青い春の日々 / 狂聡

20210912

 成田狂児という同級生の実情を、聡実はほとんど知らなかった。三年二組、中学三年生にして身長は180近いおおきな体格。成績は中の上、常にヘラヘラと派手な男子生徒とつるんでいて、それから周囲が謳う品のない噂。先生とデキている、何人も取っ替え引っ替え遊んでいて、タバコを吸っていて、不良の高校生と付き合いがあり、ケンカが強い。
 同じクラスになったこともなく、クラスの合同授業でも被らない。彼と聡実の間に共通の友人もいない。顔くらいはなんとなくわかる程度の存在で、きっと派手な男の子なのだろうと勝手に思い描いていた。
 六月の中旬、部活終わり、いつものように職員室に鍵を返したあと、聡実は人目を気にしながら非常用扉を開いた。本来この先は、緊急時以外の生徒の利用は禁止だが、施錠はされていない。階段を登り辿り着いたいちばん上、三階の踊り場は、一年生、合唱部に入った日に見つけた、聡実にとっての秘密の場所である。当時はうまく発生ができず、下手くそな歌を誰にも聞かれたくなくて、人目につかないところを求めて、ここを探し当てた。それからほとんど毎日、部活終わりにここへ立ち寄り、練習中に見つけた改善点や、先生に教わったことの復習に使っていた。……そうしていまはまた、一年時とは違う理由で、逃げ場として活用している。
 聡実はカバンを下ろし、あ、あ、と声を発した。喉のあたりを押さえて、もう一度。今度は腹にちからを込めて、少し声を張る。音階を上げていくと、普段よりずっと低いところで引っ掛かりを感じた。ああ、やっぱり、あかん。いつもと違う。声が出にくい。楽譜を持ったまま、手すりに突っ伏す。
「きてしもたんかなあ」
 変声期。
 深い溜息が思わず出てしまう。違和感は、少し前からあった。先日の合唱コンクールが、確信に至るきっかけだった。声が出ない。特に、自身が得意とするはずの、ソプラノパートでも高い音が。喉の調子が悪かったのかと思い、様子を見ていたが、違う。のど飴を使っても、自室の加湿を整えても、ひどくなる一方だ。十四歳、中学三年生の夏。遅い方ではあるが、せめてもうしばらく待って欲しかった。聡実たち三年生はまだ、最後の舞台が残っている。八月の合唱祭。そこで歌い上げて、卒業だった。更に、部長であり、男子ソプラノのなかでも実力のある聡実は、ソリを任されることになっている。
 保つだろうか、それまで。咳払いをして、楽譜を開き、もう一度、さきほどうまく発声できなかった箇所をなぞるため、くちを開く。瞬間。
 背後のドアが開いた。びく、と聡実は大仰に肩を跳ねさせて振り返る。真っ黒の瞳と、視線が重なる。
「あ、な……成田くん?」
 成田――成田狂児はちらりと聡実を一瞥して、後ろ手にドアを閉めた。そのまま階段を二、三段下りて、座りこむ。手にしたビニール袋を探り、菓子パンを食べ始めたので、思わず聡実は声をかけた。
「なにしてんの?」
「パン食うてる」
 低い声。聴覚を通して、からだの芯を揺るがすように響く。その衝撃に一瞬たじろいで、聡実は更に重ねた。
「家帰って食べたらええやん」
「家うるさいからここで食うてる。あかん?」
「あかんていうか」
「岡くんかてなんでここで練習してるん。音楽室でやったらええやん」
「部活動の時間おしまいやから使えへんねんもん」
「お互い譲られへん理由があんねんな」
 いやどこが? 少なくともそっちは譲れるやろ。と思ったが、別にここは聡実専用の場所ではない。三年間使い続けた愛着はあったが、仕方ない。別のところを探すかと荷物を片付けていたら、「別に歌たら」と成田が言った。
「ここで練習したらええやん。俺、パン食うてるだけやし。邪魔せえへん」

