のろまなふたり / CP不定

/ 20221210

 スナックでの仕事を終えたあと、狂児は大概そのまま店のバックルームで朝を迎える。四十を過ぎたからだには、狭いソファでの睡眠はやや堪えるものの、起きて朝食を摂ったら、どうせすぐに大阪へ帰るのだ。たかだか数時間眠るためだけにホテルを使うのも、もったいない気がした。
 朝五時半、アラームが鳴れば、すんなりと目が覚める。加齢もあるだろうが、元来寝起きはいいほうだ。若干の倦怠感を残すからだを起こし、洗顔、歯磨き、髭剃りを済ませる。職業柄、身だしなみは常に隙なく整えられる準備は必須で、一式ビジネスバッグに忍ばせてある。ハンガーにかけておいた替えのシャツに袖を通す。ボタンを留めてネクタイを締め、スラックスを履いた。髪を梳き、ジャケットを羽織って、狂児は最後に鏡で全身を素早く確認する。とりわけ今朝は、大事な子との朝食である。
 店のシャッターを下ろし、施錠した。鍵をバッグのポケットに落とし、腕時計で時刻を調べる。七時少し前。約束の時間にはちょうどいい頃合いだ。
 そのまま空を見上げれば、十二月の柔らかい朝陽が照り、空を陽の光に染め上げている。まばゆさに狂児は目を細めた。脳裏は自然と彼を思いだしている。同時に、勝手に、全身が切り替わっていくように感じる。夜の仕事向きに貼り付けた皮が削ぎ落とされて、彼に会うための素顔が剥き出しになる。ひとつだけ、か細い息を落として、狂児は蒲田駅のほうへ足を向けた。
 待ち合わせ場所は、駅を挟んで反対側にある。暖簾をしまい、静かな飲み屋街を抜けて、ロータリーの交差点を渡った。始発はとっくに動いている。人気は少ないまでも、ちらほらと散見される。金曜の夜が明けた土曜の朝、酒を浴びて朝帰りをする者、夜に働いて帰路につく者、これから働きに出る者。すれ違いながら、蒲田駅構内を進み、階段を昇り、改札の前を通り過ぎる。閉まった花屋を無意識に一瞥して、あげたら喜ぶやろか、とふと考える。花に興味があるとは思えないし、食事に行くのに持って歩けないだろう。前を通るたび気を留めながら、結局買ったことはない。
 再び階段を使い、今度は降りていく。やがてドアから見える駅前広場へ、狂児は目を滑らせた。
 ――ああ、いる。ほんまに、座っている。
「聡実くん」
 自然と名前が口にのぼり、最後の一段を降りきった足が、ゆっくりと止まる。
 岡聡実くん。彼と待ち合わせるのももう何度目だろう。けしてはじめてではないのに、毎回待ち合わせ場所にいることに驚きを隠せない。彼の姿を見つけた途端、まるで幻覚に囚われた気分になって、からだはぴたりと動かなくなる。約束の時間は迫っていて、彼は目の前だ。あとはただドアを押し開いて、まっすぐ行くだけという段階になってから、いつもいつも、突然押し寄せてくる感情がある。
 なんで。
「なんでおるんかなあ……」
 襲いくる後悔の切れ端が、ぽつりと落ちた。そうだ、後悔。後悔してしまう。自分から誘っておいて、花をあげたら喜ぶかと夢見心地で足を運んだ先、いざ彼を視認するたび、血の気が少し下がって、夢から覚めるように後悔する。
 なんで来てしもたんやろうな。お互いに。理性の声がひときわ強く頭に響く。どんなものであれ、俺はきみと関係を持っていい立場ではない。公務員家庭に生まれて、法学部に通う青年の有望な未来に、一介のやくざの男の存在は、おおきな翳りになる。
 けれどそんな説法が効くのは一瞬だ。深呼吸をひとつ置いて、ようやっと狂児の足は動きだした。ドアを押し開き、ゆっくりと彼が座る木漏れ日のスツールまで近づいていく。
 常識以外のすべてがきみに会いたがって、機会を見つけるたびに、動いてしまう。そうしてきみは、その誘いに乗って、いちばん遠のかなくてはいけないやくざの約束を律儀に守ってくれる。あまつさえ、バイトをしていることを教え、会える時間まで調整してくれる。
 会う直前に、やはり常に反芻することがある。あそこで終わっておいたらよかったのか。出会った夏、最後の日。喉の潰れた声と幼い涙を捧げてもらったあのとき。関西空港で偶然再会して、耐えがたい衝動に駆られて、接触したのは、間違いだったのだろうか。
