10 / CP不定・狂聡狂
20230212 issue
「どっかで食べて帰るか」
現在二十時四十三分。腕時計を一瞥し、聡実は独りごちた。少しずつスピードを落とす新幹線は、しばらくしたら新大阪駅に到着する。
二月に入り、冬は一層深くなった。冷たい寒波を全国にもたらしている。今日の大阪は最低気温がマイナスを下回り、車内は暖房が効いているが、一歩外に出たら極寒だろう。想像して早くも身震いしながら、荷物棚に置いたコートを拾い、袖を通し、マフラーで首元を覆った。
一泊二日で東京での経済法律セミナーに参加した帰りだった。真っ直ぐに乗り換えれば、自宅までは十五分程度で辿り着けるが、腹が減っている。家にはなにもない、買いものと自炊する気力もない。ちょっと酒を入れたい気分でもある。構内で済ませてから、帰ることに決めた。
降りる支度を整えて、聡実は降車口の近くにもたれる。……そういえば、久しぶりに、狂児のことなんか考えたな。窓越しに真冬の夜空を芒洋と覗きながら、内心でぼやく。
きっとこいつのせいだ。無意識に、右手が左手首の時計を撫でる。十年前に押しつけられ、終ぞ返せなかった狂児の時計。昨日からやむを得ず身につけている。
昨日の朝出かける直前に、普段使いの時計が壊れていることに気付いた。単なる電池切れではなく、修理が必要な故障だった。まずい。替えは持っていない。セミナー会場では、電子機器使用は原則禁止されている。スマートフォンは開けないが、時間が確認できないのは困る。
考えた末、あの時計の存在を思いだした。連絡が途絶えて以降、見るのも嫌で奥底にしまいこんでいた。引っ張りだしてみたら、なんと寸分の狂いなく動いている。どうしようか。でももうこの場は、こいつに頼るしかない。しかたがなく、昨日今日と腕に巻くことにしたのだった。
到着間際のアナウンスが流れ、乗客たちが後ろに連なっていく。聡実は袖を捲り、顕わになった時計を睨め付けた。
連絡がつかなくなった当時は、消化しきれなかった怒りで、何度も大泣きした。いつもいつも、どうして自分との関係を諦めるのか。どうして勝手にいなくなるのか。
ふたりの関係を、狂児が一方通行にしたがった理由が、年齢差と、とりわけ互いの立場の違い――やくざと法学部の学生である事実であることは、本人が言わずとも明白だった。しかし十代の聡実にとっては瑣末な問題であり、そもそも腕に名前を彫ってまで、彼は会いに来たのだ。狂児がやくざで、聡実が一般人なのは、出会った瞬間から変わらない。なにを今更怖気付くのか、当時はまるで理解できなかった。
十年が過ぎ、それなりに歳を重ねてみれば、あのとき見えなかったものも、いくらか見えてくる。
十八歳だった聡実は、自分自身のことを「大人である」と捉えていた。二十五歳離れていようが、お互いに大人同士なのだ。聡実が狂児を選んだって、聡実の将来にはなんら影響はない。影響なんてださせない。それに付き合ったあとにどうなったって自己責任じゃないか、と本気で思っていた。
その考えこそが、子どもじみて甘い。
十代と四十代では、同じ成人であろうとおおきな隔たりがある。二十八歳の聡実ですら、十八歳の子をもし好きになったとして、恋人の座は到底望まない。いくら相手の子がよくても、世間はふたりを異型だと判断する。非難は年上の自分にほぼ集中するにしても、それでも100%ではない。冷たく穿った社会の目に、若い相手だって晒され、容赦なくいたぶられる。
加えて自分たちには、やくざと法学部生という相容れない肩書があった。もしもバレたら、前科一犯の若頭補佐と知りながら、深い関係になった学生に、果たして未来を選択できる余地は、与えてもらえるのか。
狂児はやくざのわりに、社会常識をまっとうに持ち、生真面目な節があった。楽観的だった聡実と違い、様々な可能性に思慮を張り巡らせていただろう。
十八歳と四十三歳の恋愛が、成就するはずがなかったのだ。
新幹線がホームに到着し、聡実はさっさと下車して改札口へ向かった。昼食は摂ったものの、同じテーブルだった弁護士と話が盛り上がり、あまり食べた気分にならなかった。まあ、おかげでいい関係ができた。コネクションを広げておくことも、こういった場での業務のひとつだ。
その代わり、とにかく空腹だ。音が鳴りそうな腹に駆られ、聡実は足早に改札口を出ていった。ICカードを改札に滑らせ、ジャケットの内ポケットにしまう。
さて飲食店街はどこだったか。なにを食べようか。酒も飲みたいし、手早くたらふく満たしたい。
だとすると、串揚げか。酒のつまみにもなる。
思いついた途端、舌が串揚げの口になってしまった。串揚げがいい。食べたい。取り扱う居酒屋は、新大阪にも何店舗かある。
空いているどれかに入って、さっさと食べるとしよう。だが、構内図を探し、あたりを見渡した目が―不意に見つけたものに、聡実は足を地面に縫いつけられたように、動けなくなった。同時に、周囲に満ちていた雑多な気配が、突如一気に消え去った。平日の夜、ビジネスマンたちの人波に紛れていたはずなのに。まるで自分たちだけ、異世界に切り落とされたようだ。聡実の五感はいま、相対するたったひとりの男しか、捉えられなくなっている。
