狂聡ログ① / 狂聡

20210103

  • 食べごろ……やや下ネタです
  • きみの愛について……初詣に行く狂聡です
  • ふたり分の不整脈……空港直後の狂聡です
  • 小林氏の回想……若狂児の情緒にまつわる小林アニキ目線の話です
  • 僕だけを見てろ……妬く聡実くん。ネクタイを引っ張っています
  • 十八歳、冬、想うこと……大雪のなか東京行新幹線に乗る狂児と待つ聡実くんの話
  • 四十三歳、冬、願うこと……聡実くんを焦らすのが好きな狂児の話。↑の続きです
  • 恋人写真……狂児の手と自分の手をツーショする聡実くんの話
  • 恋人写真2……↑の続きです。数年後写真を見返す狂聡の話
  • ハートちゃんの逆襲……年明けの電話からいろいろバレてしまう酔っぱらい狂児の話
  • 食べごろ

    『来月東京いくヨン メシ行こ。』
    『なに食べたい』
     午前最後のコマは、ある生徒の一言により場が盛り上がってしまい、規定時刻を過ぎてもしばらく延長した。興味があって受講しているので、普段なら興味深く耳を傾けただろうが、いかんせん昼を跨いでいる。はよ終わらんかな、と空腹を宥めすかし、結局やっと昼食にありつけたのは、十四時近くなってからだった。次のコマまでそう猶予がない。
     空きっ腹にカツ丼をかきこんでいると、テーブルに放ったスマートフォンが震えて、着信を報せた。聡実は咀嚼しながらどんぶりを下ろし、カバーを開いて通知を確認する。口のなかのものを嚥下して、「おにぎり」と思わず呟いた。
     再会後、カラオケは大会直前の追い込み期間に限定され、男は基本的に食事に誘ってきた。送ってくる誘い文句は毎度同じで、必ず文末におにぎりの絵文字が添えられている。なぜおにぎりなのか。気になって一度訊いたら、空港での再会の一幕を挙げてきた。――あんときのでっかいおにぎり頬張って、ほっぺに米粒つけとった聡実くんが、印象に残ってんねん。もう成人もしたのに、子どもっぽいイメージを結び付けられるのは、どうも釈然としない。
     大阪に住んでいるはずのこの男とは、平均して一月に二度ほどのペースで顔を合わせているように思う。興味本位でネットで調べて得た知識だが、若頭補佐とは、随分上の役職のはずだ。祭林組はよっぽど暇なのだろうか。狂児曰くは「ちゃんと仕事しにきてんねんで」とのことだ。なんでも”新規取引先の開拓とその契約交渉、並びに他都市の精密な市場調査”を任されている、らしい。一般社会の用語に置き換えてマイルドに説明されたけれど、要するに東京の組と協定やら連合やらを結ぶ、または祭林組東京進出の足がかり、ということだろうか。深くは聞かなかったが、組の進退を担う重い役割を担っているのだろうことは、学生の身でもなんとなく察しがつく。
    『ちなみにいまは、うなぎがええ季節』
    『カニもあるで』
     ぽこぽことメッセージが連なっていく。海産物ばっかやないか。聡実はカツ丼の最後の一口つまみ、箸を噛んだまま、じっと画面を見下ろす。
     狂児は東京に来る夜、必ず聡実と食事をともに摂った。そうして翌朝帰っていく。”取引先”との会食は、なるべく昼間にしてもらっていると言った。こっちに恋人がおりますんで、と先手を打っているらしい。別に、毎晩時間を割いてもらわなくてもいいのだが、狂児が言うには「俺酒飲めんし、夜一緒にしても相手できんねん」し、「遠距離の彼氏と折角会えるタイミングをむざむざ逃したないやん」で、「一日の最後は聡実くんと過ごしたいんや」とのことだ。「それとも、俺とメシ行くんはいや? 嬉しない?」と続けて自信満々の薄ら笑いで訊かれて、聡実は声にはせず、顰め面で応えた。素直に応えるのは勘に障る、けれど「嬉しないです」嘯いたところで、都合のいいようにしか取らないのだ、この男は。つまらない。
     嬉しいに決まっているだろう。聡実だって、狂児の恋人である。現にいま、カツ丼を食べている最中なのに、頭のなかはもう狂児との次の食事を考え込んでいる。なにがええかな。思い浮かぶものは、腹にたまるものばかりだ。焼肉、寿司、中華、スタミナがつくもの。精がつくもの。
    「……あかんな」
     独りごちて、聡実は箸をトレイに置いた。狂児は毎度、聡実にリクエストを募る。聡実が悩むと食べごろの旬の食材を提案したりはするが、とにかく行き先を決めるのは聡実のほうだった。自分が食べたいものはなにかないのか、と訊き返しても、「聡実くんが選んでええよ」とはぐらかして答えてくれない。食事代も送迎のタクシーも、いつも狂児持ちだ。一円も出させてもらえない。はじめは毎回奢ってもらうことに遠慮していたけれど、素直に奢られているほうが狂児が嬉しそうなので、いまはなにも言わずに勘定を任せている。「餌付けされてますか僕」と冗談混じりに伺うと、「ちゃうよ、これは年上彼氏の特権やん」と答えたのち、「餌付けくらいで聡実くんが俺から離れんとってくれるんやったら、そんな楽なことないな」とぼやいていた。
     よくわかっとるやんか。自分たちはなにもかもが違うのだから、関係を継続するのは相応の努力が必要だ。年の差にかまけて、おとなのつらを貼り付けたまま接して、踏み出しあぐねる一歩を進むのも、その努力のうちのひとつであると、聡実は考えている。
     聡実はスマートフォンのロックを外し、親指を滑らせて返事を打つ。
    『狂児さんの食べたいものはなんですか。』
     ちょうど触っていたのか、既読マークはすぐにつき、数秒待てば返事が届いた。『俺はええんや。聡実くんの食べたいもん食いに行こ』またおにぎりの絵文字がついている。
     ふっと口端が上がった。自分たちは恋人で、出会った当時と違い、おとなと子どもではない。そもそも聡実は大学生といえど、もう立派な成人男性である。それも若いから、持て余している分、三大欲求には詳しい。だから――狂児が”食べたい”ものも、ちゃんとわかっているのだ。
    『焼き肉食べたい。そのあとに、狂児さんの食べたいもん食べましょう。』
     いつまでも米粒ほっぺにつけとるような子どもとちゃうで。僕かて”食べたい”んや。聡実はさっさと文をしたためて打ち返し、空っぽのどんぶりに手を合わせて、荷物をまとめてトレイを持ち上げた。
    『僕はいつでも食べ頃やねんけど。』

    きみの愛について

     元旦に初詣に付き合ってほしい、と聡実から連絡があったのは、彼が帰省を控えた十二月も中頃になってからだった。なんでも行きたい寺があり、府内でも山のほうなので、できれば乗せていってほしい、と送られてきた。
     聡実が自分から誘ってくるなんて、珍しい。初詣は、てっきり大阪に残った同級生たちと行ってしまうのだと思い込んでいた。バイトと懐の兼ね合いで、聡実は年末にしか帰阪しない。月に一度ほどのペースで顔を合わせている自分より、滅多に会えない友人たちを優先されても、不服ではあるが仕方がないと、自分に言い聞かせていた。
     しかも、頼みごとまで連なっている。車を出してほしいなんて、いままで言われたことがあったろうか。いや、はじめてだ。間違いなく。そもそも、狂児が先回りしてしまうからかもしれないが、出会った十四の頃から数えても、なにか頼まれたことなんて、片手で足りるほどの回数しかないのではないだろうか。
     交通が不便だから、友人とは諦めて、自由に動かせる車を持っている男を使う、それだけだとしても嬉しい。と一瞬だけ捉えて、否定するように首を振る。あんまりにも珍しいので、つい勘繰ってしまいたくなるが、聡実に限ってそんな性悪な術はとらないだろう。狂児はメッセージに即応して、早速待ち合わせ場所と時間を詰めた。


    「そういえば、新年会とか、年始の挨拶回りとかはないんですか」
     目的地は確かに山道の奥にあり、バス停はあったが行きにくい場所に位置していた。景観とお守りが有名らしく、駐車場はほぼ満車で、朝一に着いたにも拘らず、参拝入り口には長蛇の列ができ、到着するバスはどれも溢れんばかりにひとが乗っている。これは、確かに車で来たいところだ。
     のろのろ進む列の中腹にきたあたりで、聡実が不意に訊いてきた。「誘ったあとに気ぃついて。今日良かったんですか」
    「ええよ。元旦はなんもないねん。日付変わる頃に幹部でお参り行って、解散なんや。新年会とかそういうのは、三ヶ日終わってからやから」
    「えっ夜中行ったんですか」聡実は眉をしかめた。
    「うん。せやから正確には俺は初詣ちゃうねん。ごめんな」
    「いやそこやなくて。昨日遅かったってことやろ。知っとったら日にちずらしたのに。なんで言わんねん」しかめ面がより険しくなり、比例して口調が荒くなる。機嫌を損ねたかと思ったが、これは心配してくれているのか。
     狂児は笑みを深くして、眉間のシワがをぐいぐいと親指で揉んだ。
    「お参り言うても五分くらいで済むし、現地集合現地解散やったんや。帰ってすぐ寝たからだいじょうぶよ。ありがとね」
    「……しんどかったら言うてくださいよ」
     はあい、と頷いて、やっと聡実がほっと肩を撫で下ろしている。
     隣に並ぶたび、おおきくなったな、としみじみ思う。輪郭はまろみをだしていた幼い肉が削げて、首も太くなった。うつくしいボーイソプラノを奏でていた喉は、中低音くらいに落ち着き、僅かにハスキーさを纏わせて、よく通る印象的な声に仕上がっている。肩幅は広くなったが、からだの厚みは、健啖家のわりにやはり薄いままだ。あとは、そう、背だ。随分と背が伸びた。あの頃は屈まないと覗かなかった表情は、視線を滑らせるだけでよく見える。おとなびた、淡々とした顔つきは、案外感情を明確に表している。聡実は素直だ。いまも、素直に心配してみせてくれた。狂児は読み取れなかったけれど。
     聡実は、いままで付き合ってきた女の誰とも違う。性別や年齢が違うのはもちろんだが、狂児に対する接し方が、根本から違うのだ。だから、培った経験とそれに基づいた判断が、まず尽く使えない。
     ヒモを生業にしていた頃は、相手になんの感嘆もなかった。秋波を送ってくる女たちを、もしくは目についた女たちを、適当に応えて口説き落として関係が始まった。こころにもない、深く考えもしないで口にした褒めそやしを鵜呑みにした女たちは、狂ったようにみな狂児をアイドルのように扱って甘やかし、貢いできた。狂児もすべて貰い受けて、またテンプレートのような甘い言葉を注ぎ、貢がせる。その繰り返しだ。好きなようにさせてくれて、衣食住を与えてくれて、その代わりに、与えられたものを身につけ、彼女たちの望む愛し方で愛してやれば、すべてうまくいった。
     狂児は別段彼女たちを愛していたわけではないので、たとえば彼女たちが狂児の搾取に対して、少しでも反発を見せたら終わりだった。いくら彼女たちの気持ちが冷めなくても、狂児が飽きたら関係は即終了。終わりを通告する気にもならず、跡形もなく出て行って、探せないように繋がりを断ち、幕を下ろす。いままで付き合ってきたどの女も、始まりも終わりも、狂児が決められる関係だった。
     聡実は、そんな勝手な態度を許してくれない。お人好しではあるが、狂児に対して、聡実はそう甘くない。
     まず、彼女たちに使っていた甘い口説き文句が一切通じない。テンプレートでは靡いてくれない。ちゃんと真摯に、聡実のことを考えていないと、彼は微動だにしなかった。
     適当なことを言えば冷えた目で見られるか、烈火の如く怒りだす。聡実との関係を始めたのも、一度終わらせたのも、復活させたのも狂児からだが、その勝手さを、狂児だから仕方ないと流してはくれず、聡実は涙ながらに強く詰った。特に中学三年の夏、突然姿を消しての幕引きしたことには、謝っても許してくれない。いまでもしつこく怒っている。――二度とすんなよドアホ、謝るな謝る気ぃなんてないくせに、なめとんか、終わらせるんやったらちゃんと終わらせんかい、逃げるなや、僕のことなんやと思ってんねん! もっときちんと僕と向き合えや!
     掴んだ胸ぐらを揺さぶる、おおきなまん丸の薄茶の瞳は、苛烈な憤怒を燃やしていた。あんなに怒った聡実は、あとにも先にもあのときだけだ。
     聡実は、いままでの女たちと、まるっきり違う。狂児は、正直に言えば時折、彼に対してどうしていればいいか、どうすれば正解なのか、わからなくなるときがある。


