いつだって僕のところにきてほしい / 狂聡狂

20201220

 十二月も下旬、世間は間もなく迎えるクリスマスを目掛けて、着々と準備を進めている。イルミネーションで街の夜を彩り、クリスマスソングが溢れて耳をつき、ケーキの予約が大々的に張り出され、サンタ帽を被るスタッフをそこここで見かける。街中が、浮かれた空気をぱんぱんに膨らませて、いまかいまかと待ち遠しくさざめいている。
 聡実もその流れに混じり、狂児へのクリスマスプレゼントを用意するべく、夜の銀座を歩いていた。向かうは大学生の身には分不相応な、ハイブランドの旗艦店である。財布にしまわれた四人の諭吉を、今夜ここで使う予定だ。
 目的地が近づくにつれ、からだの強張りがひどくなる。聡実はごくりと喉を鳴らした。四万円なんて高価な買い物をする緊張、……ではなく、念願が叶うかもしれない興奮を、飲み込んで宥めるためだ。なにせいまから、四万円もはたいて買うものは、クリスマスプレゼントではなく、それを包み隠すためだけの箱。ほんとうに贈りたいものは、別にある。
 前々から贈るものは決めてあった。いつまで経っても受け取ってもらえない、”とあるもの”がある。再会して一ヶ月ほど経った頃から、何度も渡そうとしているものだ。この機会に押し付けてやろうと、聡実は息巻いていた。
 狂児が本気で嫌がって受け取らないなら、ここまでの強硬手段は取らなかった。けれどいつも眉を下げて、断りながらも”それ”を見つめる目は、強い名残惜しさを孕んでいた。欲しいんやったら貰っとけばええねん。聡実は呆れているが、狂児は毎度断固拒否の姿勢を崩さない。
 彼が受け取らない理由は、なんとなく察しが付いている。聡実からすればしょうもない、くだらない理由だ。
 はじめて”あれ”を渡したときに断られたセリフが蘇る。――俺は見た目もまんまヤクザやから、二十五も上やし、聡実くんに迷惑かかったらあかんから。ちゃあんと弁えとるよ。
 はじめは腹が立ったが、よくよく観察すれば惜しそうな顔をしているし、言う声も芝居がかっている。本心からの言葉ではないことは明白だ。
 付き合い始めて八ヶ月、この件だけでなくとも、時折狂児はこういう態度や言動を取った。ふだんあれほど我儘で、自分勝手を振るう強引なこの男は、妙なところで萎縮して遠慮を見せる。急に良識あるおとななふりをする。聡実はその症状を、内心で”いつものアホ発作”と呼んでいる。
 だから正直そう重くも捉えず、果敢にチャレンジしているのだが、狂児も大概頑固なので、ちっとも諦めてくれない。どうしたら、彼の懐に、これを忍び込ませることが叶うだろうか。自他ともに認める頑固気質の聡実も、かなり躍起になっていた。
 考えを巡らせた結果、そうや騙したればええねん、と思いついた。目を惹く別のものを、表向きのプレゼントとして用意して、そこにこれを潜ませておく。要は渡せればいいのだ。あとはついでに、隠したものに気付かない間に、返品不可だと約束を取り交わしておけば、流石に突っ返さないだろう。のちのち一悶着起こるかもしれないが、そのときはそのときだ。卑怯だけれど、もうやむを得ない。素直に受け取らないのだから。
 聡実は早速、嘘のプレゼントを選定した。狂児の意識を奪うなら、高価なものがいいだろうと思った。学生が手を出しそうにないもの。どうせなら、四十路のヤクザ幹部、身分のいい男が持っていても遜色のないブランドがいい。イタリア製の高級スーツやシャネルの香り、ロレックスの腕時計に見劣りしないように。候補はいくつか見つかったが、選びきれない。聡実は悩んだ。好みを本人に聞いても無駄だろうし……。
