ラヴ / 狂聡

20220723 issue

  • 好きの一歩
  • 43→(←)18
    聡実くんに元カノがいます
    モブ女性(ふたりとは無関係)が出てきます

  • いとしいとしというこころについて
  • 44(→)←19
    狂児の部下が出てきます

  • おしゃべり
  • 55(→)←30
    聡実くんは社会人
    聡実くんに元カノ・元カレがいます(ペッティングまで経験済)
    狂児が老眼鏡をかけています
    狂児が若頭に出世、組長は引退しています

    好きの一歩

    (前略)


    「俺は、聡実くんが、好きやねん。名前の字面やなく、きみが好き。一生好き」
     右腕の、ちょうど例の刺青が彫られた位置を撫で、狂児はセンテンスを区切り、明瞭に繰り返す。
    「好きって……どういう意味ですか」
     訊かなくたってわかる。ただ、確かめずにはいられなかった。彼の言葉で、はっきりと説いてもらわなければならない。
     ぼそぼそと動揺した問いへ、狂児は丁寧に答えを述べた。
    「いわゆるライクやなくてラブ、ってやつやな。ラブにもいろいろあるけど、俺のは下心のあるラブ」
     明確な恋を告げる声音は、気を張る様子もなく、フラットだ。世間話と同じ調子で言い、フレッシュを混ぜ入れたコーヒーを、息で冷まして、少しずつ啜る。ずず、と音が立つ。あつ、と眉をしかめて、飲みにくそうだ。そういえば三年半前も、夏なのにホットコーヒーを飲んでいた。熱い熱いと騒いで、苦労して飲み干していたと思う。熱いのが苦手ならアイスコーヒーにすればいいのに。どうでもいいアドバイスだけが浮かんでくる。
     手汗がひどくなってきた。手のひらには食い込む爪痕と、ちくちくとした痛みが残る。いま考えたいのはそんなことではなかった。けれど頭も口も、硬直してしまって、まるで動こうとしない。相槌すら打てない。
     狂児も口を閉ざして、ふたりのあいだには静けさが増した。ビル内に響く国内線発着陸のアナウンス、店内に流れるBGMとかすかな喧騒が、耳の端を掠めていく。
     やがて狂児が、「安心して」と息をついた。
    「返事はせんでええよ」
    「え?」
    「いきなりごめんな。悩ませてもうて。俺が言いたかっただけやねん」
     この恋は、一生ものになる。生まれてはじめて、コントロールができない感情を持った。次に聡実に会ったら、気持ちを隠せない。口にしなくても、目や声や仕草から、伝わってしまうだろう。狂児には確信があり、だったら好意をひた隠しにしたままでは、会い続けられない。やくざの自分と二度も縁が繋がるのは可哀想だが、万が一、奇跡的に再会が果たせて、聡実が会話に応じてくれたら、真っ先に告白する。気味悪がられたら二度と顔を見せない。一度目の別れのあとには、既に決意していた。
    「聡実くんとどうにかなろうなんて、ほんまに考えてへんよ。かと言って、自分のこと好きなおっさんと会うのもしんどいやろ」
     語る表情は、妙にすっきりしている。狂児は目を伏せ、コーヒーにまだ息を吹きかける。
    「キモかったら言うて。そしたら俺は俺を、聡実くんから遠ざける。二度と会わん」
    「キモくなんかないです」
     聡実は食い気味に答えた。「遠ざけんでええから」
    「……ありがとう」
     勢いに目を丸くした狂児は、ほっと肩を撫で下ろした。一呼吸分空けて、「なあほんまにサンドイッチいらん?」と明るく訊いてくる。普段の陽気を気取ったトーン、この話は終わりのようだ。
     聡実は「食えへんなら頼むなや」と叱り、仕方なく一切れを受け取った。一口頬張る。味覚が鈍い。せっかく作ってもらったが、味がわからないまま、強引に溜息と一緒に飲み込んだ。
     ランチを済ませたあと、ふたりは羽田空港に隣接するモノレールの駅で解散した。狂児はこの先の移動をレンタカーで行い、駅の最寄り店舗で車両を予約してあるらしい。
    「またね、聡実くん」
     手を振る狂児に会釈を返して、聡実は改札をくぐる。振り向かない背中を、見えなくなるまで、ふたつの瞳が追い続けてくる。服を通り越して皮膚が焦げそうなほど、熱のこもった視線だった。
     ああ、ほんまに狂児さん、僕のこと好きなんや。他人事のように、聡実は思った。


