかで、聡実は高校時のことをうっかり口に出してしまった。珍しがられる程度で済むかと思いきや、妙にウケてしまい、猫耳メイドカフェを開くことに決まってしまったのだ。しかも高校のときと違い、今回メイドになるのは全員男である。ただメイドカフェをやるのではおもしろみがない。奇を衒いたいと聡実以外の全員が快諾して、猫耳男子メイドカフェが誕生する経緯となった。女子たちは衣装と装飾品のピックアップと、メイクを立案してくれるらしい。その参考資料に、聡実が高校時代にやった際の写真を欲しがったということだった。
     男子たちも、普段着ることのない衣装に楽しみを見出していて、聡実以外の全員が相当やる気を燃やしている。
    「言うんじゃなかった。もう恥ずかしい」
    「嫌なら嫌言うたらええやん」
    「嫌やけどやると決めた以上は全力でやり抜きます」
     男らしいことで。意思と決断の強さは、こういうところでも発揮されるのか。仄かに笑っていると、腕のなかで悔しげに呻く聡実が、それから訝しみの目を、肩越しに狂児に向けてくる。
    「ほんでそれ、いつまで見てるんですか」
    「え?」
    「写真。返してもろてええですか?」
     ああ。そういえば。空の相槌を打って、狂児は手元のスマートフォンを一瞥する。ディスプレイに映る、ぶすくれた十六歳のにゃとみにゃん。瞑目して、深呼吸を挟む。……自分のなかに新たに生まれはじめている一面と、向き合う勇気はあまりない。理性はくちを閉したがっているが、頼まなかったら頼まなかったで、すさまじい後悔に陥りそうだ。
     意を決して、狂児は「この写真、送ってもろてもええ?」と尋ねた。決意のせいで、やたら声が真剣さを帯びてしまった。ものすごく欲しがって聞こえただろう、たちまち聡実の顔に、ドン引きの表情が浮かび上がる。
    「え…………狂児さんこういうの好きなん。メイドコスプレみたいな」
    「いやんちゃうねん」
     早口の拒否に、ますます聡実の眉間の皺がひどくなる。寒気がする視線だ。まったくの誤解で冤罪なのでやめてほしい。こっそりと狂児の腕を剥いで、距離を置こうとするのも。
    「まさか常連とちゃうやろな。萌え萌えキュンキュン♡てされて喜んでんの? その顔で? うわあ」
    「行ってへんわ! 通うかいんなとこ! 俺かていままで一ミリも興味なかったわ! てか顔関係ないやろ! 全国の濃い顔のひとに謝りなさい」
    「ほんまに知りたくありませんでした」
    「だからちゃうって」
     狂児はおおきく溜息を吐いた。ほんとうに塵ほども興味はなかった。それこそ、カフェを経営していた組員に連れられて、何度かメイド喫茶には訪れたことがあるし、仕事柄イメクラに足を運ぶこともたびたびあった。メイドでなくてもセーラー服だとか婦人警官だとか、いままでずっと、誰のどのコスプレも、琴線に触れた経験がない。かわいいともなんとも思わない。同行した先輩には「枯れとるなあ」と揶揄られたが、媚びられても、微塵も興奮を得られなかった。
     コスプレのなにがそそるのか、まったく理解できない世界観だ。そんなもののために金をかけようとは露にも考えなかった。自身をかわいいと過信して、幼児のような甲高い、わざとらしい抑揚をつけた声で喋り、他者に媚びいる生き物たち。彼女たちに大金を貢ぐ男たちに、正直軽蔑が、僅かにもなかったとは言わない。
    「ほんまに興味なかったよ。でもなんというか、聡実くんのコスプレ写真見とったら、こう、メイドカフェに通い詰めてたやつの気持ちが、わからんでもなかったていうか」
     弁明は、尻すぼみになっていく。どうにも恥ずかしくて、もじもじと手先が落ち着かない。顔を覆いたいが、聡実を離したくもないので、彼の後頭部に頬を預けて前のめりに凭れた。暑い、重い、と上がる文句は無視しておく。
     五十近くになって、この目覚めはさすがに自分でもどうかと思うし、はっきり言って軽く引いている。二十代の頃の自分がいまの自分を見たら、間違いなく天を仰ぎたくなる。洒落にならない、認めたくない。認めたくないが。