 というのも、狂児は非常にものに無頓着で、好みがないのだ。以前、何気ない会話のなかで、好みの服の話になり、ファストブランドを挙げる聡実に対し、狂児は「なあんもないな。着れればええわ」と答えた。
 タバコの銘柄はともかく、衣服や小物に対してちっとも愛着がない。好きなブランドや、服や小物の嗜好も特にない。仕事着のスーツは、組に入ったときに組長とアニキが「おまえにぴったしや」と絶賛したブランドをずっと継続して買い続けているだけ、愛車であったセンチュリーも組長のお下がりだったそうだ。好きだったかと聞くと、特には、貰ったから乗っていただけ、と首を傾げた。言葉通り、いまは別の車種に乗り換えている。それも、「なんでもよかった」のでアニキに相談し、若頭補佐の肩書に恥じないものを選んでもらったそうだった。大阪の自宅ですら、ひとに薦められたままに契約している。
「なんやそれ、狂児さん、自分で好きで選んだもんなんもないやないですか」
『ないなあ。あんま興味ないねん。……あ、ひとつあるわ』
「なんですか?」
『聡実くん♡』
 ――やかましいわボケ。当時のやり取りが脳裏に反芻され、なんだか口のなかが苦くなってくる。聡実は眉をひそめて、地図をスライドする指が力んだ。やや強めのタッチに、とんとんと液晶の上で打音が鳴る。
 贈り物とは、少なからず贈った相手の思念が宿るものだ。そうも他人に貰ったり選んでもらったものばかりに囲まれて生活していると思うと、正直いい気持ちはしなかった。
 もういい。この際だ。値段がものの良し悪しを決めるとは思わないが、奮発しよう。そう決意してネットで調べ倒し、三ヶ月前からバイトのシフトを体力が保つ限界まで増やし、資金を貯めた。それが、いま財布で出番を待っている、四人の諭吉である。
 聡実は深呼吸を挟み、いよいよ一歩を踏み込んだ。自動ドアが開く。ダッフルコートにジーンズとスニーカー、いかにも学生丸出しの聡実を認めた女性は、一瞬目を丸くしたが、「いらっしゃいませ」とにこやかに表情を取り繕った。聡実は会釈して店内に入り、スマートフォンに表示した画像を見せる。
「すみません、これは置いてありますか」
「はい、ございますよ」
「ほんなら」一度言葉を切り、ポケットからいつまでも貰ってもらえない”あれ”を取り出す。さあ、やったるぞ。「これと一緒に包んでくれますか。サプライズでプレゼントしたいんです。……恋人に」


 ◇◆◇


 プレゼントに気合を入れておきながら、クリスマス当日は会う予定がなかった。クリスマスから年始にかけて、繁忙期に当たるため、時給が上がる。聡実にとっては稼ぎどきで、帰省するギリギリの日にちまでできるだけ多くシフトを入れたい。狂児は狂児で上京はしているが、東京での仕事が相当立て込んでいるらしい。ホテルに戻るのも深夜になる。ヤクザにも年末進行というものがあるようだ。ただクリスマスは会えずとも、明後日には一緒に飛行機で帰阪して、年始も初詣に行く約束をしている。
『今日、いつものホテルですか?』
『そうヨン。来てくれるん?』
『行きませんけど』
『なんやねん。来てよ。さみしいやんか』
 笑い泣きの絵文字にふっと笑みがこぼれる。うそ。ほんまは行くよ。プレゼント置き逃げしに。こころのなかだけで答えて、聡実は帰り支度をさっさと済ませた。時刻は二十二時手前、はやくしなければ自宅へ帰る終電に間に合わない。明日も朝からバイトだった。
 お先に失礼します、と入れ替わりでシフトに入る同僚に投げかけ、聡実は店を出た。足早に改札を抜けて電車に乗り、一路狂児の定宿に向かう。六本木ヒルズのすぐ近くに位置する、五つ星を冠する高級ホテルだ。ロビーに入り、艶々と光るリノリウムを歩くスニーカーが、きゅっきゅっと音を立てる。
