きらきら / 狂聡狂

20211030

 狂児と聡実は、わぬを飼っている。わぬとは、わぬである。白い垂れ耳、ふかふかの毛並みと尻尾。口のなかには、ちいさくとも鋭い牙が並ぶ。主食はドッグフード。犬のように見えて、犬ではない。二足歩行ができ、お座りは腕で膝を抱える。鳴き声はワンワンやキャンキャン、バウワウでもなく、「わぬ」である。精密検査でもはっきりとした正体は不明で、ただ犬のルーツを組んでいることだけはわかった。病気になっても犬の薬、犬の治療法が適応できる。動物病院の医師は、わぬのレントゲンと血液成分を眺め、「まあそういう生き物も昨今珍しくないですからね」としみじみ言ったそうだ。それは嘘やろこんなんそうそうおるかいな。呆れて口につきかけたところで、語った聡実が、知らない世界もあるものですね、と納得していたので、「そうやなー」と飲み込んだ。
「わぬ、今日はご馳走やで」
 玄関の物音と気配に狂児が覗く。聡実とわぬが散歩から帰宅したところだった。散歩は一日交代制で、今日は聡実の当番日だった。かわりに狂児が食事を作る。ちなみに洗濯と掃除も同様に交代制だ。互いの負荷がおおきくなりすぎないよう、調整してやっている。
「わぬ?」
 ウェットティッシュで足を拭われているわぬは、下がり眉をより下げて、首を傾げている。聡実が「せやで、わぬびっくりするかも」と頬をほころばせた。
 今夜は宣言した通り、ただの夕飯ではない。人間たちはおかずを一品増やしたくらい、わぬには聡実が奮発した。いつもの三倍はするおやつを、ごはんの隣に盛ってある。犬用のケーキも用意した。なにせ今夜はわぬの記念日、わぬがふたりの住む家にやってきてちょうど一年の夜だ。
 ふたりがわぬを飼うに至ったきっかけは、聡実が狂児に送った一通のメッセージだった。
『狂児さん、犬アレルギーありますか。』
 意味がわからなかった。なんの脈絡もなく、突然送られてきたその一言に、狂児は疑問を抱きつつ、素直に『ないよ』と返した。次に受信したのは、『家のなかに動物がおるのは平気ですか』。直裁を好む聡実には珍しく、遠回りな会話を投げかけてくる。
 そのとき狂児は部下がハンドルを握る車中で、取引相手を待っている最中だった。真冬の夕方、空は既に暮れていて、少々の時間でも外に立っているのは、五十間近のからだには堪える。腕時計を一瞥すれば、約束の時間は近い。しばらくメッセージに反応できなくなる。
 狂児は待ちきれずに電話をかけた。聡実はすぐにでたが、声がひどく慌てている。
「なんか飼いたいん?」
 やさしく訊いた問いにも、『いや』とか『あの』とか辿々しく目を泳がせた。
 これはもしかしたら、やらかしたあとなんかもしれへんな。悟りに連なって、不意に十年以上前の記憶が蘇る。まだ彼が中学生だったときに、教えてくれた。
「仔犬がほしいんです」カラオケに行った帰路、歩道を散歩する犬を羨ましそうに眺める、おおきなアーモンドに似た瞳。家が団地やから、飼われへんのです、と変声前のソプラノヴォイスは惜しんだ。その澄み切って美しいソプラノの喉は狂児が奪い、あれから十一年経った。透明度を保ったまま成熟した喉は、電話の向こうで唸っている。
 一分近くかけて探した言葉は、ほぼほぼ狂児の想像通りだった。
『犬? 拾ってん』
 なんで疑問符がつくねん。犬は犬ちゃうんか。片眉を上げ訝しむ狂児の耳元に、元気よく『わぬ!』と鳴く声が届いた。
 わぬ。
 ……えらい妙な鳴き方やな。気になったが、運転席の部下が、来客を目で訴えてくる。一旦電話を切り、狂児はひとまず仕事を素早く終わらせることに専念した。
 果たして真っ直ぐ帰宅し、犬? らしき動物と対面して、確かに疑問符をつけたくなった。二足歩行、戸惑いに下がった眉、それからなぜか、おもちゃのマイクを握って、所在なげに聡実のそばに立っている。
「なにそのマイク」