 成田は言葉通り、ほんとうにただ聴いているだけだった。パンを片手に現れ、階段に座り込んで黙々と食べている。聡実の練習が終わる頃合いに一緒に昇降口まで行き、そこで別れる。会話は一切なし。普段の彼とはまったく違う印象で、聡実は驚いていた。派手な友人関係だから、もっと騒ぐタイプかと思った。しんとして、からだがおおきいのにあまり気配を感じない。
 はじめて声をかけられたのは、七月に入って間もなくだった。聡実が出にくい音を無理に発しようとして、喉に過負荷がかかり、むせたときだった。カバンを探って水を取り出そうとするがうまくいかず、咳が止まらないときに、成田が背を撫で、蓋を開けたペットボトルの水を差し出してくれたのだ。それから、聡実の愛用するのど飴を袋ごと。
「あ、ありがとう」
 礼を言うと、成田はいやに神妙な顔で問うてきた。
「声変わり?」
 聡実は目を泳がせた。変声期に突入したことを先生に指摘され、ソリの代役を用意されたばかりだった。先生にも、代役の後輩にも、「無理に歌うな」と気遣われたショックが再び脳裏に蘇る。おずおずと頷くと成田は「そうなんや」と言った。それだけだった。
「無理すんな、とか言わへんの」気になって問うた答えは、「なんで?」逆に問い返された。
「岡くんが一生懸命やっとることに、他人が口出しできひんやろ」
「みんなに迷惑かけてまうかもしれへんのに」
「わかってても無理してでも歌いたいんちゃうん。なんも言われへんよ。岡くんがいちばんしんどいねんから。望む通りに歌えるとええな、くらいしか思わへん」
 不思議と、聡実の胸のうちにその一言が染み入った。そうや。そうやねん。僕、歌いたいねん。最後の舞台で、やりきりたい。声がどんなに枯れてしまっても。歪んだものであっても。


 苗字呼びから名前呼びに変わり、少しずつ、ふたりは話をするようになった。まるで秘密の共有を行うような気分だった。周囲でくゆる、狂児に関する噂のほとんどが、デマであった。教師とはなんの関係もなく、彼女はいない。勝手に彼女だと吹聴されるだけで、誰とも付き合っていない。遅くまで学校に居残るのは、兄と長期ケンカ中で気まずいことと、帰り際クラスメイトに絡まれるのが鬱陶しいからだそうだ。
 本来の狂児は静かな青年だった。ヘラヘラするのは、無表情でいると億劫なことが多いから。ほんとうはひとのこころに疎く、表情の変化が乏しく、頭のなかは空で、情緒がない。本人も「物事に関心がない」自覚があった。誰にどう想いを寄せられていてもどうでもいい。こころは何事にも、微塵も動かなかった。噂のひとつ、「取っ替え引っ替え遊んでいる」の一端である、女子生徒からの告白数は尋常でなかった。けれど誰にも興味が持てず、適当に関係を持っては付き合うに至らなかった。部活は無所属で、勉強も好きでも嫌いでもなく、なにかに熱心に取り組む経験もなく、そうやってこころを傾けられるものがないまま、無為に十五年の人生が流れていった。
「せやから、がんばってる聡実くんは、俺にとって眩しいよ。うまくいってほしいなて思う」
 本心からかわからないが、これは狂児のなかに芽生えた数少ない願いだと、聡実は捉えた。だったら尚更、叶えたかった。


 合唱祭当日、家を出た聡実はホールの入り口で発声を試し、先生に電話をかけた。それから、狂児にメッセージを打ち、合唱祭会場であるホールで待ち合わせるよう頼んだ。彼は最期の晴れ舞台を観に行こうとしてくれていたようで、ホール前の公園のベンチに座っていた。
「どうしたん」
 心配そうに眉が下がっている。聡実は笑おうとして、頬を伝う涙で失敗を悟った。
「こえ、でえへん」
 昨夜まではなんともなかったのに、朝起きたらもう、とても人前で歌える状態ではなかった。最後の最後まで諦めきれず、家を出る際、両親に向けて振り絞っていつもの声で「行ってきます」を告げた。先生に話したら、声の状態が読み取れたのだろう、喉を完全に潰してしまう懸念があるため――おそらく、聡実の肺活量では、会場中に聴くに耐えない声が響いてしまうこともあったろう――ソリどころか出場自体を取り止めるよう返された。
「さみしいな」
 狂児はぽつりと呟いた。「さみしいな。お別れやねんな」
 聡実は鼻を啜り、頷いた。そう。そうだ。さみしい。ずっと自分の歌を支えてくれていた、いろんなひとが褒めてくれたソプラノの声と、こんな中途半端な別れをしなくてはならない。ソリもできず、舞台にすら立てず、このまま手放さなくてはならない。さみしくて、悔しい。
「聡実くん、歌ってや」
「こんなひどい声、あかん」
「俺、聴きたい。あんだけ練習しよったんやから」
 ちゃんとお別れ、しよ。そう言う狂児の隣に腰を下ろして、聡実は涙を拭った。狂児はスマートフォンの時刻表示を見遣り、「出番、いちばんやったもんな」と言った。そうだ。12時に開演して、すぐに出番だった。今頃、木村先生の伴奏が、ホールに流れ出している頃だろう。
 聡実は練習で散々聴いたピアノを脳裏で反芻し、立ち上がってくちを開いた。背筋をまっすぐ。おなかから声を出す。歌はこころ。歌詞を辿り、想いを声に乗せる。
 ひどい声だった。高音は掠れて、音は間違いなく合っていなかった。声のコントロールが効かなくて、途中でやめたいと何度も思ったけれど、狂児が真剣に聴いていて、自分も最後まで歌いきりたい意地があった。
 頭のなかのピアノが、余韻を残して鳴り終わる。頭を下げると、たったひとりの観客が万感の拍手を送ってくれた。
「やっぱり、きれいな声やったよ」
 ありがとう。言われた礼に、「こちらこそありがとう」と返す。聴きたいと言ってくれて、聴いてくれて、ありがとう。はじめて見た狂児の素の笑顔は、ちいさく口端をたわませただけで、それでも充分に、彼のなかに満ちる喜びが伝わってくるものだった。