(以下略)
「聡実くんって、俺で童貞卒業した?」
成田狂児という男は、ひとの機微に非常に敏感である。天性の勘の良さが仕事で厳しく研鑽され、他人の表情や声、仕草から、ほぼ100%の高精度で思考や感情を読み取れた。その観察眼と巧みな話術を組み合わせてうまく使い、場の空気を読み掌握する芸当にも長けている。どんな不利な立場でも、商談を落としたことはなく、誰もが気付かぬ間に彼が全権を握っている。やくざ向きの、素晴らしいスペックである。
が、その能力は時折、ポンコツになるらしい。
「は?」
聡実が珍妙な質問をされたのは、付き合って十年を祝う夜だった。夜景が一望できる鉄板焼きレストランでディナーを食し、高級ホテルのスイートルームで、全身くまなく愛し合ったあとだ。
タオルとミネラルウォーターを取りに行き、ガウン姿の聡実はベッドに腰をかける。動き回れる余裕がある自分と違い、御年五十六歳のパートナーは、ぐったりとしてうつ伏せている。渡したミネラルウォーターを受けとった体勢で、礼に続いて訊いてきたのだ。
「突然なに?」
「ずっと気になっててんけど、訊きづらかってん。ほら、デリケートなとこやんか。嫌われたら嫌やな〜思て。でもほら、十年付き合うてくれたし、そろそろええんちゃうか~って」
ぺらぺらと茶化した口調でよく喋る。聡実の怪訝な視線を受けて、タイミングの失敗を悟り、焦っている証拠だ。
聡実は顰め面で低く吐き捨てた。
「狂児さんってほんまたまにデリカシーカスやな」
「カス! ひどいこと言うやん」
ようやく起き上がる体力が戻ってきたのか、よっこらせ、とベッドヘッドに背を預けている。
ひどいのはどっちやねん。聡実は口を結んでいっそう眉間に皺を寄せた。さしてイベントごとやアニバーサリーに興味がなく、朴念仁気味の自分でも思う。低レベルの下ネタだ。十年の恋仲を祝う甘やかな夜が、ぶち壊しではないか。
だがデリカシーカス男は侮蔑の視線にも負けない。水を二口飲んだのち、それで、と重ねて問うてくる。
なんでそんな気になるねん。まあ、どんな答えを求めているかは、大体察しはつく。
そんなに知りたいなら教えてやろう。聡実は溜息に次いで答えた。
「違います」
「え?」
「違います。別のひとです」
「え……ええ!?」
案の定ひっくり返った悲鳴を上げた狂児は、「誰?」と前のめりになる。ぐしゃっと音を立てたのはペットボトルか。中身の水がこぼれていなければいいが。心配しつつ、聡実は「高校時代の彼女」と淡白に言った。
彼女、と消え入りそうな声で反芻し、目をひん剥いたまま、狂児は再びベッドに沈み込んだ。丸まった背中の鶴は、凄まじい哀愁を漂わせている。
「そんな落ち込みます?」
「泣きそう」
と、ほんとうに泣きそうに萎れた声は、しかし質問を続けた。「ほな、おしりは?」
自分たちが想いを結んだのは、聡実が二十二歳の誕生日、入社式の夜だ。就職祝いになにがほしいかを尋ねられ、「狂児」と聡実が答えたことがきっかけだった。
互いの距離を絶妙に測りながら四年間続いたふたりの片想い。狂児はひとりよがりに満足していたようだが、聡実には耐えがたいストレスだった。性格上、曖昧な状態は好きではない。恋人になるのか、ならないのか、はっきりさせたい。
ほんとうは、子ども扱いされなくなったら動く算段だった。できるだけ対等に、彼に相応しいと思える自分になってから、彼を手に入れたかった。
けれど、二十五年の年齢差は一生埋まらない。聡実が思い描く〝対等〟になるには、長い時間を要する。要しすぎる。
それに狂児の『子ども扱い』は、聡実を特別視したひとつの愛情表現だ。大事にしたいがゆえの仕草であると、もうわかる。
だったらこれ以上、いまの状況下を我慢できそうにない。ひとまずは同じ社会人にはなれた。もういいだろう。言ってしまっても。
暗黙の了解で敷かれた境界線を越え、踏み込んできた聡実に、狂児はしばらく拒否反応を示した。聡実は怯まず、退かなかった。十四歳の胸に芽生えた恋心。前触れもなく、三年半も失踪されていた想いびとに再会し、名前を刻んだ腕を見せられ、挙げ句意味深な言葉を投げられてから四年。いかに胸のうちをぐちゃぐちゃに荒らされ、いかに侵食し、いかに育ち熟んでいるか。就活の最終面接よりも、数百倍も熱を込めて言葉を尽くし、見事口説き落としたのだった。
そう、聡実が十四歳から二十二歳まで、青春時代と呼ばれる――周囲で恋愛が横行し、初体験を済ませがちな時期に、ふたりはまだ恋人同士ではなかった。両片想いで停滞し、更に狂児は付き合う気すら途中までなかった。そのせいで聡実が苦悩していたことも、狂児は知っている。
気になるのだろう。聡実は真っ新な状態で、自身と付き合ったのか。それとも。
(以下略)