     はじめてのひとり暮らしに選んだアパートは、京浜東北線の最寄り駅から、徒歩で十五分ほどかかる立地にある。家賃の安さを優先した結果だった。高校時代の通学も、同じだけ毎日歩いていたので、苦ではない。
     駅前の不動産屋に寄って鍵を受け取り、聡実はアパートに向かった。十九時に兄と約束があり、その前に通販で購入した寝具だけ受け取っておかねばならない。本格的な引っ越し作業は明日、兄が手伝ってくれることになっている。その礼に、今晩の夕飯を奢る予定だ。
     真新しい鍵で玄関を開き、一歩入る。締め切られた室内は蒸して、いぐさの匂いが強く鼻先を掠めた。まずは窓を全開にして、空気を入れ換える。
     ここが僕の住む街、僕の住むアパート。まったくの新しい環境に、本来はなにかしらの感慨が湧いてくるものだ。けれどいまの聡実の胸中は、たったひとりの男の存在が、おおいに占めている。
    「なんなん、ほんま」
     吐き捨てて、窓枠を掴む手が力み、軋む。外に投げた瞳が険しくなる。
     なんやねん、自分だけ。言いたいことを言いきって楽になって。あの場では整理のつかなかった感情たちが、やっとひとつに収斂していく。なんなん。腹が立つ。
     確かにすぐに返事はできなかった。愛想もなく黙り込んで態度はよくなかった。でも仕方ないじゃないか。長く音信不通だった相手が急に会いにきて、距離を詰められ、右腕に彫った聡実の名前を大事そうに愛でている。聡実を特別視している本音が、終始あからさまだった。かけられる声、触れる仕草、浮かべる表情。向けられるすべてで、会った瞬間から、狂児は本人の自覚通り、聡実への恋心を告白し続けていた。
     あの夏のときと、ぜんぜん違う。
     三年半前は得体のしれない作り笑いばかり見せて、内心のひとつも読ませなかったのに。あの剥き出しかた。ずっと丸見えだった。
     狂児の実年齢は知らないが、三十代後半か四十近くか。とにかく酸いも甘いも経験豊富なおとなで、まして元ヒモでやくざの幹部。感情の機微が希薄、もしくはコントロールに長けている。
     そんな男が、扱いきれない恋慕を聡実に抱いている。それがいちばん聡実を穿ち、思考をパニックに陥れた。
    「はあ」膝にちからが入らなくなって、聡実はぐったりとしゃがみ込んだ。俯いて垂れた前髪を、両手でくしゃりと掴む。脳裏をよぎるのは、十四歳の頃からこのこころを掴んで離さない、男の表情だ。
     狂児は〝返事はしなくていい〟と断言し、〝言いたいだけ〟だと繋げた。驚く聡実を鑑みての気遣いだ、と思いたかった。
     たぶん、本心だった。
     僕の気持ちはいらへんのか。一方通行のまんまが、狂児さんはええんかな。そんなん、そんなん言われてしもたら、僕、余計になんも言われへん。
     僕かて、……僕かて、狂児のことが好きなのに。


    (後略)