 あのときはもう一度だけでいいから、会いたいと思っていた。本音を言えば、狂児は聡実を好きだから、何度だって会いたかった。ふたりの立場を鑑みれば、望みすぎであるとわかっていたから、たった一度を叶えたかった。現実に、こんなに関係が続くとは思いもよらなかったのだ。
 狂児の願いだけではない。ふたりの時間の連続は、聡実の気持ちがあってはじめて、成立している。
 彼が十四歳だった夏とは、あきらかに違う。あの頃、ふたりが会うには、狂児が強引に彼の腕を引くだけでよかった。やくざの顔をちらつかせて、あるいは優しいおとなの素振りを見せて、子どもだった彼の心を掌握し、思うままに彼を動かすことができた。
 いまは違う。狂児は彼の前では素の姿を曝けだすことしかできず、会うことを強要だってしていない。聡実だって、もう狂児の強引な我儘をぶつけられたところで、聞きやしないだろう。
 聡実は狂児に会いたがってくれている。だから会い続けられていて、食事までともにできている。
 嬉しい反面、それはとてもおそろしい。
 狂児のような朴訥とした人間でも、欲がある。聡実に対しては、これまで生きてきたなかでも、もっとも強い欲を抱いている。空港で彼を見かけた瞬間に迸ったような衝動が、またからだを奪って、次の期待を叶えようと働いてしまいかねない。表向きに静けさを保っていたとしても、狂児の内心に潜む彼への恋は、ただ彼を見守るだけで満たされるものではない。
 会うだけ。話をするだけ。食事をするだけ。それ以上は絶対に求めない。立場をわきまえて、線をしっかりを引かなくてはならない。このままだって充分幸せで、夢のようだ。そうでなくてはならない。狂児がどれだけ苦しくなっても、適度な隔たりを敷いて、現状の間隔が、せめて会えるあいだ、続けられるように。
 好きになんかならなければよかった。こんなガキに、四十過ぎた男がなにやってんねん。後悔と侮蔑は、根本の感情にまで至る。でも。
「おはよう」
 俯くつむじに声をかける。薄茶色の瞳が狂児を見る。瞬間、心臓を素手で掴まれる感覚に陥る。何度も何度も、狂児は悟る。峻烈な恋はぶり返す。
 近づけないけれど、近づきたいから、精一杯靴先同士だけでも、触れ合わせた。
 

 ◇◆◇


 狂児は気を張らなくなった、と聡実は思う。以前はどこか一歩引いて、聡実の一挙手一投足、放った言葉ひとつに、こわごわと反応しているようだった。ここ数年は、隔たりはまだあるものの、肩のちからが抜けているように感じる。心境の変化でもあったのか。態度以外、別段なにが変わったとは言いがたいのだが。
 大学を卒業して早六年が経った。聡実は東京で就職し、変わらず蒲田のボロアパートに生活を置いている。兄や周囲の友人たちには引っ越しを進言されたが、壁の薄さも気にならなくなり、なによりあの低家賃に馴染んでしまうと、困っていないのに、移る気にならなかった。
 狂児との待ち合わせ場所も、十年間変わらず蒲田駅前の広場を使っている。いつからか約束を交わす際、場所は言わなくなった。日にちと時間だけ取り交わしている。訪れる店だって、駅周辺の徒歩圏内ばかりだ。十年毎月欠かさず食べているので、おそらく蒲田のグルメは制覇してしまっている。
 学生の頃は貧乏だったから、生活圏且つバイト先の最寄りで遊べて、移動費が浮いて助かった。狂児は狂児で、駅近郊にスナックを開いていた。ふたりが会うのは、彼がそのスナックのために上京する日、仕事の前後だったので、お互いに都合のいい土地でもあった。ただ。
「なんで蒲田なんやろ、いまだに」
 週末の土曜、ふと見遣った腕時計は、十一時二十分を指している。細い手首にはごつく見える、身の丈に合わない黒革ベルトの高級時計。ある日狂児がくれたものを、聡実は結局、メンテナンスしながら大事に身につけている。一度返そうとしたら、心底悲しげな顔をされて、返し損なってしまった。