「拾ったときに持っててん。大事なもんみたい」
 午後に外出の予定があり、帰社途中で見つけたそうだ。十月の終わり、秋と冬が交差する時期、夕方の時間帯でもほとんど陽が落ちきっている。人間たちがコートやマフラーで防寒するなか、仮称わぬ――名前がないのでひとまず仮称とする――は段ボール箱に身ひとつで捨てられていた。ビルの合間、それもエアコンの室外機の横に、影に隠れて見つかりにくいところに。長く置き去りにされていたのか、段ボールは経年劣化でボロボロ、わぬも痩せこけ薄汚れた姿だった。
 うわ、どないしよう。こういうときって警察? 保健所やろか。足を止め狼狽える聡実をじっと凝視する仮称わぬは、膝を抱えて座り込んだまま、マイクを口元に宛てがった。人目につかないところに放置された仮称わぬを聡実が見つけられたのは、メロディが耳に触れたからだ。弱々しい声の、仮称わぬが、誰かに自分に気付いてほしくて発していた、サイン。
「わぬ語でな、『きらきらぼし』うたってん。童謡の」
 聡実くんほんまお人好しやな。珍しく胸のうちにじんと響いた感動が、一瞬で現実に戻る。わぬ語ってなに。
「わぬわぬ鳴くやろ。わぬ語やないですか」
 聡実は瞑目し、仮称わぬの歌声を反芻して感じ入っている。そのまんま。まあ、ええわ。
「めっちゃ上手で、もう放っておけへん、てなってしもて」
 ちょうど定時を回った頃合いだったので、会社に直帰する報告をし、その足で聡実は近くの動物病院に駆け込んだ。幸い、仮称わぬに病気は見つからなかった。栄養失調の気があるくらいで、怪我もない。病院にはトリマーも併設されており、診察後きれいに洗ってもらった。本来の毛並みはふわふわした真っ白で、わぬも元に戻ることができ、ほっと一息吐いた様子だったと言う。
 ただ、それでめでたしめでたしとはならない。わぬが暮らす家を、探さねばならない。犬に酷似していても、仮称わぬは犬ではなく、動物病院に引き取り手の捜索を頼むことは困難だった。このままだと保健所行きになってしまう、と医師は残念そうに聡実に告げた。しばらくは保護されるだろうが、『ふつう』の犬ではないわぬに、果たして新しい家族は現れるだろうか。
 せっかく救った命、聡実がそんな結末を許すはずがない。うちなら壁わりと厚いし、アンプ遠さんかったらいくらでもうとてええし。決断し、急いでケージを用意して引き取り、狂児に電話をかけた、という次第だった。
 ソファに座って向かい合う聡実は、悄然と肩を落としている。年を経て丸くはなったけれど、時々顔を覗かせてくれる。一度感情のスイッチが入ると突っ走ってしまうチャームポイント。ここペット可やったっけ、とか、そんな簡単に命拾って世話できひんかったらどうするん、とか、注意の定型文が頭をよぎる。でも聡実は賢いから、狂児が帰るまでのあいだに、すべて、聡実は自分に叩きつけ責めているだろう。
 狂児はひとつ息を吐き、「名前つけてあげなな」と笑った。翌朝管理会社に問い合わせ、ペット可物件である確認ができた。間取りと駅近の立地だけで選んだ物件だったので、運が良かった。
 仮称わぬは、聡実に「わぬ」と名付けられ、語呂がいいからと成田の姓がつけられた。即決。なんの捻りもない。一分も悩まず、ほんとうにいいのか訊き直した。「いちばんわぬっぽいやろ」と自分の仕事に満足そうだ。他人からは逆の印象を持たれがちだが、案外聡実のほうが、自身の勘や感覚で物事を決める節がある。
 翌日再度病院を訪問し、医師に正式に飼うことを報告した。作られた診察券に書かれた『成田わぬ』をなぞり、聡実は面映そうにしていた。念願の、犬との暮らし。
 かくして、わぬは狂児と聡実の家族になったのである。



「僕らみたいやな、て思ったんです」
 膝で眠ってしまったわぬを撫でる手を止め、狂児は聡実を一瞥した。肩に頭を預けて寛ぐ彼は、わぬの額の毛先を指先で梳き、寝顔にくちびるをたわませている。