     列はスムーズに進み、一時間ほど待ってふたりはなかに入っていった。人波に倣って門をくぐり、本堂に向かう。山の面に沿って建っている寺なので、いかんせん階段が多く、加えて混雑のなかを行くから、とにかく歩きにくい。息が切れはしないが、僅かに肩が上下していく。
     なんとか登り切ったところで聡実が狂児を呼び、手を出してきた。
    「なに? 手ぇ繋ぐん?」
    「ちゃうわ。持ってきましたよね。出してください。おまもり」
     寺に行きたいこと、車を出してほしいこと、もうひとつ聡実から依頼があった。あのふざけた柄のおまもりを、お焚き上げにだすこと。
    「……ほんまに出すん? 持っとったらあかんの?」
    「あかん」聡実は厳しく即答した。「それはもう効力切れや。おとなしく渡してください」
     狂児はコートのポケットのなかをまさぐった。持ってくるもなにも、これは日々肌身離さず持っている。狂児からしたら、このおまもりは贈り主の聡実からのご加護だった。手放したくない。
    「まだ残っとるで効き目」
    「ないって。だって狂児さんと、たぶん僕の命も救っとるんやから」
     目を丸くする狂児に、聡実は小さな一息を吐いて続ける。狂児のいなかった高校三年間、懊悩していた頃に、ふと考えたそうだ。あの事故で、車の左側がいちばんひどい傷を負っていた。左側は助手席で、事故の前日まで聡実が座っていたところ。犯人の宇宙人は、もしかして聡実を狙ったのではないか、と。
    「人間ふたり分の命救ったら、さすがにお役御免したらんと可哀想でしょ。ほらください。渡せ言うとんのがわからんの」
     手をぶらぶらさせてさながらチンピラの脅し文句のように、聡実が訴える。できれば渡したくないが、このまま抗ったら身ぐるみ剥いででも持っていきそうだ。
     狂児はしぶしぶおまもりを取りだし、手のひらに預けた。満足げに頷いた聡実は、躊躇いなくお焚き上げ用の木箱におまもりを投げ入れ、手を合わせている。
    「聡実くんのご加護がなくなってもうた」
     落ち込んで、冗談まじりにぼやく狂児を尻目に、聡実はずんずん歩いていく。本堂は軽く列ができていたが、参拝入り口ほどではなかった。賽銭を入れて手を合わせ、狂児が顔をあげても、聡実はまだお参りをしている。しばらくして聡実も一礼をして締めて、ふたりは……というより、聡実が先に石階段を下り、授与所に足を向ける。狂児は後ろをついていくだけだ。
     ずらりと並ぶおまもりは、数十種類に及ぶ。聡実はきょろきょろと目配せをして、悩まず一種類を選びとっていた。さっさとお金を納めて、授与所を離れていく。本堂の脇には砂利が敷き詰められた広場のような空間があり、聡実は人混みを避けて隅っこに移動してから、「狂児さん」とくるりと狂児を振り返った。
    「もう一回言いますけど、あれはもうあかんやつです。ほんまは一年くらいで焚き上げなあかんのに、もう五年近く経ってしもた。ご加護なんかとっくになくなってます。守ってくれへんおまもり持っててもしゃあないやろ」
    「……そうやね」
    「やから、これ」
     と聡実は狂児の手をおもむろに拾い上げ、なにかを握らせた。「新しい僕のご加護です」
    「……え?」
     手のひらをほどくと、ビニールの袋に包まれた、やはりあのふざけた柄のおまもりが載っている。
    「ずっと買い替えたいなあ思てたんですけど、もともと買うてくれたひとも買うた場所覚えてへん言うから、探しててん。人間ふたり分、しかも宇宙人から守ってくれはったんやから、すごい効力やないですか。狂児さん守るんやから、おんなしお守りがええなあ思て」
     聡実はまた手のひらを、今度は祈りを込めるように握る。「年に一回、ここでこれ買いましょ。そのたびに僕こうやってご加護こめますから」
    「聡実くん、俺、自分で買えるで」
    「ちゃうんです。ひとから貰たやつのほうが、念がこもってより効果あるて言いますやん。せやから僕があげる。あげたいねん。もう決めました」
     聡実は狂児をアイドルとしては一切見ないし扱わない。成田狂児として、ただのひとりの男として、人間として捉えて、接して、愛してくる。服は選んでくれないし、上辺だけの褒め言葉にはびくともしないし、聡実自身を真摯に丹精に想わなくてはならない。その代わり、寝不足を心配して我儘を引っ込めようとしたり、狂児が彼を守るだけでは満足せず、彼も狂児を守ってくれようと躍起になる。狂児を、ヤクザや都合のいい男ではなく、狂児として想ってくれる。
     聡実は、いままで付き合った誰とも違う。かた一方だけが尽くすだけでなくて、芯の部分で互いに尽くし合う、あくまで恋人、人間同士の疎通のある関係の構築を求めてきた。
     聡実を大事にすると、聡実も狂児を彼なりに大事にしてくれる。けして一方通行では許してくれなくて、みてくれ、上っ面だけでもなくて、中身の深い部分で、愛し合おうとしてくれる。いじらしく、真摯で厳しく重みのある愛し方だ。
    「……こんな大層なご加護受け取ったら、ほんまに聡実くん置いて死なれへんなあ」
    「そうならんためにおまもり渡しとんねん」
     そんな愛の交歓は、四十数年生きてきてはじめての経験だった。だから戸惑ってしまう。どうしたらいいのかわからなくなるうえ、泣きたくなるくらいの多幸感に、魂ごと沈み込んでしまいそうになる。
     若い頃であったら、邪魔くさく億劫で、きっとすぐに関係を破棄していただろう。でももう、だめだ。癖になってしまった。難しくてもわからなくなることがあっても、なんでも、聡実は、狂児にとって、唯一無二の存在だ。二度と手放せない。
    「抱き締めてええ?」
    「……どうぞ」
     あたりの混雑を見渡して、聡実が溜息まじりにからだを弛緩させる。狂児はそうっと腕を回して抱き寄せた。聡実についていけるよう、がんばるから、なんびとも狂児から聡実を奪わないでほしい。神仏への信仰心はないけれど、祈らずにいられなかった。

    ふたり分の不整脈

     偶然――かどうかはわからないが、正直もう深く考えたくない――再会した狂児とは、ひとまず東京に着いたら、到着ロビーで待ち合わせをしようと約束を交わした。行き先は同じでも便と航空会社が異なり、狂児は聡実の数分あとを追って離陸するらしい。
     聡実のフライト時間が近付いてきた。搭乗案内のアナウンスが流れたので、「じゃあのちほど」と立ち上がると、「見送らして」と狂児も次いで荷物を持ち上げた。数時間後にはまた東京で落ち合うのに? 隣に並ぶ男に呆れた目を向けようとして、聡実は「っうわ!」と咄嗟に仰け反り、一歩距離を置いた。
    「えっなに?」狂児もつられて驚いている。「どしたん急に」
    「いえ、あの、気にせんでください」
     聡実はそっと目をそらす。ああ、これはだめだ。また直視できなくなってしまった。
     あれ、こんなに近かったか。
     隣にいるだけなのに、いままでと景色が違う。顔が、顔が近すぎる。
     なんで、と考えて、すぐに思い当たる。自分の身長だ。
     会わなかった三年半の間に、聡実の身長は大幅に伸びた。中学生の頃は伸び悩んでいた体格が、高校に入って急激に成長期を迎えて、ひたすら縦に大きくなった。高校三年の身体測定では175センチを記録している。おそらく兄と同じか、少し高いかもしれない。母や父は確実に越してしまった。
     ちら、と聡実は再度視線だけを隣に流して観察する。中学三年の頃は、背の順でも前から数えたほうがはやかった。150センチ前半か中盤くらいだったと思う。狂児とは三十センチ以上の身長差があり、隣に並んでも、目線は横に滑らせるだけでは、胸元か肩ぐらいにしか当たらなかった。顔を見るには見上げる必要があり、立ち上がると、顎の下からのアングルでしか見られなかった。カラオケ屋で座っていたときも、真隣に腰を下されても、怖いし興味もなく、まともに見つめた記憶がない。車のなかでだって、ほとんど外の流れていく風景を眺めていた。
     三年半。聡実の、心身ともに大規模なアップデート期間を経て、十センチに満たない差にまで縮まっているだろう。けれどいかんせん、三年半ぶりの再会である。当然、狂児の横に立つのも三年ぶりだ。感覚がつい中学時分のままで、気なしに目を向けた先は、予想していたネクタイの柄ではなかった。狂児の横顔にぶつかってしまったのだ。
     出会い頭の事故に遭ったような心境だった。出会った頃とはまるで違う、真横の至近距離で見るフォルム。見慣れないアングルと距離感に、聡実は思わず悲鳴を上げた次第だった。ヤクザのくせに――姿体に職業は関係ないかもしれないが――彫刻みたいでびっくりした。おおきな窓から差し込む陽光に、彫りの深い面立ちが照らし上げられる。目が惹かざるを得ない端正さだった。それから。
    「そう言われても気になるで。なんか忘れもんでもしたんか?」
    「ちゃいます」
     聡実は否定しながら、溜め息を吐きそうになった。そうか。顔が近くなったら、耳と口元の距離も近くなる。声が、いままでは上から降ってきた少し遠かった声が、今度は横から鼓膜に差し入ってくる。囁かれるようなダイレクトさで。
     あ、視覚より、こっちのほうがあかんかも。ふる、とからだの芯が震えた気がした。
    「聡実くん?」
    「……あかん、狂児さん喋らんで。二歩くらい離れて」聡実は立ち止まり、顔を手で覆って俯いた。手も顔も、ともすれば全身が熱い。いまは春間近で、薄い上着が必要な季節だ。ロビーは暖房がほどよく効いているだけなのに、まるで真夏のように、肌に汗が滲み始めている。
    「ええ? なんで? せっかく会えたんやからお話ししようや」
    「いまは嫌や」
     狂児も狂児だ。三年半前、バラエティに富んだコメディみたいな表情を写していたのに、随分穏やかに落ち着いている。声も、僅かに高くて、もっとうるさかったはずだ。そんな、おとなしいトーンではなかった。中学生に接するため、あれは狂児なりの子ども扱いだったか。ふつうに喋るともっと低くて、甘ったるいようだった。新たな発見だ、ますます「紅」は素材の持ち腐れやな、と詮無いことに現実逃避したくなる。だって、聞いているだけでこそばゆくなる甘さだ。子ども相手だから控えていたのか。そもそもこれが”ふつう”かどうか……いや、”ふつう”であってほしい。相手が聡実だから甘く変化しているなんて、考えたくない。余計に落ち着かなくなる。
     会話を拒む聡実に、狂児は肩を竦めた。「はは、ほんまにボクは嫌われてしもたかな」
    「……嫌ってはないです」
     嫌っていたら、こうはならない。小さな罪悪感が湧いて答えながら、念のため、指の隙間から隣の様子を覗くと、にやついたつらがよく見える。額面通りに落ち込んでなんかいないことは、わかっていたけれど、改めて視認するとむかつくものだ。
     聡実の動揺の正体なんて、きっと狂児は気付いている。気付いているから、煽るように、「ふうん。じゃあお話ししよ」なんて言って、おもむろに腰に腕を回してくるのだろう。ぐっと抱き寄せられて、ひとひとり分空いていたスペースがゼロ距離になる。聡実はまた、うわ、と声を上げた。肩が触れ、からだを囲う腕のちからの強さにも、体熱が一気に上昇し汗が噴き出た。宥めようと必死に努力していたのに、すべて水の泡で、心臓が皮膚を突き破りそうな動きを再開した。からだが熱くて汗ばみ、顔が赤らむ。
     なんやねんもう。ひとの言うこと聞けや。ふつふつと腹が立ってくる。聡実はじろりと睨みつけた。
    「聡実くん目つき悪いで」
    「悪くしとんねん」
    「あかんよ。眉間のシワ、クセになったらとれへんようなるで」
    「やったらちょっと離れろや……僕が慣れるまでちょっと待て言うてるだけやろ……」
    「いっぱいくっついたほうが免疫できてはよ慣れるヨン」
     狂児がただくっつきたいだけだろう。まるでひとの意見や意図を汲み取ってくれない。「年上のくせに初心者に優しくしろや……」という聡実の悪態に、狂児はやはり腕をほどかず、機嫌良く笑うだけだ。余裕ぶっこきやがってこの野郎。聡実は内心舌打ちをした。慣れる前に、このまま近付き続けていたら、いつかどこかからほんとうに心臓が飛び出しそうである。まだ死にたくはないので、せめて腕のなかでも精一杯の距離を置くために、顔を背けてそっぽを向く。声もなるべく聞き取らないように、あたりの音に集中を傾けた。