「すみません」とフロントに声をかけ、狂児の宿泊名義を告げ、知人であると名乗る。聡実はバックパックのファスナーを開いた。
「これ、本人に渡してもらえますか」続けてサプライズのクリスマスプレゼントであることも説明すると、快く了承してくれた。預かるための申請用紙に、名前や住所など個人情報を書き込んで返す。お預かりします、とにこやかに受け取られ、プレゼントの受け渡しは無事に完了した。
 さて、どんな反応するやろか。聡実はお願いします、と頭を下げて、踵を返し帰路についた。



 帰宅してシャワーを浴び、聡実は寝る支度だけ整えておいた。毛布を被って、Bluetoothスピーカーで音楽を流し、本をめくる。スマートフォンが着信を報せた。電話だった。時計を見遣ると、日付が変わってしばらく経っている。こんな時間にかけてくるのは、ひとりしかいない。
 念の為、聡実はちらと相手の名前を一瞥する。きた。起きて待っていた甲斐があった。僅かな緊張と、おおきな期待が脳裏をよぎる。
 スピーカーを消して、姿勢を正してから電話をとった。
「もしもし」
『聡実くん、なんやこれー!』鼓膜をつんざきそうな大声だった。痛みが一瞬迸り、聡実は一旦スマートフォンを耳から離して「うっさい」と文句を返す。
「大声出さんといてください。耳おかしなる。……もう開けたんですか?」
『まだやけど』
 開けてから驚けや。嘆息する聡実をよそに、狂児はおろおろと訴えを続ける。
『ロゴでわかるやん。これクリスマスプレゼントか? 聡実くんこんなん、どうやって買うたん。高かったやろ』
「贈りもんの値段探るのはルール違反やないですか。デリカシーのない」
『えーやって……俺にこれはもったいないで……』
「素直に喜んでくれたら僕もがんばった甲斐あるなあ思えるんですけど。嬉しないの」
『いやめっちゃ嬉しい。ほんまに嬉しい。嬉しすぎるから声がでかなってんねん。堪忍してや。叫んどらんと死にそうや』
 狂児は食い気味に答えて、きっかり十秒の間をあけたのち、いまの騒ぎが嘘のように神妙な声で『テレビ電話にしてええ?』と訊いてくる。
「うん」
 ごそごそと物音が続いて、画面いっぱいに狂児の顔が写った。近すぎる。帰ってきてすぐなのか、ジャケットも脱がずネクタイは結ったままだ。聡実は抱えた膝にスマートフォンを構えて、画面の向こうが落ち着くのを待った。ごとん、と重い音がして、テーブルの上に固定したのだろう、ぶれがなくなったカメラは「どっこいしょ」と腰を下ろす狂児を流す。
『見える?』
「はい」
『では、開封式を行いまーす』
 格式張った宣言をして、紙袋から包まれた箱を取り出す様子が映される。どうやら生中継してくれるらしい。生で反応を見られないのはちょっと惜しかったので、素直に嬉しい。聡実は黙ってライブ配信を見据えた。こくり、と唾を嚥下する。
 狂児の長く節張ったきれいな指が、静かに包装紙を解く。いつもの雑な仕草と違い、指先を立ててテープを丁寧に剥がし、紙を破らないように丁重に開いていた。「破けばええやないですか」と訊くと、『これ込みで聡実くんからの贈りものやもん』と返ってくる。
 剥がしたものをきれいに畳んで避けて、いよいよ箱に手がかかる。蓋を持ち上げ、箱の中身を手に取った。
 真っ黒い牛皮製で、ブランド特有の網目模様が両サイドに組み込まれた、手帳型のキーケースである。
『めっちゃいいやつやんこれ』
「狂児さん車の鍵とか家の鍵とか、なんやいろいろじゃらじゃら持ってるでしょ。ええかなって思って」もっともらしいことを淡々と語りながら、聡実はいよいよ体内に迸る緊張にくちびるを舐めた。
『うあーありがとう。大事に使うネ』
