Funny Gold / CP不定

/ 20221210

 着信を知らせたスマートフォンを覗くと、一通のメッセージが届いていた。送信先を視認した瞬間、無意識に狂児の指はセキュリティーコードをタップして、ロックを解除する。『なりました。』という一言と、写真が一枚添付されている。ゴールド区分の聡実の免許証と、端に写る、ぼやけたふたつの指先は、ピースサインだろうか。
 いつの間に免許なんか取ってん。しかも色が、ゴールドだ。ということは、少なくとも取得後五年以上経っていることになる。
 なんで教えてくれへんの、という恨み言が脳裏を掠めて、すぐに狂児は鼻で笑った。教えてもらえるわけがないじゃないか。五年前に合格していたとしても。
 ――狂児が聡実との交流を一方的に絶ってから、もう十年経過している。
 十年ぶりに更新されたふたりきりのトークルーム。動揺で、キーの上の指が震える。返事を打ちあぐねている狂児をよそに、画面上では、聡実の声がぽつぽつと連なっていく。
『僕いま帰省で大阪におって』
『よかったらちょっとドライブしませんか。』
『ふたりで。』


 ◇◆◇


「お久しぶりです。老けたんちゃいます」
 二日後、十年ぶりに会った聡実は、変わりないようで、年月分以上に成熟したようだった。華奢だった体躯にはほどよく筋肉がついたらしい。薄手のセーターの袖は七分に捲られて、覗く二の腕に僅かな筋が浮いている。対して、分厚い眼鏡の奥、おおきな瞳の真っ直ぐさは、相変わらず躊躇いがない。じっと見透かすような視線は、狂児の胸を、容赦なく刺してくる。
「シワ増えた。白髪? 混じってる。ほんで痩せました?」
 時刻は夜二十時。待ち合わせた駅のロータリーに滑り込んできたのは、ダークブルーのコンパクトカーだった。実家の車で、本人は意外にも「広くておおきい車がよくて」SUVに乗っていると言う。メタリックカラーのエクストレイル。広くておおきい車。結婚でもしたのか。顔に出ていたのか、訊く前に「独身ですよ」と訂正された。曰く、免許を取り立ての頃、レンタルして友人たちとキャンプに行き、荷物がたくさん積めて便利だったので、自家用車にも同じ車種を選んだ。その友人連中とは、いまでも時折集まっているため、重宝しているようだ。
 ハザードランプを焚いて降りてきた聡実は、わざわざ助手席のドアを開けて、「どうぞ」と恭しく狂児に促してきた。十年ぶりの再会とは思えない、淡々とした態度だ。とはいえ口にはせず、素直に乗り込むと、車は緩やかに走りだす。それから、聡実が先に口を開いた。
 思えば十年前、ふたりの会話は常に狂児がボールを投げて始まっていた。リアルでも、通信上でも。彼から口火を切ること自体珍しい。長い付き合いでもはじめてではないだろうか。だからこそ、余計に、この再会の意味を勘繰りたくなる。
「そら俺も六十間近やからな。じじいやで。聡実くんはえらいおとなにならはって」
「僕も三十過ぎましたから。相応に年取りますよ」
 運転する横顔の輪郭は、昔に比べてシャープな印象を抱かせる。幼さを湛えた丸みが削がれて、スマートで隙がなくなった。
 二十代から三十代へ研鑽される変化。どうやって、年を重ねていったのだろう。見守る立場を、自らの手で捨てたのに、惜しみと寂しさが去来する。前を振り向くことで、狂児はいなした。
「今日はどこ連れてってくれるん」
「内緒です。言うて、そんな遠いとこちゃいますけど。……ああ、夜食べはりました? コンビニ寄りましょうか」
 お互い、夕食は既に済ませてあった。コンビニではふたり分のブラックコーヒーを買った。