     だから、狂児が無意識に漏らした、四十代男としては恥ずべき本音の一言は、聡実に届かずにいられたのだ。
    「……俺かて初心者やし慣れてへんよ。一緒にドキドキしよネ」

    小林氏の回想

     出会った当初、二十歳の成田狂児は、静かな男であった。ちから加減が下手なのか、手先が立てる物音はゴンゴンガンガンとうるさかったが、普段の立ち居振る舞いは、とてもおとなしいものだった。発する言葉も少なく、訊かれたことへの応対くらいしか口にしない。ヤクザになるまで、一応真っ当な道を歩んできたからか、誰かが暴れていても、他の構成員のように便乗してケンカに交じることもなく、淡々と情景を動かず眺めている。あんまりにも微動だにしないので、時々、生きているのか確かめたくなった。置物、もしくは血の通わない人形のようにも見えた。
     その、作り物じみた印象を、特に色濃くさせるのは、表情だ。凝り固まった薄ら笑いか無表情、狂児にはそのふたパターンしか顔がなかった。とりわけ前者はお粗末なもので、場の空気に乗って演じているだけだと丸わかりの、中身のない、適当な作り笑いだ。
     物静かと言ったが、実際のところ、狂児はいつも”無”であった。成田狂児は、空っぽの男だった。
    「いや、そう見えて案外あれはなかでくすぶっとんねん。化けると思うわ」組長はそう断言して、狂児の身柄を小林に預けた。狂児は「よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げ、空洞のような目は、薄く笑っていた。
     組に入って十日、狂児は仕事人としてはすこぶる優秀だった。指示を的確に理解して動き、教えは一度か二度で吸収できている。根が真面目で、地頭がいいのだろう。金の勘定の仕組みを覚えさせ、小林は自身のシノギの一部の金銭管理を早速任せた。
     ヤクザにつきものの暴力においても、まっさらなカタギであったとは思えないスピードで順応した。そのあたりの教育は別の人間に頼んでいたが、はじめは少し嫌そうにしていたものの、抵抗はなかったそうだ。チャカの扱いも素人にしてはうまく、もともと体格が恵まれているので、もう少し筋力をつければ、充分な戦闘力になるだろう。
    「スーツ、新しいの買わなな」
     一歩後ろを歩く男を、小林は振り向く。
    「スーツやないとあかんのですか。他の方は、ジャージなんか着てるの見ますけど」
    「あかんあかん。かっこ悪いやろ」
    「はあ……」
     連れ歩くときにジャージを着せていては、小林の美意識に反する。しかも狂児の私服は、女に与えられたものを雑に着合わせたちぐはぐなもので、見るに耐えないひどさだった。隣を任せたくもない。組長に預けられてすぐ、馴染みのブランドショップでスーツをオーダーメイドさせて、仕上がるまでの間、ひとまず自身のお下がりを一着狂児に与えた。
     しかし、アンバランスだ。小林は改めて上から下まで見定めて、舌を打った。身長差も体格差もそうないはずなのに、ジャケットやシャツは緩く、スラックスはベルトを極限まで締めて、かつ丈がつんつるてんである。足首が見えてみっともない。
    「なんでそうなんねん。腹立つな」とスタイルの違いに悪態を吐くと、僅かな間のあとに、狂児は薄笑いを浮かべて、「すみません」と謝った。
     小林はふと足を止めて、からだごと振り返る。
    「なあ、なんで黙るんや」
    「え?」
    「もっと自分の気持ち、口にせえ。おまえ、なんか言う前に一回ちょっと口ごもるな。間ァ空けてから話しよる。言いたいことあんなら言えや。省エネすな」
    「省エネて……」
     狂児はぼやいて表情を消し、また間を空ける。それから、ぽつりと「……足長くてすんません」と言うので、「言っていいことと悪いことは区別せえよ」と小林はぽかりとかたちのいい頭をはたいてやった。



     二ヶ月もすれば、めきめきと、狂児はヤクザとして成り立ちだしていった。上手に金の流れを見定め、上手にひとを口説いて、上手にひとを陥落させ、上手にひとを脅して懐を搾り取っていく。教えたフレーズや仕草をきちんと自身のものにして、ヒモ時代の経験も使いながら、稼ぎを増やした。小林の教育の成果なのか、本人の素質なのか、口は随分達者になった。けれど、顔がまだ一本調子だ。気色悪い薄笑いと、無表情のふたつしかない。
     ヤクザの仕事は、ある意味で接客業だ。こちらは利益を得るために、嘘も真実もないまぜにして、相手を自分の掌中にオトすために振る舞う。口だけでは真実味がない。リアルな表情が伴わなければ、騙すための信頼を得られない。
     往々にして、嘘を吐くには、嘘を作るための素材が必要である。表情というものは、素材……裏打ちされる感情が働いていて、はじめて嘯けるものだと、小林は考えている。
    「狂児おまえ、なんか人生楽しいことでもないんか? ヒモやっとったわりには女抱くんも楽しなさそうやしな」
     馴染みのスナックで夕食を摂り、晩酌のウイスキーを舐めながら、小林は向かいの狂児に目を向けた。下戸の新人はアップルジュースを啜り、伏せた目をどこかに滑らせている。
    「あれは、向こうがそうして言うから、そうしとっただけで、俺がしたくてしとったわけやないので」うちに来て、一緒におって、なんもせんでええから、そばにおって、あたしを抱いて、あたしを離さんで。「――そう言われて、まあ、別に嫌やなかったし、断る理由もないから、おっただけです」
    「なんや、自分の意思で寄生しとったんちゃうんか」そういえば、組長が狂児をスカウトしたのは、彼のバイト先のカラオケ店だったと言っていた。ヒモが働くなんておかしな話だと、怪訝には思っていたのだが。
    「……楽やったんで、おれる限りはおりましたけど」と言葉を切る。狂児は爪先でコップをひと掻きして、また口を開いた。
    「あの。自慢やないんですけど、俺、アホみたいにモテるんです」
    「あ? ケンカ売っとるんか」
    「せやから自慢やないんですって。事実です」
     小林は舌打ちして、タバコをくわえた。すかさず狂児がライターを出し、火を灯す。それから「吸ってええですか」と了解を得てから、自身の分も煙をくゆらした。
     まあ、そうだろう。狂児の面立ちは、そうそう生まれそうにない、すべてのパーツが端正な整い方をしている。雄々しく凛々しい顔立ち、背も腰の位置も高く、発する声は低く艶があった。他者の五感のすべてを、狂児は意識せずともたぶらかす。だから無気力で乏しい表情でも、ヤクザの仕事が成り立つのだ。
    「小学校んときから、よう声かけてもらいました。声変わりのあとは、もっとひどなった」はじめは、それは嬉しかった。ひとより性欲やら恋愛願望やらはなかったけれど、男であるし、モテて困ることはない。
    「俺の初体験、中二んときの保健室の先生やったんですけど」
    「おおええやん。AVみたいやな」
    「そんなええもんとちゃいますよ。体調崩して寝とって、起きたら俺のチンコが先生にささっとった」
     おとなからも同級生からも、秋波ばかりを向けられた。あんまりにも、「好き」だとか「愛してる」だとか執着を向けられて、だんだん、疎ましく鬱陶しくなってきた。狂児自身は、誰のことも好きでないし、嫌いでもない。誰もがどうでもいい相手ばかりだった。なのにそんなに執拗に迫られても困るし、「好きになって」と頼まれて好きになれるものでもない。本心をひとたび口にすれば、女たちは発狂したように泣き喚いた。
     名前のせいだと、誰かが詰った。あんたの名前、狂うなんて字が入ってるから、あたしらみんなあんたに狂うねん。狂わせる、ひとを狂わせる、ぜんぶあんたのせいや。
    「死人でも出たんか」
    「いや。飛び降り自殺はかった子とか、心中させられそうになったりとかはありましたけど、みんなピンピンしとりました」
    「罪の意識でも湧いとるんか」
    「いえ別に……でもおまえのせいやって責められて、俺なんもしてへんのになって、人間ってうっといなって、思ただけで」
     淡々と、けれどどこか嫌そうに、億劫そうに、狂児は煙まじりに呟く。
     小林は紫煙を細く吐き出して、親指で額を掻いた。
    「おまえのその……魔性みたいなん、生まれ持った特殊能力やな。扱いこなせればヤクザには逸品モンや。大事にせえよ」
    「はあ」
    「つうかな、名前、関係ないで」
     名は体を表す、なんてことわざが世にははびこっている。そんなものは嘘っぱちだ。正義と名付けられた男がクラブの金を横領して海の藻屑になったり、愛美なんて不細工な女がホストに狂って整形を重ね、風俗に堕ちていったり――そんなことは、世のなかのどこでも日常茶飯事に起きている。
    「ようわからんけど、名前の影響なんて、せいぜい自分にだけやろ。おまえの場合、狂児っちゅう名前で、おまえがおかしなることはあっても、周りは周り自身の責任とちゃうか」
    「周り自身の、責任」
    「そりゃあ、おまえのそんときの振る舞いがどうだったんか俺は知らんから、知らんけど。故意がないなら尚更、勝手に狂ったんは向こうやろ」
     少なくとも、この世界ではそういう道理だ。なんの影響を受けようと、たとえば仕向けられたとしても、身に起こる万事すべては自身が選択した道だ。狂ったなら狂った時点で、犯したなら犯した時点で、そういう道を、彼らは自身の意思で選んでいるのだ。ならば選択した当人そのひとに、罪や責任は被られるべきである。他者の名前のせいにするなど、ばかばかしい話だ。
    「おまえがなんやそんな、考える必要ないんちゃうか。そんなもん捨ててまえ。な」
     小林はタバコを灰皿に押し潰した。狂児の真っ黒な目は、瞬きもなく、黙って小林をじっと見つめている。



     狂児がはじめて命に関わる怪我を負ったのは、その後半年経った頃だった。あるクラブが経営悪化でケツモチ代を払えなくなった。組で締め上げたところ、あろうことか敵対する組へ泣きつき勃発した、抗争のさなかだった。
     頭を鉄パイプで殴打され、腹に一発銃弾がぶちこまれている。上からも下からも血をだらだらと流し、呼吸を荒くする狂児を、小林は支えて車に乗り込み、病院へ急がせた。
    「狂児、起きとれよ。寝たらあかんで」
    「はい……」
     多量に血を失って寒いのか、からだの震えが声に伝わって頼りない。くちびるはとうに青褪めている。うとうととまぶたがしばたくたび、小林は二の腕をはたいた。
    「痛いよな、もうちょいの辛抱やからな。狂児。寝んなよ。……おい、もっとスピード出せや! なにチンタラ走っとんねん!」
     半年の付き合いで、小林にとって、狂児はかわいい教え子になっていた。もともと愛着の湧きやすいたちではあるけれど、狂児は格別だ。相変わらず表情は乏しいままでつまらないが、口ごもることも減って、やっと素直に生意気な口をきくようになってきたのだ。
    「狂児、死んだらあかんぞ。なあ」
     目を瞑りかけるからだを、ぱしぱしとしつこく叩く。これほど有能で使える下はいないし、ヤクザの素質を十二分に兼ね備えている。化ける、と断言した組長の目に狂いはなかった。死なれたら困る。仕事の上ではもちろん、小林自身の心情としても、寂しくてたまらない。
     狂児、狂児。おい、あかんぞ。呼び続けると、やがて薄く目が開かれて、茫洋とした視線が小林を捉える。そうして。
     まなじりがにっこりと、弧を描いた。
    「はは、アニキ、痛いしうるさい」くく、と喉仏が揺れて、狂児のくちびるが、満面に笑んだ。
     はじめて見た、笑顔だった。
     ぽかんと呆気にとられた小林を一瞥して、ふふ、あはは、とよりおおきく笑いだした。収まらないのか、真っ青な顔を背けて、肩を震わせている。「必死すぎやで……あかん……おもろ……」
    「……おまえなあ」
     小林は、狂児の頭に手を振り上げ、結局肩を張るに留めた。なんでいま笑うんや。こいつアホか。無神経やな。舌打ちして黙ると、ますます狂児の笑いがひどくなる。おちょくられているようで腹は立つが、つられているのか、口端がゆるく持ち上がるのがわかった。