「返品不可ですよ」
『当たり前やん!』
 よし言うたな。言質取ったで。聡実は口端を上げた。キーケースは言うなればただの包み紙。受け取ってほしくて返品不可なのは、その”中身”のほうだ。
『ほんまにひとまとめにできるなあ。便利やわ、……ん? なんかもうついとる』
 ちゃり、と微かな金属音に、狂児はキーケースを開いた。ぽつりとぼやいて一瞬訝しんだのち、あ、と膨らんだ目が、聡実を見上げる。『……これ、もしかして』
 聡実は頷いた。そう。
「僕んちの合鍵」
『……あかん言うたやろ。俺に渡すなって』狂児は途端に表情を失くした。困惑した声のトーンが、唸るように格段に低くなる。
「返品不可やって言うたやん。そんで返さへん当たり前やん言うたんは狂児さんやで。嘘なん?」
『それは、』
「あんたがなに心配しよるんか、なんとなくわかってるけど」
 聡実はスマートフォン越しに、狂児を静かに見つめ返す。大阪のときと違い、学校帰りに送迎はなく、デートの終わりはいつも現地で解散だ。聡実はタクシーに乗せられて帰宅し、狂児は聡実のアパートの最寄り駅にすら立ち寄らない。生活圏に自分が入ることを許さない。どうせ、ヤクザそのものの自分と関係を持っていると周囲にバレたら、聡実の立場を危うくする。家に足を踏み入れるなんて尚更だ。隣人や大家に、ヤクザの出入りがバレてしまえば、聡実は家を失くしかねない。そんなことを考えているのだろう。
 アホやなあ、と聡実は鼻で笑ってしまう。
「正直、今更やろ。僕ら仲良う付き合うとる時点でアウトや」
 そんなもの、街中を出歩いたって同じじゃないか。東京は広くて狭い、どこで知り合いに見つかるかなんてわからない。家に来なくたって、大学に近寄らなくたって、渋谷で隣人や大家に目撃されるかもしれない。池袋で同級生とすれ違ったら、六本木で先輩が見つけたら、下手をして大学に伝わってしまったら。可能性は無限大だ、きりがない。ふたりが恋人である限り。
 そもそもいまどき、近所付き合いなんてほとんどない。聡実は大家が誰か知らないし、隣人の顔も覚えていない。大学も然りだ。騒ぎを起こさなければ、他人の付き合いに茶々を入れてくるような人間はそうそういない。おとなしくしておけば、案外バレないものだ。それに。
「僕、狂児さんとのことに他人に口出しされるつもり、あれへんよ」
 どんな噂を流されようと、どう他人に見られようと、気にならない。どうでもいい。関係ない。言わせておけばいい。狂児がヤクザなのは事実で、聡実はもうきちんとわかっていて好きになり、愛して、関係を持っている。それをよそからどう評価されても、聞き流しておけばいい。
「狂児さんは神経質すぎやで。僕のがよっぽど図太いねんけど。ほんまにヤクザやれてるん?」
『これでも若頭補佐って言うて結構偉いとこまで上り詰めてんですけどボク……』
 狂児はため息まじりにぼやき、項垂れる額を手で押さえている。聡実は続けた。
「僕な、嫌やねん。会って、ごはん食べて、よそで、……エッチして、ほんで終わり。ホテルなんかに帰らんと、うち泊まったらええねん。狂児と生活したい。もっと一緒におりたい。あかん?」
 すぐに答えは返らなかった。難しい顔で俯く姿に、ちいさな不安を噛み殺しながらじっと待つ。やがて。
『我儘なガキやでほんま』と笑いまじりの声が届いた。
「あ?」
『俺の我慢、ぜんぶ無駄にしよる』
「すんな言うてんねん。そんなようわからんヤクザの感傷いらんわ」
『ヤクザの感傷て。なにそれ。おもろ』
 はは、と軽く笑って、持ち上がった狂児は、どこかすっきりした面立ちをしていた。
『なんか怖なるわ。聡実くん、どこまで俺のこと受け入れてくれんねん』