    いとしいとしというこころについて

     関西空港での再会を経て、狂児と聡実は月に一度ほど、定期的に顔を合わせている。狂児が蒲田近郊に店を構えたため、東京へコンスタントに出張する機会が生まれたことがおおきい。出張日程はほぼ自分に裁量で調整できるため、聡実のスケジュールの空きに合わせられた。とはいえ長々と滞在はできず、大概は彼の夜勤明けに朝食をともにして、別れる。一時間足らずの短時間、それだけでも充分満たされて、会うペースは崩したくなかった。
     二十五も歳の離れた男の子なのに、聡実との空間は、他の誰と過ごすより居心地がいい。会話はもちろん、話す彼の声色や、表情の微細な変化を眺めることは、ここ最近でひときわ楽しい趣味だった。
     再会後、あっという間に一年が過ぎ、再び春の季節が訪れた。桜が街を彩る早朝、まだ肌寒さが残る、やわらかい日差しの下。狂児は聡実と蒲田駅で待ち合わせ、朝食を摂るべく喫茶店へ向けて、線路沿いを並んで歩いていた。住宅街を抜けていく道は、時間帯も相俟って人気が少なく、時折電車が隣を通り過ぎるくらいで、心地のいい静けさが支配している。
     嵐は突然やってきた。
     何気ない話題、普段と変わらない態度で、接していただけだった。どこが臨界点だったのか、思いだそうとしても思いだせない。不可視の一線を踏み越えてしまった、なにかが決壊したことだけ、瞬時に感じ取れた。
     足が止まる。聡実くん。声をかける前に、聡実はこちらを振り返った。
    「僕、狂児さんが好きなんです」
     顔色は血の気が引いて蒼白、からだの横で握った拳は、指が手のひらに食い込んで軋む。「せやからそういう、やさしくされんの、期待してまうから、やめてください」
     怯えた視線で、けして逸らさずに狂児を見据える。振り絞って発された声は、可哀想なくらいに震えている。
     好き。俺のことを? 奇遇やなあ、俺も聡実くんのこと好きやで。浮かんだなにもかもを、安易に口にしてはいけないことだけは、わかった。少しでも茶化したら、彼の張り詰める糸は、容易く切れそうだ。
     どうしよう。どう答えてあげたらいい。狂児は戸惑った。はやくなにか言わないと。聡実の緊迫につられて焦りが募る。咄嗟に使い古された常套句がまろび出た。
    「ごめん……気付かへんくって。無神経やった」
     失策だった。すぐに悟った。聡実はくちびるを噛んで俯く。すん、と鼻を啜る音を聞いて、気がついた。そうか。謝ったら、彼と同じ気持ちが自分にないことの証左になってしまう。
     狂児は冷や汗が滲むほどの不安に苛まれた。かつてかたぎであった時代の記憶がまざまざとよぎる。告白してきた女たちは、断ったあと、距離を置いたり疎遠になる者が多かった。友人であった女とは連絡が途絶え、バイト先の先輩は退職して行方をくらませた。
     聡実くんとも、このまま会えへんくなってまうのかな。俺がこのまま断ったら、どっか姿消してまうんか。
     それはあかん。耐えがたい焦燥に掻き立てられる。絶対に無理だ。狂児は一歩距離を詰め、笑顔を繕って、早口で捲し立てた。
    「俺はその、近所の仲良いおっちゃんみたいなさ。そういう立場で、聡実くんとこれからも会いたいんやけど。あかんかな」
     聡実がますます俯いて、二度目の失敗を悟った。少し考えればわかることだ。こんな台詞、恋人にはなれないと脈のなさを提示しているだけではないか。
     ドアホ。こんなにも自分は、言葉が下手だったか。焦りが増して頭を抱えたくなった。
     やはり会えなくなってしまうのか。嫌や、せっかく再会できたのに。子どものように喚く心臓のざわつきを聞きながら、狂児は一縷の望みを賭けて、聡実の答えを待った。
     やがて、顔が持ち上がる。くちびるに笑みを滲ませた聡実は、ちいさく頷いた。
    「……そんなん、僕こそ願ったり叶ったりです。ありがとうございます」
     ――狂児は以降、一度も聡実と目を合わせられなかった。合いそうになるたび何度も躱して、互いのあいだの空気が一瞬凍り、慌てて冗談でほぐす。その繰り返しだった。自ら頼んだのだから、いままで通りの態度を貫くべきなのに、無意識にからだが彼を避けた。
     見たくなかった。聡実の顔を。怖くて仕方がなくて、見られなかった。
     たったひとつの表情が、脳裏に貼りついたまま離れない。四十数年の人生で、かつてない不安が、狂児のなかにこびりつく。
     ありがとう、と浮かべられた笑み。下手くそに持ち上がって震える口端、赤くなった鼻先、細められた双眸は、涙の膜が張り、ゆらゆらと潤む。
     聡実は泣いていた。深く傷ついていた。狂児のせいで。


    (後略)