     あれから、約二十年である。稼ぎ頭の狂児はすくすくと順当に出世し、今や若頭補佐だ。表情は随分豊かになり、達者だった口は輪をかけて生意気になった。でもやはり胡散臭い作り笑いは、小林からすれば下手の領域を越えない。作り笑いと見てわかるようでは、まだまだだ。もしかすると、もともと笑うこと自体がうまくないのかもしれない。
     執着を疎い、相変わらず適当にのらりくらりと飄々な人生を歩む狂児に、ある変化が訪れたのは、夏だった。蒸し暑く、セミがうるさい、真夏の八月、スナックカツ子、むさ苦しい男臭の立ち込めるなか。変化のきっかけは、カラオケの先生として知り合ったらしい十四歳の男の子だ。紆余曲折を経て、狂児が死んだと思い込み、彼が鎮魂として幼い声ごと捧げた『紅』の絶唱。
     夕方、子どもを家に送り届けてスナックに戻ってきた狂児は、ひとが変わったように、重みのある顔を浮かべていた。
    「アニキ、車ありがとうございました」
     貸したキーを受け取り、「どうするんや」と言外に主語を含めて問う。
    「まあ、ケジメつけんと……出頭してきますわ」
    「あの子には言うたんか」
    「言ってません。……言えません」
     狂児は一瞬黙り、ゆるゆると首を振った。さようならって、お別れしてきましたわ。へらへらとした、いつも以上に下手な作り笑いだった。
     答えた小さな声をぱっと明るく切り替え、「カツ子さんタクシー頼んでもええですか」と狂児は身支度を整える。警察へ送っていく提案は、断られてしまった。
     ジャケットを羽織り、緩めたネクタイを締め直し、髪をある程度梳く頃には、近くにタクシーが到着した連絡が届いた。
    「ほな、行ってきます。あとよろしくお願いします」
    「狂児」
     ドアに手を掛け、わざとらしく敬礼を取る狂児に、組長が粛々と声をかける。「今年の歌ヘタ、おまえやからな」
    「えええ」
    「歌ってへんやないか。不戦敗や。帰ってきた彫ったる。腕磨いといたるわ。なにがええ」
     作り笑いが、瞬時に引っ込んだ。ややあって、かたちのいいくちびるが、僅かにほころぶ。はじめて笑顔を見せたあの頃より、シワの増えた目元まで、柔らかくたわんだ。
    「〝聡実〟で」



     ぱたりと静かに閉まるドアを眺め、小林は紫煙を吐いた。「組長、えこひいきですやん」
    「ああ?」
    「あいつにそれ彫りたいだけちゃうの」
    「ええやろ別に。あんなん聞いて見とったら、彫りたなるわ」
     まあ、気持ちは、わからないでもない。小林はタバコをくわえ直し、ソファの背もたれにぐっと体重を預ける。この数時間に過ぎていった出来事が、頭のなかにこびりついて、繰り返し反芻されていく。十四歳の『紅』の絶唱。それに応えるように、狂児が彼に向けた視線。本人が気付いているのかわからないが、あれほど疎ましがっていた執着を孕んだ感情が、あの男のなかに芽生えているのは明白だった。
     よもや子どもに向けるとは思わなかった。あいつショタコンやったんか? と冗談混じりにぼやいて笑った。それにしても、だ。
     聡実を彫りたい、とのたまった、あの顔たるや。
     恋やら愛やらを抱えると、ひとはきれいになる、なんて眉唾ものの通説が、頭をよぎる。
    「あれ、四十男にも適用されるんやなあ……」
     なんだか胸やけでもしそうである。小林は、フーッ、と天井に紫煙を噴き上げた。

    僕だけ見てろ

     十四歳の頃、一度だけ、狂児にキスをしかけたことがあった。いや、実際にはキスをしようと思ったわけではないので、くちびるには届かなかった。けれどあと数ミリ近かったら、間違いなく触れていたと思う。
     当時はその衝動を忘れたくて、深く考えもしなかったけれど、思い返せばあれは立派な嫉妬だった。あの頃から狂児を好きだったのだな、と聡実は反芻する。
     真夏の暑い日だった。そうだ、狂児の声にあった曲目のリストを渡した、翌日だった。ありがとね、と笑った顔がいやに脳裏にこびりついて、落ち合ったときから落ち着かなかった感覚が蘇る。結局あまり身が入らず、ぼうって聞いて一言二言助言するだけで、時間切れとなってしまった。
     狂児が会計している間、聡実はお手洗いを済ませていた。ハンカチで手を拭きながら出てくると、もう狂児は車に戻っていて、窓を開けた車内で電話をとっていた。
    「はい、……はあ、え~なんですかそれ。アニキまたアヤちゃん怒らしたんですか。飽きませんね~」
     アニキ、ということは相手もヤクザだ。なんにせよ他人の電話を聞くのは良心に反して、聡実はなるべく聞かないようにドアに身を預けた。キーを差し込んだまま、狂児は電話に熱中していて、回そうとしない。
     おそらく一度エンジンをかけて、電話のためにまた切ったのだろう。かろうじて窓は両側全開になっていて、今日は比較的風が強かった。けれどだからって、蒸し風呂状態だった車内の熱気が、すべて出て行くわけではないし、太陽光の燦々とした熱が、代わりに入り込んでくる。暑い。聡実は全身に汗が噴き出てくる感覚に眉を潜めた。中学三年生、先程大盛りのチャーハンとポテトを食べたからだは、消化に息巻いていて、ただでさえ熱を発しているのに。暑い。はやくエンジンをかけて、クーラーを点けてほしい。隣の男を睨んで訴えるけれど、ごめんな、と手を挙げるだけでちっとも意思は届かない。謝られたいわけではない。
    「なんで俺なん? 俺忙しいねんけど。迎えになんかいかへんよ。アニキ自分で行って謝ってくればよろしいやん」
     はよ車動かしてや。暑いねんけど。電話の邪魔になるといけないから、黙って腕をつついてもだめだ。聡実は一旦ドアにからだを戻して、深い溜息を吐く。
     聞きたくなくても耳が捉える内容を繋ぎ合わせるに、アニキというひとの愚痴を聞いているようだった。アニキの大事なアヤちゃんがご機嫌を損ね、アニキはアヤちゃんに会わねばならず、会いにくいから狂児を派遣するべく電話をかけてきた。狂児は迷惑そうに、アニキを諭しているようにも聞こえる。ヤクザは一般人の自分たちにはわからない、強い上下関係の社会だそうだから、しょうもない愚痴といえど、アニキの話を適当に聞き流せないのだろう。でも。
     でも、その電話は、ほんとうにいまでないといけないのだろうか。
    「アニキ、俺は確かにアヤちゃんに気に入られとるけど、アヤちゃんは俺やなくてアニキに会いたいと思うねんけどなあ」
     聡実は再び、狂児を横目で見た。いつまで電話しとんねんこいつ。ていうか暑くないんか? 電話の向こうの相手も声が大きいから、微かに声が漏れ出て聞こえる。耳を通り過ぎるのは、実にくだらない会話だ。
     暑い上に、汗がだらだらと顔を伝って鬱陶しく、更に妙な苛立ちまで湧き立ちはじめた。ひとを載せている車を停めてまでする必要あるだろうか。このままでは、聡実は熱中症になりそうなのに。放っておかれている。ぜんぜん気付いてくれない。そんなしょうもない話、いまである必要性をちっとも感じない。いまじゃなくていい。……僕がおるときにせんでもええやろ。
     ちりっと心臓が焦げ付くような感覚が迸った。そう思ったら、次第に黙らせたくなってきた。うるさい。はやく電話を切って、エンジンをかけ、クーラーで車内を冷やして、刺々しくなる自分を宥めて欲しかった。だいたい、アヤとは誰だ。アヤをこの車に載せる気なのだろうか。もう乗ったことがあるのかもしれない。もしかして、ここに?
    「えー……あー……はい、はい、わかりました。行きます。行きますって。はいはい。すぐには行かれへんし、ちょっと待たしといてくださいよ」
     頭のなかに、「乗り心地がよろしいんでしょうなあ」と揶揄う声が響く。噴き出したのは、いやに粘り気を孕んだ衝動だった。とにかく黙らせたくて、なんでもいいからくちを塞いでやりたかった。
     聡実は掻き立てられる勢いのまま、シートベルトを外して身を乗り出した。狂児の腕、は電話を持っているので、咄嗟に目が射止めた掴めるものは、その奥にあるネクタイだった。容赦なくぐっと引っ張り、首が締まって驚く狂児を睨みあげる。触れそうなくちびるは寸でのところで止まり、ただし呼吸は肌にさわって、くすぐったい。
    「あつい。はよ出せ」
     ぽかんと呆気にとられた様子の狂児は、はい、と小さく頷いて、その体勢のままやっとエンジンをかけた。やっと、エアコンの口元が盛大に風を吐きだし始める。気持ちの悪い風当たりに、聡実はますます眉をしかめた。その生温さでやっと車内の熱度に気付いたのか、「ごめん聡実くん!」と狂児が急に慌てだした。ハンカチを出して、聡実の額に浮かぶ汗滴を、そっと拭ってくる。
    「暑かったなあ、ごめんなあ。ポカリ買うてくるから、もう少し待っといて」
    「ええです。水筒あるし。狂児さんもこのあと予定あるんでしょ」
     言って、咄嗟に口を噤んだ。拗ねたような口振りになってしまった。熱気のせいだけでなく火照る頬を、手で仰いで冷ます。胸を焼く謎めいた感覚が、一際強くなっていく。彼の身がこのあと空こうとどうしようと、自分には関係ないはずなのに。
     なんやねんこれ。困惑しながら、居た堪れなくなって背けた目は、けれど狂児は汗を拭う手によって、彼の視線と重なるように方向転換させられた。驚いてぎょっと目を丸くする聡実に、薄く笑んだくちびるが、「ないよ」と答える。
    「だって、いま電話」
    「ええねんええねん。自分で行け、て送っとくから。な、冷たいもん食べに行こ。つらい思いさせたお詫びに奢らせて」
     お詫びもなにも、いつも奢られているのだが。不思議に思いながら見上げると、狂児はなんだか嬉しそうに口端をたゆませている。いまのこの流れのどこにそんな喜びを見出しているのか。聡実は胡乱げに目を伏せて、「サーティーワン行きたいです」と答えた。気付いたときには、胸のうちを焦がす痛みは、きれいに治っていた。