 車はスムーズに街中を走り、やがて阪神高速に乗った。朝までに帰宅できれば、どこへ行ってもいいのだが、隠されると気になる性分だ。ちら、と案内標識を見る。ジャンクションを東船場のほうへ入っていく。たかだか市内を移動するためには、いまの時間に高速を使わないだろう。11号、池田線に行こうとしているとすれば、東大阪、奈良方面を目指しているのかもしれない。
 それにしても。狂児は再び、運転席を一瞥した。随分運転し慣れている。滑らかに踏み込まれるアクセル、話しながらでも崩れないハンドル捌き。操舵する左手首のスマートウォッチは、品のある、シックなブラックレザーのベルトで巻かれている。
 ふと、昔自分が押しつけたものを思いだした。会っているあいだは、渋々にもつけてくれていたのに。十年も放っておいたのだから、捨てられていたっておかしくない。当然だ。なのに、勝手な自我がかすかな感傷を呼び起こす。あれ、どうしたん。訊けやしない問いが、染み入るように膨らんでいく。
 知らん聡実くんや。胸の裡をよぎる漠然とした寂寞が、ますます強くなった。知らない。なにもかも。車を巧みに操る姿も、自分から会話を発信できるところも、食事の有無を気遣える仕草も、ブラックコーヒーを味わう表情も。
「免許、いつとったん」
「四年の秋。就職先に必要やったから、合宿で取りました」
「東京で就職したんやろ? 仕事に免許が要るって、珍しいな」
「よく車に乗る仕事なんです」
「へえ。出張かなんかで?」
「そんなとこです」
 聡実は相槌を打ち、少し間を空けてから、「調べてへんのや」とぽつりと言った。
「僕がどこに勤めてんのか、ほんまに知らんのやな」
 責める色はなかった。ただ思ったことを、聡実は口にしただけだ。わかっているのに、ナイフを突きつけられた気分になる。狂児は、ふっと笑みをおさめて、視線を走り去る景色のほうに逃した。
「……知らんなあ」
 返す声は、自覚できるくらいに低く素っ気ない。急に現実に引き戻す一手を穿つ、聡実の率直さ。変わっていない。少し憎たらしくなるくらいに。
 彼が四年生になり、最後の夏休みに入る前に、狂児は再び音信不通になった。蒲田のスナックの経営権利を同僚に譲渡し、東京に立ち寄ること自体をやめた。彼に関わる情報の一切を遮断した。徹底的に手を引いた。だから、聡実が最終的にどこに就職したのか、いま現在どこに住んでいるのかも、狂児はなにも知らない。知りたくなかったし、知ってはならないと思っていた。
 やくざなんて職に就きながら、狂児には人並みの常識と、情緒が備わっている。特に情緒は、聡実に対してだけは、どうにも敏感で脆かった。大事な子が、輝かしい未来の一歩を決める瞬間に、夜に棲む自分の存在が弊害になってはならない。関西空港で再会し、月に一度食事を交わすようになってすぐ、狂児はこの別れの方法も、タイミングも、決めていた。
 通告もなしに身を引くのは二度目だ。一度目で、散々彼を傷つけた悪手であるとは理解していた。でも、口でどう説いたところで、聡実は頑なに嫌がり、抗っただろう。交流を継続していたって、彼は彼の進みたい道を、確実に勝ち取ったに違いない。
 そうだ。ほんとうは彼のためなんかではない。狂児が勝手に想像して、勝手に生み出した恐れに、勝手に耐えきれなかっただけだ。
「怒ってるん」
 十秒にも満たない、僅かな沈黙も堪えられず、狂児は尋ねた。
 聡実は再び一呼吸分を置いて、「別に」と答える。
「怒るっていうか……読めてたんでその展開。やっぱりなって思いました」
「呆れた?」
「そっちのが近い」
 そう、とそつなく頷いて、狂児はヘッドレストにもたれた。呆れて、嫌われてしもたんかな。内心でちからなくぼやく。自分がしでかし望んだ結果であるのに、彼の答えにしっかり傷ついている。