 わぬには誕生日がない。正確にはわからない。首輪もなにもついていなかった。だからせめて、出会った日を記念日として祝いたい。僕のエゴかもしれへんけど。聡実が言って、今夜の会を開いた。聡実の気持ちが伝わったのか、プレゼントも豪華なエサも、随分喜んでいたように思う。普段のおとなしい仏頂面が、目を輝かせて飛び跳ね、わぬ、わぬ、と鳴きながら、リビングをぐるぐると走り回っていた。ひとしきりはしゃいで疲れたのか、おもむろに狂児の膝に寝そべり、すぐにくうくう寝入ってしまった。
「僕らみたいって?」
 わぬ、と不満げに眉が寄り、狂児は撫でる手を再開した。毎晩ふたりと一匹で川の字になって寝るときも、わぬは狂児のそばに寄ってきて、撫でてほしいと訴えてくる。聡実の寝相が悪いのもあるが、随分懐いているようだ。
「わぬは他の犬とちゃうから、妙な生きものやって同じように見てもらえへんとこ。似てるなって思たんです。せやから余計、仲間意識みたいな、愛着湧いてしもたんかな」
 わぬに失礼やな。声を潜める聡実の肩を、狂児は抱き寄せて宥めた。あのときは、そういう心境になっても仕方がなかった。
 同棲生活は、聡実の就職後半年経ってようやく始まった。聡実の仕事が落ち着くのを待って、とは言い訳で、狂児の踏ん切りがつかなかった。その前年に若頭に就任したこともあり、もう何度目かの『聡実の人生を勝手に』憂うシーズンに入ってしまった。結局とっくに肝の据わっていた聡実からの熱烈なプロポーズに陥落し、聡実名義で借りたマンションで暮らすに至った。去年の十月の話だ。
 同棲するにあたり、互いの家族に紹介することにした。岡家には狂児がひたすら頭を下げた。前々から聡実が根回ししていたこともあり、なんとか和解に落ち着き、聡実と岡家の縁が切れる最悪の結果には至らなかった。時間はかかるが、いつか良好な関係になれそうな雰囲気に纏められたと思う。問題は、狂児のほうだ。
 成田家とは組に入って以来ほぼ絶縁状態にある。自分はともかく、聡実がひどい目に遭うのは耐えられない。「無理に会わんでええよ」とやんわり拒んだ狂児を見据え、聡実は告げた。「狂児さんが嫌やったらやめるけど、僕のことで不安なだけやったら会います。僕、そう簡単に傷つけへんよ。頑丈やねん」
 約三十年ぶりにかけた電話には、義理の姉がでた。兄の結婚式は欠席したので、姿も声も知らなかった。聞き覚えのない女の声から推察し、あとで答え合わせをしてわかったくらいだ。すぐに代わった兄は、まるで魔物と話している様子だった。狂児は大声を出したり、仕事の声を使ったわけでもないのに、怯えて、昔の張りのある長兄らしい強さは、まるでなかった。
 父は既に他界し、実家には長兄の家族と母とで同居しているらしかった。二十代でやくざになり勘当されたときは、荷物を取りに帰った玄関口で母に一方的に罵られただけで、父の死についても兄の結婚についても触れられなかった。狂児自身もう赤の他人として断絶するつもりで、家族の近況は敢えて探らず、なにも知らなかった。
「きみ、騙されてるんとちゃうか。こいつが、そういう仕事しとるの知っとるんやろ」
 当然だが家の敷居は跨がせてもらえず、八尾市内にあるレストランの個室で、母、兄、姉と相対した。聡実が挨拶をすると、兄が険しい顔で訊いた。
「お金に困ってるとかやないの。その、組に借金してる、とか。もっといいひと、おるやろに」
 姉が続けて問う。一瞥してきた視線はよそよそしい。「わたしが心配なん、岡さん、あなたのほうやわ。納得できひん。狂児はやくざなんやで。その……からだでお金貰てるとか、そういう状況なんやったら、助けてあげられるから」
 あまりの冒涜、ひどい印象に笑ってしまいそうだった。でも正しい。狂児は犯罪者で、そういう疑念を持たれてもやむを得ない職業に就いている。実際若い債務者を騙して、ある年老いた富豪と強引に婚姻させたことはあった。