     ――あんま成長しとらんな。僕も狂児も。
     四年前、彼と出会った夏の一コマを思い返し、聡実はホットコーヒーの蓋に歯を立てた。目の前では、あの日と同じく、狂児が電話に耳を傾けている。
     真冬の十二月、深夜のコンビニ。狂児の一服に同行してきた。アパートは全面禁煙で、ベランダでの喫煙もバレたら即退去だ。幸い聡実の部屋は二階の最奥にあり、隣は空室、ベランダの向かいは隣家の壁で、人目につきにくい立地だ。うまくやればバレなさそうだが、狂児本人が嫌がった。俺のせいで聡実くんが家失うんはいややもん、と言って、すぐ近くの公園や、歩きたいときは徒歩五分ほど離れたコンビニに吸いに出かける。聡実は時折気まぐれに付き添って、コーヒーや夜食のパンや菓子を片手に、一服に寄り添った。
     今夜も気まぐれを起こして、出て行く背中についてきた。日付はとっくに変わった真夜中、風呂も済ませて、マフラーを巻き、スウェットにピーコートを羽織る聡実に反し、つい数十分前に来たばかりの狂児は、まだスーツを着込んだままだ。いつもはアパートに入る前に公園で一本吸ってくるそうだが、タバコをうっかり切らしていたことに、アパートの近くまできて気が付いたと言う。無事購入して、灰皿の横に立つ姿を見送り、聡実は店内に残って夜食を物色した。コーヒーと、あと小腹が吸いたので、肉まんを手に取る。
     会計を済ませて店を出ると、狂児はタバコをくゆらせながら、電話をしていた。車止めポールに腰を下ろして、長い脚を投げ出し、背中を丸めている。
    「そうかあ、えらいなあ。ちゃあんと稼いどる。金返せて、自分も潤って、文句なしやん」
     聡実は隣に座って、皮膚に伝わる鉄の冷たさに身震いした。寒くなって、狂児のほうに少し身を寄せる。
    「ほんなら店長さんに変わってくれる? うん、はい。……どうもぉ。成田です。すんません、折り返してもろて」
     あらかじめ、包紙を剥いておいた肉まんを頬張る。肉汁がくちのなかに染みていく。熱くてくちがはふはふと喘いだ。美味しい。思ったより 空腹だったのか、みるみる咀嚼していく。
    「店めっちゃ盛況らしいですやん。いまユナちゃんに聞きましたけど。かわいい子揃ってるし、ええですねえ」
     あっという間に半分ほど食べ進め、聡実は隣を一瞥した。タバコは一本を吸い終えて、携帯灰皿に押し付けいる。器用に片手で箱を開いて火を灯し、紫煙を吹き出したあとに続ける。
    「そんでね。要するに、おたく結構儲かってますやんか。やけどうちの下からは、ショバ代が払えんくらいひもじい言うとったって聞いとるんですわ。お電話したんは、その件なんやけど。どっちがほんまなん?」
     残りの半分も、二、三口で食べ終えてしまった。聡実は包み紙を丸めて外に置かれたゴミ箱に放り、再び狂児の隣に腰かける。コーヒーを啜りながら、ぶらつく足で狂児の靴を蹴ってみた。一回、二回、三回。三回目でようやっと、狂児の腕が聡実の肩を抱き寄せ、とんとんと二の腕が宥めるようになでてくる。いや、そういうことちゃうねんけど。
    「うちの下のもん、騙くらかすのはあきませんわ。まあちゃんと調べんと、騙されるんも悪いですけど。もう二ヶ月分踏み倒しとるらしいですやん。アカンなあ。すぐ払ってもらえます?」
     もう一度、蹴った。こっち向け。いつまで電話しとんねんて。そもそも隣に自分を置いておきながら、仕事とはいえ他の女を褒める無神経さにも腹が立ってくる。けれど案外鈍い狂児気付かず、今度は髪を梳いてくるだけで、やはり通話は終わらない。
    「はは、そんなビビらんといてや。俺が出てくると思わんかった? ほんまは俺の仕事とちゃうねんけど、こういうの得意やから、すぐ使われるんやわ。……で、払えるん? 払えんの? どっちなん」
     で、おまえは僕をこのまま放っておく気なん、構う気あるん、どっちなん。やはり成長が見られないな、と聡実は自身に溜め息を吐いた。あの頃とちっとも変わらない、ちりちりと少しずつ蝕んでいくような苛立ちが、湧き上がってくるのがわかる。
    「借りとるもんに金払うんは道理やろ。まして滞納しといて私腹肥やすて、契約違反やんか」
     黙らせたい。このよく喋る、見知らぬ他人に向いてばかりのくちびるを。
    「約束は守りましょうてオカンに習わんかったん? 嘘吐いてもすぐバレるで。俺みたいのに。な。素直にはよ答え、」
     ネクタイをぐっと引っ張ってやると、狂児は言葉を切り、ぎょっと目を剥いた。聡実による突然の横暴だけでなく、そのままくちびるを奪われたからだろう。
     表面にだけ触れたくちびるはすぐ離れ、聡実は狂児を睨めあげる。ふたりの間だけで聞こえる程度の小声で囁いた。「いつまでよそ見しとんねん」僕ここにおるねんけど。
    「……はい、ごめんなさい」狂児はあのときと同じ、呆気に取られた顔で謝った。少しして、おもむろに電話に「払える言いましたね? ほな頼んます」とだけ言い捨て、即座に通話を切る。スマートフォンはポケットにしまわれ、ネクタイを握る聡実の手に、狂児のおおきな手が重なった。
    「ごめんな聡実くん。よそ見してしもて。寂しかった? 俺あかん子やね」
    「ちゃうわアホ。子言うな。歳考えろや。……なににやついてんねん」
    「嬉しいんやもん」
     ネクタイ越しとはいえ首を締められ、邪険に扱われているのに、なにが、どこが嬉しくなる要素があるのか。聡実はげんなりと顔を伏せた。さっぱり理解できない、理解したくない嗜好である。
    「な。俺あかんことしたし、お詫びになんでもするよ。なにがええ?」
     狂児はにこにこと目を輝かせ、やや頬を火照らせている。そういえばあのときも、やたらテンションが上がって喜んでいた。
     深々とため息を吐き、聡実は「キスと焼肉」と低く呟いた。了承の代わりに重なって深くなるくちびると、からだに回る腕の熱さに、やっぱり胸のうちの焼け焦げる痛みは、すっかり治まっていたのだった。

    十八歳、冬、想うこと

     家に引きこもっていると、外の変化には気付きにくいものだ。こたつに入って作業に気を遣っていたら尚更、まして冬の寒気の侵入を防ぐために、窓もカーテンも締め切っている。
     昼までのバイトから帰って以降、黙々と集中していた課題にようやく目処が立った。疲れた。一息吐いて聡実が顔をあげたのは、もう夜19時に近い頃だった。時間を視認すると、自然と腹がぐうぐうと主張し始める。間食もせずにひたすらパソコンと向き合っていたから、比喩なしにお腹と背中がくっつきそうだ。
     あかん、はよなんか食べんと。そう思って立ち上がる。こたつで温くなったからだが、不意にふるりと震えた。えらい寒いな。それに、家の周囲がいやに静まり返っている。夜でもこの辺りは、ひとや車の気配がするはずだった。外の様子が気になって、聡実は窓際のベッドに上がり、カーテンを捲って覗きこむ。
    「うわめっちゃ降ってるやん」
     しいんとした静寂は、どうも積雪によるものらしい。二階にあるこの部屋の窓からは、下の様子は窺えないものの、目の前のベランダには、ふくらはぎに届きそうなほどの雪が積もっている。
     確かに昨日見た天気アプリでは、降雪予報が出ていた。大雪になるとも書いてあったが、こんなに降るものなのか。はじめて迎える東京の冬の景色に、聡実は目を膨らませる。
     それからはっと瞬いて、カーテンを閉めて、こたつ机のスマートフォンを拾った。光らせた画面には、メッセージ二通分のポップアップが掲示されている。三時間前の『飛行機全便欠航になってしもたから、新幹線で行くネ』、一時間ほど前の『乗ったヨン』。どちらも、本日から五日間宿泊予定の、遠距離恋愛中の年上の恋人からだ。
    「え、来れるん。今日」
     この大雪で、新幹線も動くものなのか。咄嗟にロックを外して、ネットを検索して新幹線の運行情報を調べた。全国的な大雪により、東京―博多間は速度を落として運転しております……。速度を落として。あの長い長い距離を。どのくらいの低速かはわからないけれど、ただでさえ三時間以上かかるのに、いつ到着できるものなのか、途方もなく思えてくる。
     トトト、と指が素早く動き、ラインに移動して、思わず発信ボタンを押した。文字にしたためるには難しかった。軽やかな保留音が流れて、そう待たずして低い声が聞こえてきた。
    『あれ? 電話珍しなあ。どしたん』
    「どしたんちゃうくて、え、もう乗ってるんですか」
    『乗ってるよー。けどめっちゃスピード落としてるわ。着くの遅なるかも。ごめんね』
     ゴトンゴトン、と控えめな走行音が声の向こうから聞こえる。確かに、新幹線のなかなのに、電話越しの声がはっきりと聞き取れた。かなりスピードを落としている証拠だ。
    「それはええですけど、今日やなくても明日にすれば良かったんちゃうかなって。こんな悪天候で乗らんでも」
    『こんだけ降っとったら今日も明日も変わらんよ』
    「でも、大変やん。そんな、いつ着くかもわかれへん、トロトロ走りよるのに乗って。用事があるの明後日やろ?」
     のんびりと答える狂児に、聡実は眉を下げた。夕飯を作り気は一旦失せて、こたつに逆戻りした。布団を腹あたりまでかけて、どてらの紐を指先がいじる。仕事の所用は明後日と明々後日であったはずだ。前後はまるまる聡実のための空白日で、別に今日なにがなんでも東京に向かわねばならない理由はない。雪は深夜には止む予報で、明日の頃合いを見て移動しても、良かっただろうに。
    『トロトロて』狂児は小さく笑って、どこかのドアを開いた。弾く金属音と着火音が続いて、細い吐息が連なる。『まあ、動いてへんわけやないしな。遅なってまうけど、いずれは着くし』
    「そやけど……なんかでもそういうの、そわそわしませんか?」
    『そわそわ?』
    「なんやこう、焦れるというか」
     聡実は目を伏せた。予定通りでない、いつ着くかもわからないなんて、自分には耐えられない。いまの狂児の立ち位置にいたら、焦って苛々を募らせて、まだかまだかと待ち遠しい気持ちに煽られて、雪に怒って、とろい新幹線にも腹が立つ。暴れはしないものの、落ち着かない気分を内心に押し込めて、宥めながら過ごすだろう。考えただけでくたくたになりそうだ。だったらまだ、日をずらしてでも、はやく且つ想像通りの時間に着くものに乗りたい。
    『聡実くんは意外といらちのせっかちやもんなぁ』
    「……うるさいです」
     堪え性がない自覚はある。気恥ずかしくなって、つい尖った口調で返してしまった。狂児は気に留めず、平然とタバコをくゆらせて答える。低く穏やかで、甘やかな声音で。『聡実くん、俺はな、ご褒美あったらいくらでも待てるねん』
    「ご褒美」
    『そらなんもなかったら乗れへんで。せやけど今日は聡実くんに会えるご褒美があるやん。今日乗らんと、今日は会えへんやろ。明日やなくて俺は今日会いたいねん』
     とんとん、と灰をはらう音がする。吸って、ふう、と紫煙を吐いている。『せやから待てるよ。聡実くんに会うために待てる。トロットロ走る新幹線のことも許せる。はよ着かんかな~はよ会いたいわ~言いながら時間潰すのも、案外楽しめるで』
     ああでも明日まで待てへんのやから、俺もある意味せっかちか。聡実くんのこと言えへんね。言葉のわりに浮かれたように呟いて笑って、狂児はタバコを潰した。じゅ、と灰皿に押し付ける音がして、またドアの開閉音が鳴り、途切れていた走行音がまた現れる。
    『ちゅうか二ヶ月も会ってへんねんで。会いたくて会いたくて震える~っちゅうねん。一刻もはよ会いたいわ』
    「……オッサンの西野カナはきっついねんけど。聞くに耐えません」
    『いやんそう言わんで!』
     急に切り替わった茶化し声に返しつつ、聡実は机に突っ伏した。喜びたい気持ちと拗ねたい気分が、くちびるを勝手に尖らせて、たぶん顔より耳のほうへ赤みを強くさせている。
     はやく会いたいのは聡実も同じだ。だから今日向かってくれていることは嬉しい。自分が彼のご褒美であることも。
     その反面、狂児との人生経験の差のようなものも同時に感じた。二十五の歳の差は、時折こうして、まざまざと見せつけられる。さらりとためらいなく気持ちを声にふんだんに乗せてくちにできるところや、会えるまでのもどかしさを、上手に処理できるところ。いつ着くかわからない、焦燥に駆られそうななかで、プラスに切り替えて気持ちを育めるのは、やはり年の功のように思う。
     悔しい。僕もそうやって、狂児のこと待てるやろか。大阪に向かうときも、東京で出迎える日も。いつかは。いまはまだ、難しいかもしれないが。聡実は机にもたれたまま、ぽつぽつと言う。おとなしく待てるほうができずとも、せめて素直な感情をくちにするくらいは、できるだろう。
    「僕も、明日より今日に会いたい。……会いたくて会いたくて震えてるんは僕も同じです。いつ着くかわかれへんの、僕は余裕あれへんから、ジリジリしながらやけど、はよ来んかな~言いながら待つから、今日、ほんまに絶対来てください」