 ふっきれたように、こちらに向ける視線はひときわ甘ったるく、聡実は落ち着かなくなるからだに眉をしかめる。
「そんなん、ぜんぶやわ」
 生半可な気持ちでヤクザと付き合っていると思われたら困る。一般人で若い自分が、反社会的勢力と濃密な関係でいようと望むのが、いかに茨の道なのか、十九歳間近の聡実こそがもう、ちゃんと弁えている。わかっていて手を取った。会えなかった三年半で、もう離れられないと悟って、一生ものの付き合いだと意を決した。再会できた以上、死んだ先の地獄までついていく覚悟の上に、いまがある。
 狂児は眩しいものを見るように、目を眇めた。真っ黒な双眸は、少し潤んでいるようにも見える。低い声は甘さを湛えたまま、囁くように訊いてきた。
『なあ、明後日大阪帰るやろ。そっちのが空港近いやん。明日泊めてもろてもええ?』
「ホテルどないすんの」
『もー即キャンセルや。俺かて聡実くんと別れて、こんな味気ないホテルに泊まんの嫌やってん』
 聡実の予想通りのセリフを吐き、狂児は目を伏せた表情に苦味を見せた。グランドハイアットもまさか、六畳一間のアパートと比べられて、味気ないなんて切り捨てられているとは思わないだろう。申し訳なさを覚えながら、聡実は吐き捨てる。
「慣れんことせんでええですよ。いっつも強引に我通すくせに」
『俺そんな我儘ちゃうよぉ! ……うん、でも、確かに慣れんことはせんほうがええわ。もうやめる。遠慮なく聡実くんちお邪魔する』頬を仄かに赤らめた四十路の男は、キーケースに向けた目を細めて、にこやかに笑んだ。大事そうに、至宝を扱うように、指先が聡実家の鍵を撫でている。
『ありがとう。大事にする』
「……パジャマも歯ブラシもパンツもあるんで、いつでも来てくださいね」
『いやん泊める気満々やん。……ほんま、待たせてごめんな。いっぱい一緒におろうな』
 愛してるよ、は言外に含んで、いとおしげに告げる狂児の声音に、かんばせに熱を抱きながら、聡実は僅かな後悔に浸る。ああやっぱホテル泊まっていけばよかったな、生で味わいたかったわ。はやく明日の夜になって、狂児をここで出迎えて、こんな画面越しではなくて、触れる距離で。たまらなく、会いたかった。




 狂児は聡実を手放すつもりはさらさらない。なによりいちばん好きで、なによりいちばん愛している。聡実も同じだけ狂児を愛してくれている、と思う。いたいけな十代の青年をたぶらかしてものにした後悔も、たぶんない。聡実がいなくてはもう、息の仕方もわからないし、聡実に出会う前までどう生きていたのかも、記憶が曖昧なくらいに、狂児は聡実にすべてを傾倒している。
 でも、だからと言って、ある程度の線引きは必要だ。いわゆる反社会的勢力の一員である身を、弁えているつもりもあった。輝かしい未来ある青年の人生を、穢していいはずがない。どこまで踏み込んでも許されるのか、どこから立ち入ってはいけないのか、狂児は頭を巡らせて選別した。ふたりで会うのは人目につきにくい繁華街でだけ、生活圏、通学圏にはなるべく近寄らない。聡実の周囲の存在に、自分との関係を悟られたら、彼の将来を潰してしまいかねない。そのようなことはしたくない。
 矛盾だらけのこころは、狂児が取るふたりの間の距離感に如実に現れていた。中途半端だった。意気地もなく、はたから見たら失笑ものだろう。分別を弁えているなら、聡実の将来を懸念するなら、いますぐにでも手放すべきだ。空港で声をかけ、あまつさえ口説いてはいけなかった。キスもセックスも許してはいけなかった。でもできなかった。狂児にとって、四十三年生きてきて、はじめての恋で、はじめての愛だった。自覚するまでに、扱い方を知らない自分には手に余るほど、感情は膨れ上がった。気付いたときにはもう、あの子を手に入れなくては魂から腐って死んでしまいそうだった。全身で聡実を感じることで、やっと呼吸ができた。だめだった。聡実のそばにいないと狂児がだめで、けれど彼の未来を壊すのも怖い。その罪悪を、背負える自信が見つからない。