 約束まであと十分。とろとろ歩いたって間に合う。十二月の冷たい風に身を震わせ、聡実は線路沿いの道を歩いていく。
 蒲田で会う理由も利便性も、とっくに失われている。聡実は就職して、学生時分に比べれば裕福になった電車賃をケチらずに生活できる。狂児は去年足抜けして無職、口座の獲得や就職を許されない、いわゆる五年縛りの真っ最中だ。蒲田のスナックは組の持ちものであったから、辞めたと同時に雇われオーナーの権利を失っている。
 が、スナックの件は、聡実が自分で確かめた。彼は「辞めるときにな、温情で譲ってもらってん」と宣ったのだ。せやから月に一度の上京は変わらへんよ、と。
 んなアホな。信じられなくて、聡実は彼に黙って直接店に訊きに行った。現オーナーの女が言うには、あの店は組長の旧い女が所持する土地で、組長自身も自由に扱えない。いくら狂児にも、譲り受ける権利は得られなかったそうだ。
「わざわざ東京に来てもらわんでも、ええのにな」
 僅かに確保できた貯金を元手に、知人のツテで始めた株で、食うには困らない、と狂児は言っていた。でも毎月、東京に来るのは、負担がおおきいだろう。ありもしない仕事のために。
 言い訳もなにもかも失っても、嘘まで吐いても、蒲田で会い、話し、食事をして別れる。頑なに蒲田で会い続けるふたりの関係は、長く停滞している。狂児が変化を望まないようであるし、聡実自身、その様子を受け、動く気も湧かず放っておいていた。会って元気な顔が見られれば、会話ができればそれだけで充分嬉しかった。
 ……でも、そろそろ飽きてきた。十年立ち止まり続けたのだ。そろそろ少しくらい変化を求めたっていいだろう。狂児が望まなくても、聡実は別の景色のなかに、ふたりの身を置いてみたくなった。その心境の変化には――きっと、バックパックに潜むものの影響もある。十年前、一方的に宣言したプレゼントの用意が、ようやく整った。とはいえいまはまだ渡せそうにないが、まずは動かない自分たちを、一歩だけでも踏みださせてみたくなったのだ。
 だってこの場に居続ける理由がない。聡実はもう学生でも子どもでもなく、大阪に住む狂児はやくざですらなくなり、蒲田での仕事はなくなった。蒲田はふたりの合流地点というお題目を失っている。仕事のついで、バイトの朝帰りに。あらゆる建前はことごとく瓦解している。もはやお互いに、ただ会いたい気持ちひとつで会っているだけであると、浮き彫りになってしまっているのに。現状にしがみつく必要が、どこにあるのか。
 フェンス越しに、線路がホームに繋がっていくのが見え、聡実は足を止めた。道路を挟んで反対側に、広場のタイルが広がっている。
 狂児は既に到着していた。木の幹を囲うスツールに、浅く腰掛けている。濃紺のダウンジャケットをきっちり締めて、ベージュのチノパンにスエードシューズ。足抜けした日を境に、私服で来るようになった。髪は緩くセットしてある。どこを見ているのか、ぼんやりと宙を仰いでいて、はたから見ても元やくざ幹部には見えない。
 聡実は再び歩み始めた。一大決心をしたわりには、足取りはとても軽い。俯いて本を開きだした狂児の目の前に立ち、とん、と靴先だけでまずは触れてみる。
「こんにちは」
 持ち上がった夜色の瞳が、やんわりととろけていく。こんにちは、と返る低い相槌。
「元気そうやな」
「うん」
「ほな、行こか」
 気持ちを言葉にして伝えるには、まだ難しい。それでも、まずはのんびりと立ち上がるその手を握ってみたら、狂児はどういう反応するだろう。
 狂児が聡実を好きであるように、聡実も狂児が好きだ。紛れもなく。忘れもしない、十四歳、六月の梅雨の合唱コンクール。あきらかに怪しい彼の誘いに乗ったあの瞬間から、十四年間これっぽっちも気持ちは変わらない。だからたぶん、これは一生ものなのだ。
 なあ、今度会うときは、僕がそっち行ったってええんやで。東京で会うにしたって、新宿行ったり、渋谷行ったり、してみませんか。場所はどこだっていい。
 僕はとにかくあなたが好きだからこそ会いたいのだ。