    四十三歳、冬、願うこと

     狂児がやっとのことで品川に着いたのは、日付はとっくに変わり、ほどなく深夜二時を迎える頃だった。新大阪から実に七時間近く、ふだんの倍以上かけての移動になった。蒲田までの公共交通機関は、当然もうない。狂児はちらほらと停まるタクシーに声をかけて乗り込んだ。
    「えーと、あ、蒲田までええですか」
     聡実宅の住所を言いかけて、教えたくなくて最寄駅を目指してもらう。運転手は一瞬顔を強張らせたが、了承して淡々としずしずと緩やかに、車を滑らせた。相槌しか打たず、どことなく緊迫感を漂わせる運転手に、「ゆっくりでええですから。こんなときにえらいすんません」と柔らかい声音を心がけて告げた。自分から、一般人らしからぬ威圧感が滲み出ているのはわかっている。仕事に関わりのないカタギと接するときは、なるべく抑え込んでいるものの、もう体臭のように、からだに染み込んでしまっているのだろう。こればっかりは、どうしようもない。
     狂児は黙って窓の外に目を遣った。大阪を出るときより、だいぶ落ち着いてきているように見える。記録的な大寒波、それに伴い全国的に降り続いた大雪は、夜も更けた頃合いになって、ようやく止む気配を見せた。とはいえ積もった雪が、夜明けにすぐ解けるわけではないから、明日は方々で復旧作業が余儀なくされるだろう。
     明日にしとったら、ほんまに来れへんかったかもしれん。狂児は一息吐いた。無理を押して今日乗って正解だった。聡実は随分気を揉んでいたようだけれど。新幹線のなかで交わした会話を脳裏が反芻する。
     恋人を待つ時間を、十八歳の恋人はとにかく焦れてたまらないと言った。――僕はおとなしく待てへんわ、雪なんかで遅れて気合足りひんやろって新幹線にすらもどかしなっていらいらしてまう気ぃする。欠点をくちにするように細々とこぼした声が蘇る。
     温厚に見えて苛烈な一面を持つ聡実は、待つのが不得意で我慢が苦手だった。意図せずして待たせた高校の三年間は、狂児を死んだことにしてやり過ごして、その反動か空港で再会したのち、二十歳まで待ちたいと呑気に言った狂児に、彼がキレて猛攻してきて、自分たちの関係は始まった。
     思い出すだけで昂りがやまず、口端が緩む。
     聡実は自身を堪え性がないわがままだと言うけれど、狂児だって大概だ。焦れているのを知りながら二十歳まで先延ばしにしたがったし、待ったり待たせたりする、苦手な我慢が付き纏う遠距離恋愛をさせて、聡実に無理を強いているわけで、相当にわがままだと思う。
     今日のこの行動だってそうだ。聡実に会いたくて、深夜になってでも今日のうちに聡実のところに行きたかった。仕事の所用しかなかったら、間違いなく明日か明後日の、通常運行するまで日をずらしただろう。聡実に会うために、今日会いたかったから、こんな深夜に押しかけては聡実もつらいだろうに、いつ着くかもわからないなか待つのは嫌だろうに、どうしたって今日から五日間分の滞在を、一日も減らしたくなかった。
     本来三十分程度で行く道を、一時間以上かけて、タクシーは聡実宅の最寄駅に辿り着いた。多めに支払って釣りを握らせ、狂児は雪のなかをさくさくと歩く。
     七時間のあいだ、タバコを吸ったり投資アプリを見たり、仕事のやり取りをしながら過ごした。頭のなかは始終ずっと、じりじりしながら待ちますと言った、聡実の照れ臭そうな声が鳴り響いていた。かわいい。ほんまにかわいい。まだかまだかとじりじりと焦れながら、きっと不機嫌になりながら、狂児を待っている。しんどい思いをさせる罪悪感は僅かで、それよりもいとおしさが上回ってたまらない。
     聡実のアパートに着いた頃、時刻は深夜三時をとうに回っていた。部屋の明かりは点いている。合鍵を差し込んで解錠し、狂児は静かに部屋に入った。ただいまぁ、と囁くように言って、靴を脱ぎワンルームを覗き込む。聡実はこたつに突っ伏して寝ていた。ノートパソコンは電源が入りっぱなしで文書ソフトを開いたまま、コーヒーと大学の資料が散らばっている。課題に手をつけながら、ぎりぎりまで粘って起きていてくれたのだろう。
     反対側に倒れる顔を覗くと、眼鏡をかけたまま、眉が寄っている。焦れて苛立った表情。それでも飽きずに、待っていてくれた証拠だ。いじらしいなあ。にやける口元をそのまま、狂児は自身のコートとジャケットを剥ぎ、ベルトを外し、ネクタイを解いてハンガーにかけた。靴下は洗濯カゴに放り、シャワーを拝借して足だけ洗っておく。
     部屋に戻り、かけたままだった聡実の眼鏡は外してやり、机に畳んで置いた。パソコンのディスプレイには、キーボードにねこが走ったような文字の羅列が写っている。ひとまず触らずに、別ファイル名で保存してソフトを閉じた。電源を切って画面を畳み、飲みかけのコーヒーはシンクに流し、カップはさっと洗って乾燥かごに入れておく。
     ベッドから毛布を引き抜いて、背中に羽織り、聡実を後ろから包むようにしてこたつに入る。「いっぱい待たしてごめんなあ」と起こさない程度の声量で囁いて、いとおしいつむじにキスを落とした。突っ伏すからだを自らのほうに抱き寄せ、ごろんと床に寝転がった。う、と聡実は呻くも、起きる様子はない。
     聡実は順応性の高い、名の通り聡い子だから、いつか待つことや待たせることにも慣れてしまうのかもしれない。苦しめるのは本意でないけれど、それとは別に、できればずっと、堪え性のないわがまま気質であってほしいと思う。「遅いねん」と開口一番に叱ってほしいし、のろい新幹線に「気張れや」と怒っていてほしい。
     こんな利己的な欲、聡実にしか抱かない。抱けない。ごめんな、と謝りながら、改める気はなく、同じ状況になったら、同じ行動をとり、聡実を焦らして待たせるだろう。
    「愛想つかさんとってね」
     リモコンで部屋の明かりを消し、狂児は毛布を引っ張ってかけ直す。髪に鼻先を突っ込んで、風呂には入ったらしい清潔な匂いを吸い込み、聡実の体温を抱きながら、目を閉じた。

    恋人写真

     明け方、ぱちりと目が覚めた聡実は、自らを軽く抱く腕を見遣り、その持ち主に目を向けた。珍しく、狂児はまだ眠っている。深く腹が上下して、すうすうと穏やかな寝息は途切れない。年末はヤクザもばたつくらしく、昨夜もかなり遅がけに来て、今晩には大阪に戻ると言っていた。隈がいつもより濃くなっている気がして、なるべく起こさないよう、聡実はゆっくりと起き上がる。
     ほんまにおるのになあ。イマジナリー彼氏にされてんで、狂児さん。昨日の会話を思い返して、閃いたフレーズに、我ながらちょっと笑ってしまう。

    「岡ってほんとに恋人いるの?」
     はじめに疑惑を持ちかけられたのは、いまから二年ほど前、聡実が大学一年次の冬だった。初々しかった大学生活にも慣れ、適度な手抜きを覚えだし、勉強、サークル、バイトに加えて、合コンや食事会の話が、格段に増え始めた。講義が始まる前に、そう口火を切ったこの友人も、春夏にしたら比でないほどに、女の子との出会いに注力している。
     聡実は入学時から、遠距離恋愛中の恋人がいると公言していたので、合コンとはほぼ無縁だった。けれど最近やたらと誘われるようになり、怪訝に思っていたのだが、どうやらその宣言自体、真偽を疑われているらしい。友人はまるで人類代表のような、意を決した面持ちで向かい合ってくる。
     またか。聡実はやや呆れた声で頷いた。
    「ほんまにおるよ」
    「えー、でも写真も一枚もないんだよな」
    「ないけど……なんで嘘やと思うん」
    「あんまり彼女の話聞かないし、合コン以外はわりと誘っても来てくれるじゃん」
     彼女ちゃうけど、とこころのなかで律儀に否定しつつ、聡実は答える。
    「相手大阪におるから、月に一回くらいしか会わへんもん。遠距離やって言わんかったっけ」
    「うーん……でもさあ」
     まだ言いよどむ友人に、聡実は眉をしかめる。
    「なに? みんなして。あんま疑われるんも気分悪いんやけど」
    「うーん……」友人は申し訳なさそうに眉を下げて、ほそぼそと続けた。「いや、ていうか。おまえ結構モテてるんだよ。正直言うと」
     友人曰く、入学当初から既に、聡実目当ての女子は多かったそうだ。やわらかい大阪弁がかわいい、らしい。一年を経てより増えて、合コンに誘うよう女子に圧力をかけられている、と友人は嘆いた。へえ、と聡実は適当に相槌を返した。まったく興味が湧かない。
    「岡は彼女いるからって言うんだけど、でも人物像がぜんぜん見えてこないし、ツーショとかもないんじゃん。インスタも食いもんの写真ばっかだし。恋人がいる感ないっていうか。なんかほんとにいるのかなって話になって」
     ごめん、と悄然と謝られて、聡実は溜息を吐いた。本人がいると明言しているのだから、信じてくれればいいのに。発言を疑われた時点でもう、彼女たちにいい印象が持てるはずがないのだが。頬杖をつき、「とにかくおるから。合コンは行けへんよ」と言い渡して、ちょうど教授が教壇に歩いてくる。始業のチャイムが講義室に鳴り響いた。
     このときはそれで話が済み、友人たちも以降は追及してこなかった。岡聡実には恋人がいる。宣言の効力は改めて発揮され、合コンのお誘いも恋の告白も無縁でいられた。が、二年を経て、再び疑惑が蘇ってしまった。今度は友人と、所属する音楽サークルの後輩たちの間である。
    「岡先輩、ほんとに付き合ってるひといるんですか?」
     時期も同じ、冬季休み前に行われた飲み会の最中だった。デジャブやな、と思いながら、聡実は「おるよ」と頷く。後輩は明らかに納得していない顔で、「でも写真も一枚もないんですよね」と追及してきた。いよいよ二年前と同じ流れだ。
    「インスタ食べ物ばっかりだし、恋人いる感がぜんぜんなくって」
    「はあ」
    「ほんとはいないんですよね?」
     上目遣いの視線に宿る意思を、二十歳を過ぎた聡実はもう正しく読み取れる。さて、どう答えるか。二年前は友人だったのできつめに言い返せたが、年下の女子相手にはさすがにためらった。けれど、相手は違えど、またしても狂児をイマジナリー狂児にされていることに少し腹は立つ。応えてあげる気になど当然ならず、どいつもこいつも、おるって言うたらおるんやわ。なんで勝手におらんことにすんねん。うーん、と悩む振りをして言いよどんだのち、「でも実際におるよ。信じてもらわんでもええけども」と結局辛辣な物言いになってしまった。