 車は東大阪線を上り、石切方面に進んでいく。高速を降りて、夜の国道を、やはり生駒のほうに迷いなく向かう。何十年と帰っていないが、このあたりは生まれ故郷が近く、土地勘が充分にある。目的地は容易に予測できる。
 察した通り、聡実は阪奈道路を外れ、信貴生駒スカイラインを登り始めた。
「キャンプ行ったって言うたやないですか、さっき」
 LEDで照らしていても、十一月の夜、灯りの乏しい山道は見づらい。ブレーキがかかり、スピードが慎重になる。
「友達に、卒業旅行に行かへん? って誘われたんですよね。友人周りで免許とったん僕ともうひとりだけやったから、運転手要員やったんもあると思う」
「うん」
「僕、キャンプなんか興味なかってんけど、そういや誰かさんが、『山はええで』って言うてたな、思て。『今度連れてったるな』言われたわ、て」
「……うん」
「そんときにはもう、音信不通が始まっとったから、ああこら叶わん約束やったかってわかりました。でも、僕はその誰かさんのこと、当時ほんまにめちゃくちゃ好きやったから、好きなひとが好きなもん、一回くらい楽しんだほうがええかな、思て、行きました。
 そんで、友達と見事にハマって、いまはたまにソロキャン行ってます」
 しばしの沈黙が、ふたりのあいだに横たわる。十五分ほど登ったところで、フェンスに囲われた駐車場らしき広場が、右手に見えた。ウィンカーが灯り、車は右折していく。
「ここもそう。『帰省したときに連れてったる』て言われてたけど、そもそも大阪で一回も会われへんかった。……まあ僕と誰かさんは、付き合うてたわけでもなんでもなかったから、そんな口約束が守られようが破られようが、僕がなにか思う資格はないのかもしれませんけど……せやから自力で来たんです。道覚えるくらい」
 駐車場に車はなかった。四月は半ばを過ぎ、桜の季節は終わって、見下ろす山の木々は新緑へ衣替えの様相を見せている。デートスポットとしてはオフシーズンだ。平日の夜であることも含め、今夜の客は自分たちだけだろう。耳を澄ませても、ここを目指している走行音は見つからない。
 聡実は真っ直ぐ突っ込み、ハンドルを回して位置を調整し、枠内に駐車させた。
「何回目かで、僕かてもうここ常連なんやから、逆に僕が連れてったらええんちゃうか? て閃きました。そんで、今日実行しました」
 ハンドブレーキが引かれ、ギアがパーキングに入る。ライトが消えて、ブレーキペダルから足が離れ、聡実がこちらに向き直る。純然できれいな瞳は、屈託なく、逸らさないまま、本題をつまびらかにする。
「祭林組、畳むそうですね」
 狂児はぎょっと目を膨らませた。咄嗟に身構えきれず、顔にだしてしまった。
「……どこで聞いたん?」
 一呼吸を置いて、這うように問う。
 一昨日幹部会で確定し、昨日全組員を集め、沙汰を通達したばかりだ。縄張りについては譲渡先は既に決まっている。が、不要な騒ぎを抑止するためにも、すべての処理を終えるまでは、地元のマスコミにも報道規制をかけている。以前から匂わせてはあっても、関係各所への挨拶回りは明日からだ、一般人であるはずの聡実が、こんなことを知る術ない。
「組の方から聞いたんとちゃいますよ」
 聡実はおもむろにグローブボックスに手を伸ばし、手探りでなにかを取った。名刺ケースだ。黒革の、ささやかにブランドロゴが刻印されている。
「僕、ここに就職したんです」
 抜き出された一枚を、丁寧に差しだされる。狂児は受け取り――瞬間、心臓を鈍器で殴られた錯覚を起こした。間違いなくほんの数秒、息が止まった。息苦しさにくしゃりと名刺が潰れる。