 聡実はそういう、狂児にとっては真剣な懊悩を、ぜんぶ鼻で笑って蹴っ飛ばしてしまう。――アホちゃうんか、やったらなんでいま僕と会ってんねん。連絡とってんの。キスもセックスもして、もうズブズブやで。背負う自信もなにも、僕のこと、手放す気もないくせに。苛烈に詰って、中途半端のままでいたい愚かな狂児を許してくれない。真隣を歩けず、間隔を置いた後ろで立ち止まる狂児の腕を、強引に隣に立つよう引っ張ってくる。――僕と寄り添って、僕と生活して、僕と一緒におって、僕は覚悟できてんで。
 十八歳の若造が、現実も知らないで宣う夢物語だと、笑えたらどんなに良かっただろう。もう聡実はそんな、浅慮ではない。さして考えもせず、適当にのらりくらりと生きてきた狂児なんかより、聡実はずっと、聡実自身の人生と向き合っている。深く考え、彼なりの答えを見出し、とっくに決意をしていたのだろう。狂児とふたりでの人生を。



 聡実のアパートは、かろうじて鉄筋製の、築数十年を経ている、古臭いところだ。鍵はオートロックでもデジタルロックでもないディンプルキー。表札もなにもない、鉄製のドアの前に立ち、黒革のキーケースに収まるたったひとつの鍵を、狂児はかれこれ十分は見つめている。
 昨日のやり取りを思い返し、ふっと狂児の口端はたわんだ。真冬の夜、凍える空気のなか、漏れた息が白く吹き上がる。寒い。カシミアのコートを着込んでいても防げない冷気で、皮膚が凍えて体温が下がり、ぶるりと肩が震える。
 あーあ。十代の男の子にしてやられて、叱られて、引っ張られて、自分から行く言うたのに十分も踏み込めんとぼーっと立ち尽くして、四十数年生きとってこのざまかい。まったく格好がつかない。聡実の前では、本職で培った気概も根性もなにもかもが、役に立たない。まるで二十数年前、ヤクザでもなんでもなかった頃に戻ったようだ。
 俺ほんまアホでビビリでしょうもないな。開き直ったように笑って、狂児はおおきく深呼吸をした。その勢いで鍵を摘んで差し込み、震える手でゆっくりと回す。かちゃり、と手応えがあり、静かに鍵を解く。ドアノブを汗の滲んだ手で掴んで押し込み、ドアを開く。
「……お邪魔しまぁす」と一歩踏み込み、ぎょっとした。
 玄関口には、腕を組み、壁に凭れて聡実が立っていた。
「え、ま、待ってたん」
「階段昇る音、ここ結構聞こえるんです。狂児さん来たな、思て出迎えたろって出てきたら、ぜんぜん開けへんし、なにやってんねやろって思ってました」
 呆れた口調で聡実は言う。それから、嬉しそうに頬を紅色にして、仄かな微笑みが続く。「おかえりなさい。……ずっと、待っとったんやで」
 狂児は聡実を抱き寄せ、腕のなかに閉じ込めた。衝動的だった。ちょっと、と抗う声と拳も無視して、締め付けるように抱きすくめる。だって離せない。離せるはずがない。こんないとおしい存在を。
 さとみ、と耳元で低く囁く声が、どこか水気を帯びて、掠れてしまって自分でも笑えてくる。聡実。聡実は、すべてだ。狂児にとって、恋で、愛で、人生で、すべて。
「待たしてごめん。ただいま」
 狂児は聡実を手放すつもりはさらさらない。いたいけな十代の青年をたぶらかしてものにした後悔も、もう微塵もない。なによりいちばん好きで、なによりいちばん愛している。諦めずに聡実が伸ばしてくれた手を取って、ふたりの人生を、重ねて生きたいと思っている。