    「恋人がいる感ってなんやねんな」
     しょーもな。聡実はぼやき、気まぐれに枕元のスマートフォンを拾った。二年越しに二回も指摘されると、ちょっとは気にも留まって、インスタアプリを開く。インスタは高校時代、友人との付き合いで始めただけで、月に一度も開かないくらい疎遠だった。ときたま琴線に引っかかったものを投稿して、それがほぼ食事だっただけだ。友人のページもほぼ見ていない。
     検索ページを開き、『恋人 写真』で検索をかけてみる。ずらりと表示される画像は、距離の近いツーショット、腕を組み合うツーショット、たまに向かいに座る女性の首から下を収めた写真、ふたりが並んで座る背中を撮ったものがあり、また頬を擦り合わせて至近距離で撮ったツーショットには、「自慢のダァ♥」というコメントが添えられていた。ダァ……と脱力しながら見続けるなかには、キスシーンも紛れている。心底要らん……見たない……。深い溜息が漏れた。こんなものをひとに見せてなにが楽しいのか。狂児とこんな写真が撮れるだろうか、と考えて、一瞬で強く首を振った。無理だ。こっ恥ずかしさとアレルギーのような拒否反応で、腕が痒くなってくる。保存すらしておけない。こんな写真が自分のスマートフォンに入っているだけで、眠れなくなりそうだ。万一ひとに見られたら死ぬまで後悔する。インスタに掲載するなんてもってのほかで、そもそもネットの海に顔を掲載してしまえる気が知れない。この一枚で、ふたり分のあらゆる個人情報が辿れてしまうだろうに、とヤクザの教育をなんとなしに受けている聡実は思う。
     半ばぐったりしながらスクロールを続けていると、ちらほらと違うテイストの写真が混ざり始めた。揃いのカップを持って乾杯している手元、繋ぎ合っているふたり分の手、重なり合う手、薬指の指輪をカメラにかざす手。布団の上や、ソファの座面に置いたもの、何気ない日常の一角を切り取ったようなアングルで、手元だけにファインダーを合わせた写真が並んでいる。
     なんか、ええな。顔が並んどるのより、ずっと雰囲気があって。聡実は一枚一枚丹念に捲って眺め、自らの腹に載っかる左手を見遣る。
     聡実にとって、狂児の顔は正直、そう思い入れがない。圧は強いが彫りが深くて整っている男前だとはわかるし、顔だけを取っても上玉を捕まえたという自覚はある。でも顔よりも、好きなパーツはたくさんあった。たとえば心臓をまで震わせる低音のいい声、ひときわ出っ張った喉仏、よく動く眉毛、それから、優しくもひどくも振る舞える手。
     狂児はまだ起きない。よく眠っているので邪魔したくなくて、壊れ物でも扱うように、聡実は彼の左手を恐る恐る掬い上げてみる。
    「でか……」
     自分のものと比べると、見るからに一回りは差があった。背はかなり近付いたけれど、手はまったく届かなかった。大きい手だ。聡実の頭など一握りだろうから、頭を撫でられるたび、わしづかみにされてしまいそうな間隔に陥る。手のひらが大きくて、長い指は節張っていて、硬い質感の、男らしいかたちをしている。指の先には案外きれいに整えられた爪があり、皮膚は歳のせいかかさつきが目立つ。手の甲にはいくつか血管が浮き上がって、むにっと上から揉んでみた。柔らかい。
     対して聡実の手は、細いだけの指と、柔らかい手のひらでできている。指先には爪切りで切りっぱなしの深爪。血管はひとつも浮かばない、つるっとした肌の手の甲。若い手だ。
    「ぜんぜんちゃうな。僕のと」
     差異が悔しいような、おもしろいような、小さな笑みが口端からこぼれる。狂児は嫌がるけれど、聡実はこういう、彼との年の差を実感する部分を見つけるのが好きだった。もちろん100%いい気分というわけではないし、二十五年分追いつけない歯痒さに身悶えることもあるけれど、付き合いが二年にもなると、それが逆にいいスパイスになった。変えられない現実を思い知って、その上にある、危うげと盤石の二律背反な自分たちの幸福と恋と愛を噛み締める。
    「まだ起きんとってくださいよ……」囁くように祈って、聡実は左手でスマートフォンのカメラを起動させた。だらりと垂れる手の、五指の間に自身の指を差し込み、軽く握る。身を捩って、真上からのアングルで一枚。違う角度からもう一枚、シャッターを押す。カシャ、と音が静けさの部屋に大きく響いてしまった。起きたやろか。そっと振り向いて確認するが、まだ目は閉じている。なんだか心配になるくらいの熟睡ぶりだが、都合がいいので放っておいて、聡実は早速写真を確認した。手だけで、しっかりいちゃついている。ええかも、と仄かに体温が上がった気がする。自分たちのことに、はたから口出しされるのは甚だ不服だけれど、疑われるのももう癪だ。たまには世間のふつうに乗っかってみるのもいいかもしれない。せっかく、いい写真も撮れたのだ。
     サイズと色調だけ補正して、再びインスタアプリに戻り投稿しかけたものの、一応狂児に許可を貰ってからにしようと立ち止まった。手とはいえ、からだの一部を勝手に人目に晒すのは、抵抗があった。書きかけの記事を下書き保存しながら、ああ、これか、とふと慮る。世の恋人たちのあの写真群や、居た堪れないコメントたちは、いい風にうまく撮れたので、見せびらかしたくて勢いで投稿されているものも、少なからずあるのかもしれない。
    「……なにしてんの」
     くぐもった声が隣から届く。やっと目を覚ましたらしい男は、じっと繋がれた手を凝視していた。
    「おはよう狂児さん。よう寝よったね」
    「さすがに疲れとったんやな……」大きなあくびを挟み、「で、なにしとったの? 俺の手で遊んどるん?」
     聡実は親指の腹で狂児の人差し指の付け根を撫でる。ちゃうよ、と握る指をぱたぱたと動かす。ごきげんやね、と狂児が笑っている。うん。頷く。名残惜しくも手を解き、代わりに向き合うようにもう一度からだを横たえ、見て、とスマートフォンの写真をかざした。



     後日、岡聡実のインスタグラムには、珍しく食べ物以外の写真が投稿された。布団の上で恋人繋ぎを披露する、手だけのツーショットには、一言だけ書き添えられている。――僕と、僕の。

    恋人写真2

     革靴とスニーカー、アタッシュケースとバックパック、ロングコートとマウンテンパーカー、スラックスとジーパン、手、足、爪、腕、靴下、コーヒーカップ、箸、シャツ。ソファで膝を抱えて、スマートフォンで写真を一枚一枚めくっていると、隣に座って覗き込んでくる気配がある。
    「俺も見たいなぁ」
    「はい。どうぞ」
     テーブルにコーヒーを用意してくれた礼を言って、聡実は狂児の肩に身を寄せた。ひとりで見るより、テンポを少しゆっくりにして、写真をスライドさせる。腕時計、スーツとネクタイ、互いに宛てたメモ、眼鏡と老眼鏡。
     大学生の頃、恋人らしい写真を求めて、ふたりの手を撮ったものから始まった収集だった。互いの持ち物やからだの一部を、比較するように並べるようにして、聡実はスマートフォンカメラのシャッターを切った。
    「結構撮ってたんやなぁ」
    「自分でもびっくりしてます。アルバムにでもしよかな」
    「そんなんできんの」
    「写真屋さんにデータ送って、オリジナルのアルバムに製本してもらえるサービスがあるんです。友達に教えてもろて」
    「ほぉーん。世の中便利になったなぁ」
     狂児の左腕が聡実を囲い、おおきな手のひらが髪を撫でてくる。やさしい触り方。普段物の扱いが荒く、ゴンゴンガンガン音を立てるくせ、聡実にまつわるものに触れるときは、ひどく穏やかだ。ガラス或いは脆い精密機器に接するように、そうっと丁寧に、やわらかく触れてくる。まるで犬みたいだ、対象に応じて噛み方や顎のちからを調整する、賢明で大柄な犬。自分のちからをよくよく理解して制御している、聡実はそういう狂児の一挙一投足から愛を読み取って、ますます彼をいとおしく感じた。
    「こうやって見ると、狂児さんほんまでっかい。僕だいぶ届いたつもりやったんけど」
    「悔しい?」
    「ちょっと」
    「はは。俺は抜かれんくってちょっとほっとしてるわ」こめかみにキスが降る。聡実は恨みがましく睨みつけ、「ほんまむかつく」と太ももをぺしんと叩いた。
    「いつか抜かしたりますよ。僕まだ食欲旺盛やから、伸びるかもしれんし、狂児さん年食って背骨曲がって低なるかもしれんし」
    「いやんそんなヤクザかっこ悪いやん」
    「人類みな通る道です。諦めてください。そうなったら僕が手ぇ引いて歩いたりますね。きょうじいちゃんこっちやでー言うて」
     きょうじいちゃんて。くつくつと喉を鳴らして笑い、狂児は肩を撫でるように抱いてくる。
    「それはそれで楽しみやけど、まだまだジジイにはなりません!」空いた腕でぐっとちからこぶを作って、狂児の長い指が、画面をとんと指す。食卓の一枚が映った。「けどほんまによう食うもんな。ごはん茶碗がどんぶりやん。俺成長期んときでもそんな食うたかな」
     茶碗に盛ったごはん、取り分けたおかずの量、ポタージュ缶とカフェオレ、お茶と熱燗、コーヒーとジュース、特大パフェとプリン。
     写真はふたりで過ごす日々が重なるたびに増えていく。容量が容量なので、機種変更するごとにクラウドサービスにアップロードしてある。にも関わらず、結局聡実は新しい端末にも全写真をダウンロードしていた。いまどき早々ないけれど、ネット環境になくても、見られるようにしておきたかった。
     やがて直近で撮った写真が表示された。玄関に並ぶ磨かれた革靴ふたつ、贈り合ったばかりの、ゴールドとシルバー絡まったサイズ違いの指輪がふたつ。フォトスタジオで撮ったタキシードのふたりと、袴姿のふたり。人間のツーショットが追加されるのははじめてだった。
    「キリのいいとこで……せやな、十年に一回アルバム作ろかな」
    「ええね。いっぱい撮らなな」
    「うん」
     先ほど撮ってもらったこの写真を見返すついでに、ついはじまりの写真から見返してしまった。興に乗った勢いで、指先が滑りカメラを起動させる。
     十八歳の頃、恥ずかしくて撮られへんと呆れた写真を思い出す。あれはあれで、思い出に残したいワンシーンだったのだろうか。外に見せびらかしはしないけれど、自分の端末に保存しておくくらいは、いいかと思えるようになってきた。これも思い出の一幕やもんな。それに撮らずに惜しむより、撮って後悔するほうが、いい。
    「ほんなら区切りの記念に、まずは一枚増やしませんか」
     出会って十一年、付き合って七年、揃いの指輪を交換して一週間と三日。入籍と挙式をしない代わりの、今日は婚姻写真の撮影だった。
     聡実は渇いたいとしい頬にくちづけながら、腕を伸ばし、ふたりにスマートフォンのカメラを向けた。