 シンプルな名刺だった。所属、名前、肩書。それから中央上部に、金色に輝く旭日章。――警視庁 組織犯罪対策部 暴力団対策課 警部補 岡聡実。
「マツリの話は、一昨日大阪府警の先輩から聞きました。組長が調子ようないのも併せて」
 気遣わしいトーンを切り替え、聡実は継ぐ。「えらい嘆いてはりましたよ。地元に根張って、四代続いて立派やってんけど、世間の波には勝てへんかったか、ってえらい嘆いてはりましたよ」
 組と長年懇意にしている、あの年配刑事だろう。狂児が昔、傷害罪で実刑を喰らったときも、彼に自首しに行った。口汚いが世話焼きで、昔気質の出世欲のない男だ。特に仲が良かった、組長か小林あたりが、彼に伝えていてもおかしくはない。警視庁の聡実にも情報が回ったのは、マツリの絡む土地が東京にも点在しているからか。
 聡実と別離した十年間で、暴対法は再び改正、さらに暴力団は衰退の一途を辿った。くわえて海外マフィアが日本に進出、着実に勢力を伸ばし続け、大なり小なり多数の組が喰われていった。
 情報は正確だ。これまで荒波に耐えてきた祭林組も、いよいよ保たなくなってきた。そこに組長の大病が見つかり、代替わりのきっかけが持ち上がる。間の悪いことに、大阪で盤石になりつつあるアジア系マフィアが、こちらに手を伸ばしてきた。
 マフィアと日本のやくざは、本人たちにすれば、根本的に似て非なるものだ。簡単には迎合できない。自ら望んで、あるいはあえなくマフィアたちに身を賭したものもあれば、暴力団・任侠者としてのプライドを捨てきれず、喰われる前に解体の選択をするものもいる。祭林組は後者だった。やくざでなければ、マツリやない。組長以外についていく気もあれへん。それが、幹部・構成員の総意だった。
「組員は他の組に渡さず、全員真っ当な職に就けるまで、小林さんが面倒見るらしいですね」
「……聡実くん、ほんまよう知ってるなあ」
「狂児さんはどうするんですか」
「どうしよ〜かな。マフィアもええかな、て俺は思ててん。英語と中国語喋れるし」
「そうですか。ほな、選択肢のひとつとして聞いてほしいねんけど」
 茶化すようにして返す狂児に、聡実は真摯な態度を崩さない。
「僕のとこにきませんか」
 聡実くんのとこ。あっけに取られた狂児は目を丸くして反芻する。聡実は首肯し、『選択肢』の詳細を語った。
「五年間は正規就職できひんのやから、そのあいだ、僕の生活のフォローして。一緒には住まれへんし、報酬もだせへんけど、家と生活費は、いままで奢ってもらったお礼に僕だします」
「いや、そんなん」
「大阪におるより、離れた東京来たほうが、狂児さんの身も安心ちゃいます」
「そういう意味とちゃうねん」
「あげたかったプレゼント、ほんまは身請け金やってん」
 狂児は今度こそ口をつぐんだ。プレゼント。「まさか忘れてへんよな?」と聡実が訝しげに訊いてきた。
 忘れるか。悪態はつけず、視線で返すに留まった。忘れない。聡実の言葉はすべて、一言一句覚えている。
 十四年前、彼が十八歳の五月、早朝だった。お互いに夜勤明け、疲れたからだを引きずって、喫茶店で朝食を摂っている最中。いつになるかわからんけど、受け取って、僕のために。決意を孕んだ声も、薄茶色の透けた双眸も、食べていたカレーの味も、朝陽のまばゆさも、脳裏にはあの日の光景が、まざまざと反芻できる。受け取る努力をする、と自分が答えたことも。
「……受け取ろうとは、思ってたよ。ほんまに」
 口をついた弱々しい言い訳を、聡実は一笑に付した。信じてもらえていないような気がして、反駁しようとして、やめた。より信用をなくしそうに思えた。腿に肘をつき、組んだ拳に項垂れる。どんなに言葉を重ねても、狂児は受け取らずに逃げ切ろうとした。誠実さを欠いた。それが事実だ。