     にゃとみにゃんは、かわいい。
     ディスプレイからかわいさが迸っている。
     にゃとみにゃんにサービスを受けるのは、とても、非常に、悪くない。分厚い札束を差し出してしまいそうだ。あわよくばめちゃくちゃにくしゃくしゃしてかわいがりたい、と思ってしまった。
     あーあ、学祭に遊びに行けたらなあ。とりあえず生にゃとみにゃんをこの目にしかと収めるだけはしたかったなあ。いくらでも一般人の変装はできるが、やくざの匂いが100%消せるはずもない。勘のいい人間はどこにでもいる。学祭なんて鮮やかな場に立ち入ることを、許される身分でないことも、重々承知している。
    「写真だけでもくれへんかなあ」狂児が溜息混じりにぼやいて、髪に頬擦りをして甘えていると、急に聡実がぐりんとこちらに振り向いた。危うく鼻をぶつけそうになり、咄嗟に仰け反ったせいで、慌てて後ろについた手首が妙な音を立てた気がする。
    「びっくりした~……どしたん」
    「暑い。アイス食べたい」
     腕から抜け出した聡実は、難しく顔をしかめて立ち上がった。
     機嫌を損ねてしまっただろうか。いくら恋人といえど、五十近い男が猫耳メイドコスプレに執着する姿を見せたら、さすがに気持ち悪いか。
     そらキモイやろ。容赦のない自虐に痛めつけられ泣きたくなってくる。ちからのない苦笑いで自分を諫めて、明るい口調で声をかけようとした狂児に、「この日」と聡実が遮ってしゃがみこみ、スマートフォンのカレンダーを見せてきた。十月下旬の週末だった。
    「まだ空いてますか。僕んち来れる?」
     二ヶ月以上先の話で、念のためアプリを開いてスケジュールを確認してみるが、当然まだ空欄だった。「空けるよ。なんで?」
     ――以降、彼が答えた一言は、その約束の日まで、狂児の頭のなかの大半を占領し続けた台詞である。あまりにも色濃く残ってしまったので、時折知らぬ間にくちがなぞっていたらしい。小林には「色男探してこいや」と背中を蹴られ、聡実と同じ年頃の舎弟には「成田さんがキモオヤジになってしもた」と泣かれた。後者には強く反駁したかったが、聡実に評されたわけでもない。もうキモオヤジでもええわ、未来に待ってるもんの価値のほうが尊いもん、と開き直る心地になり始めていた。
     膝をついて狂児に目線を合わせ、途端聡実は顔をより険しくした。頬の赤みがじわじわと増して、そうして照れ臭そうに目を逸らし、低く、ぽつりと呟く。


    「――にゃとみにゃんが、ご奉仕するにゃん」

    one night.

     聡実はいくつになってもすこやかだ。代謝がいいのか、少し動いただけですぐ腹を空かすし、日付を跨がないうちにうとうとと眠そうにしている。よく食べて、よく眠る。二十歳を過ぎ、三十路が近くなったいまも、あまり変わらない。
     セックスのあと、大概彼はまず「お腹が空いた」と訴えてくる。ひとをひとり受け入れて、からだは疲れ切っているだろう、さっさと寝てしまえばいいのに、「お腹が空いていると眠れない」と言った。かわいい体質だと思う。彼と同い年の頃の自分を思い返す。狂児は昔からそんなに食欲旺盛ではなかった。朝昼晩時間を問わず、丼ものなんて食べられなかった。食べようとも思わなかった。セックスのあとは、適当に女と喋って眠っていたし、当然、いままで抱いてきたどの女も、ペニスを抜かれて喘ぎながら、「めっちゃ牛丼食いたい」なんて言わなかった。
     “そういう”夜、用意するものは決まっている。コンドーム、乾いたタオル数枚、タオルを濡らすため水を張ったたらい、ミネラルウォーター、ローション、聡実と付き合い始めてからは、摘める菓子や、常温で置いておけるフルーツが増えた。本人はスタミナ飯が食べたいとしきりに言うが、狂児はまず間違いなく胃がひっくり返るので付き合えないし、深夜にそんな食事を採り続けて、流石の健康優良児もいつかは消化器官を壊しかねない。譲歩した今夜のおともはビスケットで、一箱空にしてから、歳下の恋人は安堵の息をこぼして、再びベッドに転がった。