    ハートちゃんの逆襲

     岡家の年越しは、紅白、ゆく年くる年、母の趣味によりジャニーズカウントダウンライブ、続いてCDTVのメドレーである。
     その電話が鳴ったのは、ジャニーズにチャンネルが切り替わり、年越し間際のカウントダウンが始まった頃だった。スマートフォンが軽やかな着信音で揺れて、聡実は表示された名前を見遣る。しばらく仕事が立て込んで忙しい、と言っていたのに。そっと席を立ち、自室だった部屋の戸を締めて通話ボタンを押した。
    「もしもし? 狂児さんどないしたんですか」
     応答がない。代わりに、背後で大音量の音楽が鳴り響き、クラッカーの発破音と、「ハッピーニューイヤー!」と騒ぎ立てるひとびとの声が聞こえる。自分の家でも、リビングで母が観ているテレビの歓声が、耳に届いてきた。ああ、いま年が変わったのか。お年玉のためだろう、さとみー、と母が呼んだが、電話しとる! と返して再び電話の向こうに耳を傾けた。
    『…………なんでしゃ、さろみくんのこえがすんねん』
     やっと狂児が応えた。いつもの張りはまったくなく、低くなりすぎて掠れている。少しの風で吹き飛んでしまいそうに、よたついてへろへろして弱った声音だった。呂律もうまく回っていなくて聞き取りづらい。さろみくんて誰、と聡実は呆れ気味に返した。「自分でかけてきたんやんか」
    『えー……そうなん? わからん……おれかけたか?』
    「うん。ねえ、もしかして酔うてはります?」
    『わからんけど、あたまいたくてつくえひえとってきもちええよ』
    「酔うてるな。いまどこにおるんですか?」
    『んー……みせ』
     それはわかる。背後の喧騒から鑑みれば、クラブかスナックかだろう。音楽もひとの声もはっきり明瞭に聞こえてくるので、狂児は裏のスタッフルームではなく、店内で潰れているようだ。スピーカーフォンにしているのか、喋る声が机に反響してくぐもって聞こえる。しかし、外や人前で泥酔した醜態を見せるのも珍しい。
     下戸であることを、狂児は隠している。組の人間を含めても、ほんの一握りの人間にしか明かしていないらしい。ヤクザ稼業は常に食うか食われるかの弱肉強食社会、どんな些細な弱みも文字通り命取りになった。仕事柄、飲酒の機会は多々あるが、組お抱えや息のかかった店であれば、水に近いほど薄めて出してもらえるため、接待や他者との会合は、自分のテリトリーで催すよう誘導して、うまく酒をまいていた。最近は車で来ていることを断り文句にして、「自分の車ひとに乗らせたないんです」や「ひとの車に乗るのも苦手で」と車好きを嘯いてごまかしている。
     ただ当然、毎度毎度回避できるはずもない。年末年始は特に、飲酒を免れない機会が重なった。たとえば経営する店で、上客や太客による忘年会の二次会として予約が連なっている。年末最後の挨拶、オーナーが乾杯に混じらないわけにはいかない。ましてやすっぽかすこともできない。来年もどうぞご贔屓に、と挨拶がてら、オーナー自らすべてのテーブルでお酌をして、お返しにご相伴に預かる。見た目が酒飲みに映るからか、ウイスキーやら焼酎やら熱燗やら、強い酒ばかり出てきたときもあった。年始早々に開かれる祭林組の親団体での会合は、日本酒をわんこそばのように出されるし、組の集まりは集まりで、ビールやらハイボールやらが飛び交う。年末年始ほんま地獄、ほんまもんの地獄のがまだましかもしれん、と嘆いていたのを、聡実は思い出した。
     狂児は舌足らずの声のまま、ぼそぼそと続けた。『ここあにきのみせ。おれ下戸なんバレてんねん』
    「ほななんで飲みはったんですか」
    『おれのんだのみずやもん。はきそう』
    「水ちゃうやん」
     推測するに、水だと思って口にしたものが酒だったのだろう。見間違えたとしたら、大方日本酒か焼酎あたりか。よりのよって度数の高い酒を飲んだようだ。
    「ひとりなんですか? 誰かに介抱してもろたら」
    『あにきときてん……あれ、あにきどこ?』起き上がったのか、声が少し遠くなった。
    「いや知らん」
    『そのへんにおらん?』
    「僕に訊かんでください」
    『しゃろみくんもさがしてくれへん……ほんまげろはきそう。でもおれはくのへたやからはきたない』
     現地におらんのにどう探すねん。まともなやり取りは期待できそうになく、アニキとやらは近くにいないようだ。下手でもなんでも一回出したほうが楽になるだろうし、とりあえずがんばって自力でトイレにでも行って、すっきりしてきたらいいのに。言いかけたところで、アニキ捜索を断念した狂児は机に寝転んだ。ごとん、と重いものが落ちて呻き声が鳴り、次いでまた話し始める。
    『ひゃろみく』聞こえた呼び名は、原型が失われつつあった。席を立つつもりも、電話を切る気配もないので、聡実は壁に背を預けて座り、腰を据える。
    『ひゃろみく、どこにおる?』
    「家です」
    『あけましておめでとう』
    「……おめでとうございます」
    『おれいちばんのり? あいさつしたんはじめて?』
    「うん」
     はは、と嬉しそうな声。会話に脈絡がない。ちょっと、かわいい、と思う。自損事故とはいえ、下戸なのに強い酒に翻弄されて、苦しそうで不憫だと憐れむ反面、聡実の内心には泥酔する姿へのときめきも息づき始めている。狂児には可哀想だけれど、できるだけ長く味わいたくなってきた。十四の頃から彼に片恋慕し続けている聡実にとっては、二度とないチャンスに見えていた。普段では絶対に見聞きできない姿であり、組の人間にすら気を張ってひた隠す弱点を、こちらに晒している事実。
     聡実は僅かに息苦しくなる心臓のあたりを撫でた。二年間膨張し続ける期待が、ますます肥えていくのがわかる。狂児が、聡実を特別に想ってくれているのでは、という期待が。
     空港で再会したあの日からずっと、会うたびに期待は成長の一途を辿っている。三年半も経ってから会いに来てくれたこと、会いたかったよと応えた声の甘いこと、腕に聡実の名前を彫ったこと、仕事のついででもわざわざ東京に来て会っていってくれること、隣に座ると必ず囲うように背中に腕を回してくること、いとおしげな視線のこと、新年の挨拶が一番乗りだったからって喜んでくれること。すべてが期待を育む栄養素だった。僕のこと、好きなんかな。特別な意味で。勘繰って、期待して、脈拍がやかましくなった。
     けれど、期待したところで一度も成就していないのだから、嫌気がさすことだってたくさんあった。もう嫌や。なんも考えたくない。狂児もこちらの情動を煽るような行動をやめてくれたらいいのに、と恨みがましく睨みたくもなる。でも指摘して実際にやめられたら、きっと落ち込むだけでは済まないだろう。
     恋心も期待も、理性の苦渋とは反対にすくすくとふくよかになっていった。狂児は「好きだ」と明確にしなかっただけで、ほんとうは聡実に恋愛感情を抱いているのではないだろうか。遠回しに、これは告白をされているのではないのだろうか。「僕のこと、どう思ってますか」と長らく訊いてみたいと願いつつ、否定されたあとが怖くて口にできない。
     いまだって、違和感なく尋ねられる絶好の機会だった。僕のことどう思ってはりますか。どうしていま電話かけてきたんですか。どうしていちばん乗りで挨拶が交わせたからってそんなに嬉しいんですか。でも、結局言いよどんでしまって、聡実は口を閉ざした。元来はっきり自己が自立している性格だ、そんなたった一言が言えない自分にジレンマが芽生えて、より悲しくなる。
    『ひゃろみくー、あんなぁ』狂児の声が、間延びしていく。
    『おれことしはでっかいほうふがあんねん。きいて』
    「へえ。なんですか?」
    『おれはな、ことしこそ、いうねん』
    「なにを」
    『……さとみくんにいうねん』
     少しの間ののちの宣言は、いままでのふらつきを一蹴し、真摯で明瞭な滑舌だった。背後のBGMに紛れてもおかしくない声量なのに、耳はこの一言だけを拾い上げた。他の誰にも聞かせない、聡実だけに誓うような低い囁き。え。不意打ちを食らったように、聡実は目を真ん丸にする。どくり、と大きく心臓が一鳴きして、期待が一気に膨らんで破裂しそうだ。思わず背を伸ばして座り直し、万が一にも心臓が飛び出さないよう胸の上を手で押さえ、「なにを」と繰り返した。
    「なにを。僕に、言いたいんですか」
    『…………』
    「狂児さん? ねえ。ちょっと」
     焦る聡実に反して、やがて聞こえてきたのは静かな寝息だった。思わず、クソ、と品のない舌打ちがこぼれた。スマートフォンを投げ飛ばしたくなる衝動を、握りしめて必死に堪える。これだから酔っ払いは。
     振り回された。この数分がばからしくなって、聡実は深い溜息を吐いた。このまま寝かしておけば、アニキとやらがどこにいるか知らないが、そのうち見つけて回収してくれるだろう。念の為、「切りますよ。おやすみなさい」と呟いて、画面の終話ボタンに指を伸ばしたときだった。
    『――お、おった。おーい狂児、寝んなやーおまえ重いねんから』別の男の声が入ってきた。腹式呼吸していそうな圧と張りのある低音、狂児とはまた違った趣の声質だ。中学三年の夏の記憶が不意によぎる。カチコミしたスナックカツ子で聴いた覚えがある気もする。誰も厳しい顔の男ばかりで、名乗られもしなかったから、誰かはわからない。アニキとやらだろうか。男は机のスマートフォンに気付き、手に取ったようだ。気配が近くなる。
    『なんや電話しよったんか? もしもーし、すんませんけど狂児寝よったで』
    「知ってます。僕もう切るんで」
     答えると、男は『誰や』と訝しんだ。兄貴分だとしたら狂児の交友関係に詳しいだろうし、聞き覚えがない声だったのかもしれない。相手を確認するためか、どこかのボタンを押したらしい。そうして。
    『あ、ハートちゃんやんけ!』と歓声をあげた。
     なに?
    『ハートちゃんと喋っとったんか。待て待て切んなや。こっちはおまえでひと勝負しとるやつがおんねん』
    「はあ? あの、あなたは誰ですか。祭林組のひとですか? 狂児のアニキのひと?」
     頭のなかは困惑がひしめいている。ハートちゃんってなに。勝負とはどういうこと。思わす聡実は語気を強くして、畳み掛けるように訊き返した。向こうは一瞬逡巡してから、『……もしかして聡実センセか?』と静かに問うてくる。首肯すると、苦笑いで応えられた。
    『やっぱりかあ。こりゃ賭けにならんな』
    「あの、どういうことですか。僕でなにか賭け事してはるんですか?」
     男は声音を明るく切り替えて、小林と名乗ってくれた。名前に聞き覚えがあった。ヤマハの音楽教室に通っていた、やはり狂児の兄貴分だ。
    『狂児が嫌がるなあ……まあええか』
     小林は少し迷いながらも、聡実の疑問に丁寧に答えを教えてくれた。『狂児のラインになあ、ハートの記号で登録されてる子ぉがおんねん』
     組の事務所に詰めているときに、そのハートの子からラインが届いた日があった。机に放られていた狂児のスマートフォンが光り、気なしに覗いた若頭が「おまえイロおんの」と問うた。「イロなんて下品な言い方せんで」狂児はすぐさま否定して、「ハートちゃんは俺の大事な大事な恋人やもん」と告げた。画面を撫でて見つめる顔は、いつもの薄笑いと違い、ハートの子への感情が如実に現れていた。目を伏せ、声に甘みを纏わせ、頬に赤味が仄かに上っている。
     激震が走った。偶然にも、その場にいた全員、新人時代からの狂児の変遷を知る古株連中である。感情の発露が異様に薄く、元ヒモのわりに女にたいした興味も持たず、特定のイロも作らずに飄々と生きていた男が、とうとう落ちた。誰や。どんな子なんや。質問攻めしても、狂児は仔細を答えなかった。もたらされた情報は、年下、ドライでかわいい、目がきれい、以上である。
     狂児が席を外したすきに、誰かが「賭けへんか」と言い出した。狂児が夢中な”ハートちゃん”の正体について。ヤクザには、賭け事を好む輩が多い。全員が乗り気で、古株ばかりだったこともあり、そこそこ大きな金が賭けられた。
    『言うて、その場におったほぼ全員が聡実センセに賭けとったけどな。ひとりだけアホな博打するのが好きなやつがおって、そいつが別の子ぉに賭けよってん。アイツ大損や、ハハハ』
    「……なんかすみません。僕で」
    『謝らんでええよ。むしろ謝らないかんのは俺らの方やな。遊んでごめんな。賭け事のことはな、狂児も多分知らんはずやから、怒ったらんといてな』
     怒っていない。賭け事についてはなにも。聡実のなかを駆け巡る怒りの炎の対象は、まったく別の事柄だ。そもそもその賭け事は成立していない。根幹が違う。聡実は、狂児の恋人などではない。
     なにそれ。なに勝手に僕のこと恋人にしてんねや。握る手のひらのなかで、スマートフォンがみしみしと軋んでいる。胸を押さえていた手は、いまやなにかを殴りたい衝動を堪えるべく、血管が浮くほど力んでいた。僕が泣きたいほど悩んでいた間に、なに勝手に恋人のふりしよんねん。ハートってなに。当然、聡実はラインを本名で登録している。わざわざ打ち替えなければ、狂児が意思を持って、手を加えない限り、アカウント名がハートになんてならない。
     他人にそうやって示す前に、まず相手にきちんと告げるべきではないのか。順番が違わないか。なぜなにも言ってくれなかったのか。自分のことを棚に上げて、責めたくなる。仕方がない。二十歳の若い自分より、経験値豊富はおとなが動いてくれなくてどうするのか。まさかあんな、刺青を見せたり、「ほんまは会いたかったよ」と甘い言葉を囁いただけで、告白を達成させていたわけでもあるまい。
     いやそんなん言葉足らずにもほどがあるやろ。好きなら好きって言ってくれなわからんやん。聡実は歯を噛み締めた。やはり、言いよどんでいる場合ではなかった。もっと自分の気性に素直に、自ら積極的に行くべきだった。二年も無駄にした。
     小林は、狂児をマンションまで送り届けてくれるらしかった。聡実は「お願いします」と頼み、ようやく長い電話を切った。それから立ち上がり、アプリで最寄りのバス停近辺にタクシーの配車の依頼をかけた。テレビを観ている母の背中に「出かけてくる」と告げる。
    「こんな時間に? 危ないやん」
    「友達が初詣行こ言うて誘ってくれてん。初日の出も見よかって。友達に車出してもらうから心配せんでええよ」
    「はー元気やなあ。気ぃつけてね」
     お年玉を受け取り、聡実は素早く身支度を整えて外に出た。タクシーに乗り込み、狂児宅に向かってもらう。
     窓に頭を預けて、冷たいガラスで火照る熱を冷やす。嘘を吐いて出かける罪悪感による高揚と、ふつふつと湧き上がる怒りと、限界以上に育ちきった期待で、頭がおかしくなりそうだ。狂児のアホ、おまえのせいや。悪態を内心で吐いて、聡実はおおきく深呼吸をこぼした。
     どうせ酔っ払って寝て気付かないだろうから、ベッドの隣に忍び込んでやろう。朝起きて、隣に聡実が眠っていたらどう思うだろう。驚くだろうか。「ハートちゃんです」と名乗ってやったら。狂児の発言が真実なら、飲酒の翌朝に彼は筆舌尽くしがたい二日酔いに苛まれるはずだ。鈍い頭痛が、輪をかけてひどくなるかもしれない。仕方がないから、懇切丁寧に介抱してやろうと思う。
     ゲロと一緒に本音も吐かしたるからな。覚えとれよドアホ。逃さへんで。聡実は息巻いて、まだ姿かたちも見えない狂児宅と、明日からの未来を、薔薇色に染まる瞳で睨めつけた。