 聡実はじっと様子を眺めたのち、「わかってるよ」と頷いた。優しい声だった。
「でも身請けする前に、組なくなるし。めっちゃ貯めたのに。余ってしゃあない」
「他のことに使ったらええやん」
「狂児貯金を狂児以外に使いたない」
 きっぱりと言い切られる。狂児は深々と溜息を吐き、無意識に胸元のタバコに手を当てた。禁煙車だったことを思いだし、つむった目元が力む。
「警察官のきみのそばに、元やくざはあかんやろ」
「警察は警察でも、組対ですよ。やくざどころか、マフィアとつるんどるやつもおる」
「そういうの嫌やったんちゃうん」
「毒に毒を重ねて、ほしい結果が得られるなら、ええ。もう悩まんことにしました」
 ほらやっぱり。説明してもちっとも引かない。彼は彼の選んだ道を、自ら露を払ってとことん進む。十年前、聡実と離れたときに描いた予想図が見事的中し、狂児は苦々しく顔をしかめる。
「その助手席な」
 聡実は「シワ」と眉間に指した人差し指を、すっと下げて、座席を示した。
「……なに」
「僕の助手席に座った人間は、なんでか僕から離れられへん。大学時代の友達も、仕事の相棒も、異動先でもずっと同じ。相棒は本人望んでへんのに組対に辞令出てもうて、可哀想に。呪いやな」
 エンジンが切られた。しいんと耳を痛める静謐のなかで、聡実の声だけが響く。
「狂児さんも今日座ったから、呪われてしもたな。残念ながら」
 シートベルトを外し、聡実は目を伏せ、ちいさくくつくつと笑っている。
「でもまあ、返事は急がないので、ゆっくり考えて教えてください。僕は狂児さんの気持ち、ほんまのとこどうしたいかが聞きたい」
 こめかみに熱がのぼる。同時に喉が詰まる感覚がほとばしって、狂児はくちびるを噛んだ。押し込めたものの代わりに、「降りるん」と無愛想な一言がこぼれる、
「ここまで来たなら夜景見たいやん。狂児さんも降りるやろ?」
 僕行くで、と聡実は狂児を待たずに降りて、後部座席のコートを羽織った。すたすたとこちらを待つ気はなく、奥の展望台へ進んでいく。
 なんやねん。こういう大事な話は、夜景見ながらするんちゃうん。しかも先行ってしもて、相手を待って一緒に行くやろ、ふつう。思ってから、狂児はぐったりと背もたれにからだを預けた。違う。待ってくれてはいる。一緒に行こうとそばに立つのを待っていても、逃げられるし来ないから、先を行って、「ついて来い」と道を示し、こちらを見張って、手を差し伸べている。
 俺の気持ちが聞きたい、か。両手で顔を覆う。逃げることを封じられてしまった、と感じる。そもそも彼の助手席に座ってしまった以上、離れられない呪いがかけられた身に狂児はなった。選択肢はひとつしかないように見えるが、聡実は「選択肢のひとつ」として提示し、選べ、と言う。聡実の職業も、未来も、なにもかもを無視して、狂児がどうしたいか意思を聞きたい、と。
 くらげのように定着せず、嫌なことからは目を背けて、誰かやなにかに流されてきた人生、仕事以外での決断は不得意だ。この歳になって、苦手分野を突きつけられると、なかなか参る。
 ……でも、答えはおそらく出ているのだ。ただ、それを答えとしていいのか、自分が踏ん切りをつけられないだけで。聡実もきっと、それに気付いている。また来ないかもしれないのに、待ってくれている。手を掴まれても、掴まれなくても、素知らぬふりをして生きていく覚悟を持って。
「……降りる。降りるよ」
 誰へともなく、狂児はまた深い溜息を吐いた。意を決してシートベルトを外す。ジャケットを着込み、待ちくたびれている背中に向けて、走った。