 非常階段に立ち寄らなくなると、自然と狂児と顔を合わせることもなくなった。聡実は進学校を目指していたので、受験勉強で手一杯になり、また狂児は狂児で忙しかったのか、お互い連絡を取り合うことも、なかった。
 久し振りに会ったのは、卒業式のあと、狂児から「会えへん」と一言メッセージが届いたからだった。待ち合わせ場所はいつもの非常階段の踊り場で、式後の興奮を引きずるクラスの喧騒を抜け出し、聡実は足早に向かう。
 狂児はまた少し、背が伸びたようだった。学ランが小さく見える。
「久し振りやな」
「うん」
 相槌に、狂児はほっとしたようだった。変声期はあのあと二ヶ月ほどで落ち着き、先生たちの懸念した喉の潰れや傷みもなく、無事に声変わりを終えられた。
「聡実くん、立石行くんやろ」
「うん。狂児は?」
 府外の高校に行くそうだった。父、兄の卒業校らしい。男子校で、寮生活に入ると言った。「フラフラしてるから性根叩き直してこいやって」
 規則が厳しい学校で、『牢獄』だなんて呼び名もついているらしい。そうか。なら、ほとんど会えなくなってしまうのだろうか。
「聡実くん」
 一抹の寂しさに俯きがちにしていると、狂児がいやに硬い声で呼んだ。「隠してたことがあってん」
「え?」
「俺、聡実くんがあそこで練習してるの、一年のときから知っとった」
 聡実はまろい瞳をおおきく膨らませた。狂児は強張ったくちで続ける。一年の夏頃、兄とケンカをして、家に帰るのが億劫になり、自分たちの逢瀬の場よりひとつ下、二階の踊り場で適当に時間を潰していたこと。声の主が聡実であることは、階段を上がっていく姿を一度見かけて知っていたこと。きれいな声に聴き惚れて、兄と仲直りしたあとも、歌を聴くために毎日居残っていたこと。三年に入り、声が出にくくなり始め、無理に発声している様子が気がかりになり、あの日意を決して、三階の踊り場に足を運んだこと。
「時期的に声変わりなんやろな、て思てん。俺になにかできることないかなって、ほんまはパンだけやなくて、のど飴も毎日持っとったんやけど、渡せたの一回だけやったな」
 きっかけを持って話していくうち、その声の主はうつくしい声の通りの青年であったこと。妙な目や態度で触れられやすい自分に、聡実はまっすぐに接してくれたこと。
 なんにもないと思っていた人生に、たったひとつ灯った、きみは光だったこと。
「なんで、言うてくれへんかったん」
「言うつもりなかったから。一生隠しとこう思てたんやけど、人間って不思議やな。未練みたいなん、生まれてしもて」
 狂児はおもむろに、自身の学ランに手をかけた。「俺は古いんちゃうかな思うんやけど、でも、これがいちばん、確かに俺の気持ちに近いものやから」と言って、第二ボタンを力付くてちぎった。聡実の手を取り、開いた手のひらにそっと載せる。冷たく汗ばんで、震える手。
「あげる。ありがとう聡実くん」
 ぎゅっと握らせ、狂児は背を向けて階段を降りていく。
 聡実は彼の心臓を模したものを握りしめ、精一杯の声を張った。
「狂児!」
 足を止めて振り向く彼に向かって、聡実も自身の第二ボタンを投げつける。
「アホ! 僕のも受け取らへんと、言い逃げすなや!」
 はじめて会話をしてから半年足らず。たかだか三十分程度の時間を共有し続けていただけで、一緒に帰ったこともないから、お互いどこに住んでいるのかもよく知らない。それでも。
 駆け上がってきた狂児のかいなが、聡実を抱きすくめる。背は高くともひょろりとしたからだのわりに、骨が軋むほどの強いちからだった。向かい合う瞳が導くまま、くちびるが触れ合って、交歓する。
 投げつけたものが暗喩する意味はふたりとも理解していて、けして軽い気持ちではなかった。本気で捧げたかった。十代で決めるのは時期尚早と言われるだろうが、知ったことではない。重なるくちびると、抱きしめ合い伝播する熱。互いの手のなかにあるものを、一生手離さない願いと確信が、ふたりのからだのなかを満たしていった。