    「おなかいっぱい?」
    「うん……ねむい」
     うとうととまぶたをしばたいて、聡実はぽつぽつと話しだす。「今日な、おひるにデスクでおにぎり食べたんです」
    「珍しいな。外で食べへんかったんや」
    「仕事忙しくて、今日は昼休憩きっちり取られへんのわかってたから、行きにコンビニで買ったんです」
    「休憩はちゃんとおやすみせなあかんよ」
     心配やわ、と狂児は眉を下げ、聡実の額に張り付く前髪を指先で退けた。汗かきで、行為のあとはいつも汗まみれになっている。眠る前にシャワーを浴びたいとは言うが、おおむねこのまま寝てしまうので、そのあとで狂児が全身を拭く役目を、勝手に担っている。起きている間に拭かないのは、この寝ぼけた会話を楽しむことに集中したいからだ。
    「ほんで、なに食べたん」
    「おかかと、シャケと、うめ」
    「三つも食うたん」
    「あとおかずに豚の塩焼き丼……」
    「おかずなんそれ」
    「コメの上の肉がおかず」
     聞いているだけで胃がもたれそうだ。で、と促す。まばたきが緩慢になってきて、聡実の滑舌も少し蕩け始めている。「おにぎりがな、いなくなってん」
    「ん?」
    「資料作りながら食べてたんですけど、うめ食べて、おかか食べて、気付いたらシャケがいなくなっててんか」
    「ほお」
     聡実の寝入り端の話は、日常の不思議な出来事が多い。不思議な、と言っても彼の主観によるもので、大抵は他愛のないごくごくふつうのものだ。たとえば六法全書が足を生やして引越したとか(実際は誰かがしまう場所を間違えただけだろう)、上司の毛量が安定しなくて家でむしられているのではとか(おそらくカツラの選択ミスだ)。今夜は「おにぎり失踪事件」らしい。シャケは聡実の大好物で、だから最後に食べようと取っておいたのだろう。
    「びっくりして、僕悲しくて」
    「うん」
    「探してん。リュックのなかとか、椅子の下とか、そしたらな」
    「うん」
    「食べてしもてたみたいで」
     ゴミ入れてたビニール袋から、包装だけ出てきた、と力なく種明かしをする声に、んふ、と笑いが溢れてしまったのは仕方がない。くちびるを尖らせて睨んでくる目は眠気に満ちていて、いつもの鋭さはない。が、狂児はごめん、と軽く謝って、額にキスを落とした。聡実のおおきなふたつの宝石が、気持ちよさそうに細められる。
    「そら残念やったな」
    「うん……可哀想なことしたなって。気付かん間に、流れ作業みたいに食べてしもて」
    「うん」
    「でも、見つかってほっとしてん」
    「うん」
    「僕のおなかのなかにおったんやなあって……もうなくさへんよって」
     胃のあたりを、よろよろと白い手が撫でる。そうやね、と相槌を打つ。聡実の瞼は、もう互いの引力に抗えきれず、くっつきかけている。声の速度は落ち、話も支離滅裂になってきた。聡実はまだ口を開く。「僕、思ったんよ」
    「なにを?」
     眠るのが好きなら、喋らずにさっさと寝てしまっていいのに。ふだんの口数に反して、眠気に抗ってまで、夜の聡実は必死に言葉を紡ぐときがある。なぜ。一度訊いたとき、聡実は目を泳がせてぽつぽつと答えた。眠気に包まれている間は、口が軽くなって、いらないことばかり話してしまう。隠しておきたい胸の裡にある心情や、日々考えていることの、口に出せないでいる一部。ーー起きてる僕は素直やないから、眠い僕に本音を伝えるの、託したなるねん。
    「きょうじのことも、たべてしまえたら、ええのにね」聡実の頭が、こくりと枕に埋まる。「そしたらいなくならへんし、おなかのなかでいっしょやもん。あ、でもそしたら、さわれんし、さわってもらえへんか、……」
     すう、と深い寝息をたてているのを確認して、狂児はタオルを濡らした。たらいの上で絞りきり、ブランケットを捲って、まずからだから拭き始める。