 やっぱり会わせるんじゃなかった。深い後悔を隠して笑って聞き流した狂児に対し、聡実はけして揺るがなかった。
「騙されていません。狂児さんも僕を騙してなんていません。僕はからだを売ったりしていませんし、狂児さん以外にええひともおりません」
 しんと静かな声が、きっぱりと、部屋中に浸透するように響く。
「陳腐に聞こえるかもしれませんが」一度言葉を切り、聡実は続ける。「僕も狂児さんも、生半可な覚悟で付き合っていません。でなければわざわざ縁を断った家族に僕を会わせてくれるでしょうか。狂児さんが、嫌な思いをするだろうに」
 聡実のプロポーズを、狂児は二度断った。自分の生業が、いつか間違いなく聡実の人生の輝かしい邪魔をする。聞くに堪えない辛辣な台詞を投げつけられる。狂児のせいで。婚約なんてできるはずがない。突っぱねる狂児に、聡実は諦めずに粘った。――僕の人生、他の誰でもない、僕が輝かすねん。狂児さんは、僕と生きたいの、生きたないの、どちらかで選んでください。
「僕は本気で、狂児さんと人生をともにしたいと思って、ここにいます。それは狂児さんが僕に、命令したり、そうならざるを得ない環境に身を置かせたりしたからではないです。僕の道に、狂児さんは必要です。見た目はいびつかもしれへんですけど、僕には狂児さんがぴったりなんです」



 思いだして顰め面の聡実の眉を、狂児は指先で柔く揉んだ。
 口を噤んでしまった兄姉に代わり、沈黙していた母が口を開き、聡実に改めて気持ちと覚悟を問うた。滑らかに頑なな意思を繰り返す聡実に、母はちいさく息を落とした。縁が戻ることはないが、帰り際に「大事にしいや」と一言を託し、肩を思い切り叩かれた。若い頃より弱いちからで、けれど肌越しに伝わる痛みは、ずっと強かった。
「みんなとかたち違ても、僕は僕しか生きられへん。誰かになにか言われても変えられへん」
 ひとはよく、他人を典型に嵌めたがる。自分と違うものを素知らぬ顔で貶め、跳ね除け、強烈な拒否を示す。『ふつう』はひとによって意味や基準が違う、曖昧なラベリングだ。そんなもので価値を測るなんて、無駄でナンセンスだ。差別だなんだという話は、昔に比べればあまり表立って耳にしなくなった。けれど裏の世界からは、狂児には、見えている。『ふつう』でないから、奇異な目で見てもいい。なにをしてもいい。そう捉える連中は、少なからずいる。批判を受けるから隠蔽がうまくなっただけで、残念ながら、けしてゼロにはならない。
 けれど誰しもが結局のところ、自身特有の人生しか歩めない。人類、或いは日本に住むひとに限ったって、クローンのように100%同じ型に嵌っては生きられない。他人となにかが違うし、『ふつう』ではない。
 二十五歳の歳の差、祭林組若頭と企業法務部所属。狂児と聡実は、狂児と聡実だ。それ以外のなにものにもなれない。だから、世間を無視して、一緒に暮らしている。
「あ、寝言言うてる」
 聡実の言葉に狂児が視線を下ろすと、わぬの口元がもごもごと動いている。わぬ、わぬ、と掠れた鳴き声が紡ぐ音階は、聞き覚えがあった。懐かしい童謡だ。「きらきらぼし」。聡実と自分と、わぬを引き寄せた歌。
「かわいい」
「せやね」
 わぬも、犬でもなく人間でもない。けれど、一生懸命わぬを生きている。いつも眉が下がっていて、歌が好き。狂児の匂いと手と体温がお気に入りで、聡実と歌いながら行く散歩が楽しい。狂児が長く留守にするときは、聡実にくっついて過ごす寂しがりや。帰ってくると、ぎゅっと口を結んでいるのに、尻尾がぶるんぶるん揺れている。聡実の帰りを一緒に待つときは、玄関の向こうで足音がするたび、わぬ! と聡実の名を呼び、狂児の手を引っ張って出迎えに行こうとする。
 狂児と聡実は、わぬを飼っている。わぬとは、わぬである。かわいく大事な、ふたりの家族である。