    おしゃべり

     八月のカラオケ大会が近く、指導を仰ぎたいとして、今日は八時間フリータイムでの拘束を言い渡された。と言っても狂児から事前説明は一切なく、店員が復唱した予約内容を聞いて、聡実は今日のスケジュールをはじめて知った。八時間。一日のおよそ四分の一である。思わずぎょっと狂児を睨んだ。おい聞いてへんぞ。彼はしれっと流して、「合うてます~」と受付を進めている。
     カラオケに八時間。そんな練習してどないすんねん。五十五歳、元気すぎひん。呆れる聡実に、「歌ヘタ王になりたないもん。しばらくサボっててん、がんばって練習せな」と鼻歌混じりに狂児は返した。
    「ほんまに歌ヘタ王回避する気あるんですか?」
     腕時計を見遣る。入室して間もなく一時間ちょっと。四曲を聴き終えたところで、聡実は冷徹に言い放った。ぜんっぜんあかんわ。
    「好きな歌と得意な歌はちゃうって何遍言うたらわかんねん」
    「裏声使たらいける思てん」
    「狂児さんの裏声は役に立ちませんので、いい加減高い音程の歌諦めてくださいよ、ほんまに。僕同じこと何遍も言いたないんですけど」
     元の低さに加えて、歳を重ねて声が出にくくなっているのに、狂児はやたらと中音から高音域の歌を選びたがる。好みの曲の系統のようだが、彼の声質には微塵も合わない。組のカラオケ大会は歌唱の出来を競う場、コンクールだ。選曲基準は好き嫌いでなく、いかにうまく歌えるか、でなくてはならない。
     聡実の厳しい説教を、狂児は肩を落として粛々と受け止めている。よくよく聞くと、用意してきた歌のなかに、低音域のものも一応いくつかあるらしい。
    「暗かったりテンポが難しかったりなんよなあ。それやったら声張り上げたほうが、よう聞こえるんちゃうか思てんけど」
    「甘いですね。ちゃんと歌いこなせてへんと、勢いでどうにかしよ、てナメた態度、組長にすぐ見抜かれますよ。僕なら即刺青彫ります」
    「ううん……ほな、低い歌がんばってみるから、どれがええか聴いてくれる?」
     危機感が湧いてきたのか、狂児は真剣な眼差しでデンモクを操作し始めた。
     それから早十分。一向に曲は始まらない。退屈になってきて、聡実が頬杖をつき、レモンサワーを啜ると、すぐさま「お行儀悪いで!」とお叱りの声が飛んできた。めざと。ええからさっさと探せっちゅうねん。返事はせずに、姿勢だけ正して再びグラスを傾ける。
    「聡実くんが素行の悪い子ぉになってしもた」
    「うるさいな。大体、とっくに成人した男に〝子〟はやめてくださいよ」
    「俺からしたらずっと〝子〟や」
     再び視線はデンモクへ下ろされた。
     いつまで子ども扱いしよんねん。僕、もう三十やで。悪態はこころのなかに留めて、表にださない分別だってできるのに。いくつ年を取っても、彼のなかの自分は、ちっとも成長しない。
     狂児は五十五になり、聡実は今年で三十路に突入した。職場では長のつく肩書をもらい、ふたりの部下がついた。名実ともにおとなになった。
     出会った頃に比べたら、随分と歳を取ったと思う。お互いに。狂児は文字を読む都度老眼鏡をかけるし、聡実はおとなしくなった。些細なことで怒らなくなった。逐一ささくれ立つのをやめて、不満を唱えず、現状に甘んじることが増えた。
     二十代の頃だったら、八時間もカラオケの個室でふたりきりの状況を、平然と耐えられなかった。どきどきして、その感情を自分だけが抱えているむなしさに堪えきれずに、落ち着きをなくしただろう。焦って、若さゆえの無謀さで、告げてしまったかもしれない。聡実が唯一、強固な意志を持って、狂児に隠している秘密を。
     目の前にいる、アラ還間近の男。祭林組若頭・成田狂児。
     このおっさんに、聡実は片想いし続けている。
     今年で十六年。出会った十四歳の夏から、こころは彼に奪われたまま返ってこない。

    (後略)