     中三の夏から高校卒業までの三年半、東京で過ごした四年のうちにも合計で一年間ほど、狂児は聡実と連絡が取れず、会いに行けなかった期間がある。前者は服役していて、後者は半分は仕事絡み、もう半分は自身の意思でだった。
     自分の存在が、聡実のそばにあることで、彼の光ある人生にどれほどの影響があるのか。空港に会いにいくと決断したときだって、考えなかったわけではなかった。あらゆる懸念を振り切ってでも、なにをしてでも会いたくて、出来得るなら聡実の大事ななにかでいたがった。でも願いが叶ったら、今度は怖くなった。反社会的組織の幹部と付き合いを持つことで、一介の大学生の人生が被る犠牲。現実味が増して見えてきて、足が竦んで、何度か会いに行けなくなった。
     結局、時間を置いたって、欲も恋も愛も捨てられない。観念して、狂児は東京のアパートのドアを叩いた。聡実は都度呆れた顔で、「諦められへんねやったら諦めんでええ」と説いて迎えてくれた。「僕は狂児さんを諦める気ないし、案外うまくことは運ぶかもしれへんやん」
     実際、まだ別れずに付き合いは続いていて、聡実は一度の転職を経て、小さな弁護士事務所でいまは生計をたてている。小さな、と言っても、法曹界ではかなり著名な事務所なのだそうだ。いわゆる少数精鋭集団で、手強く実力のあるメンツが揃っている。
     聡実は宣言通り、狂児を諦めず自分の人生だって諦めず、道を探っている。十代で覚悟を決めて、危ない道を選んで、きっときれいな最期は遂げられない人生を、自分の隣で歩もうとしてくれている。強い子、いや、強い男だ。狂児の弱音にも何度も対峙してくれて、立ち止まる足を手を取り引っ張ってくれた。
     傷ついただろうな、と思う。狂児は下半身を拭き終わり、掛け布団で隠した。タオルを変えて、上半身に手を移す。十代の若い彼が覚悟を決めている横で、足踏みを続ける自分の行動は、けして褒められたものではなかった。中途半端なことをするな、と叱られはしたが、別れないで、と縋られることはなかった。聡実は、狂児がこの関係に終止符を打てるはずがないと、確信していたのかもしれない。もしくは打たせる気がなかったか。それでも、怖かっただろう。急に連絡が途切れ、会いに来なくなる恋人。もしかしたら、このまま一生会えずに、縁が途切れてしまったら。
    「たべてしまえたらええのに」――ぼやかれた一言が、耳元でリフレインする。まどろみのなかでの言葉、青年がふだん口に出せないでいる一部。
     狂児はまたタオルを変えて、今度は頬にそうっと生地を走らせた。少し乾いて、皮膚のやわらかみだけが残る頬。十代のマシュマロみたいなやわらかさはなく、二十代との弾けるような艶は徐々に失われつつある。主張がある喉仏、精悍に削げた頬は、彼が立派な成人男性である象徴のひとつだ。
     鼻筋、まぶた、額、耳の裏まで拭って、たらいに戻した。乾いたタオルで手の水気を拭き取り、それから狂児はサイドチェストの二段目の引き出しを開く。六年前、聡実が大学を卒業する際に用意して、渡せないままでいたもの。彼のもとからいなくならない証明を、彼のもとに必ず帰るための約束をしておこうと思って、躊躇って隠していたもの。
     いい加減覚悟を固めるべきだった。いまがその瞬間だと、天啓のように閃いた。ふらふらと揺らぎの多い背中を押す強いなにかは、彼のさみしげな一言だったのか、それを生み出した胃に溶けたシャケのおにぎりだったのか、わからないけれど。
     指のサイズ、変わってしまっていたらどうしよう。こわごわと嵌め込んだが、少しきつかったものの、ちゃんと奥まで届いた。ほっと息を吐き、震える手で左手を握り、狂児はからだを横たえる。翌朝の聡実の反応を、想像する余裕もない。はじめてのカチコミよりも心臓がやかましい。深く呼吸を整えて、狂児は目を閉じた。眠れそうになかったが、しばらくしたら、かつてない多大な心労が連れてきた眠気に苛まれ、細切れに意識が落ちていく。
     夢かうつつか、きっと前者だろうが、聡実の左手が、やわく握り返してきたような気がした。