やさしい夜のひと / 狂聡

20210205

 週末の金曜、気分は決戦に向かう戦士の如く。今夜こそ聞き出してやる。安い居酒屋の片隅で、友人・岡聡実と差し向かうおれの顔は、決意と熱意を息巻いて、傍から見たら異様に強張っていたことだろう。
「なあ、なんで合コン来てくんないの」
 今夜のサシ飲み、もとい岡に直談判する時間を作ったきっかけは、岡が頑なに合コン参加を断ることにあった。男同士、友人同士、ゼミ内のただの飲み会なら、喜んでついてくるのに、合コンとなると途端に全力で拒否してくる。一度だけ、友人が騙し討ちで強引に参加させようとしたときは、駅でメンツと合流した直後に察して、「用事思い出してん」とトンボ帰りしてしまった。あとで「二度とせんで」とメッセージが届き、無機質な文字からも充分に激怒具合が伝わってきて、友人は平謝りしてなんとか許してもらった。
 どうしてそこまで嫌がるのか。彼女がいるのかと尋ねても首を振られ、なら昔女性関係でなにか嫌な思いをしたのだろうか。でも特に女の子たちを避けるような仕草は取るでもなく、それとなく探ってみても、「そんなんやないよ」と否定された。
 独り身の男子大学生が、人恋しくないわけがない。いや一概に言い切れないのは重々承知で、勝手な思い込みにしろ、おれたちは岡が合コンを断るのに、諦めがつける相応の理由が欲しかった。
 そもそもなぜそうまでして彼を誘いたかったかと言うと、岡はとにかくモテるのだ。法学部で成績優秀、すらっと背の高い体躯、分厚い眼鏡でも隠しきれない整った面立ちと、澄んだ瞳。おとなしそうな風貌から発せられるきつい関西弁のギャップが、岡のチャームポイントとして女の子たちがよく上げるところだ。更に、岡は音楽サークルに所属している。ピアノバンドでボーカルとピアノを担当し、これがまたどちらも非常にうまいのだ。とりわけ中学時代合唱部で培ったらしい、きれいでよく通る発音声は、他校にまで噂が飛び交うほど絶大な人気がある。学祭のライブチケットは、毎年岡目当てで即完だ。
 なにがなんでも岡くんのお近付きになりたい、あわよくば付き合いたいという声を、おれを含めゼミ仲間の男連中は常々方々で耳にしていた。合コンに誘うと、岡くんが来るなら行きたい、と返す子もしばしばいるほどだ。けれど当の本人はそんな秋波など気にもとめず、「合コンなら行かへんよ」を一貫して覆さない。なんで、と訊いても「行きたくないから」の一点張りだ。
 行きたがらない友人を、ほんとうは無理強いして連行したくない。はぐらかす内側にある真意を、強引に引きずりだしたくもない。でもいかんせん女の子たちからの圧がすさまじかった。自分から誘えばいいのに、「知りもしないわたしたちより、友達のあんたたちから誘ったほうが来てくれる確率高いでしょ」と無理を言う。行きたくない、なんて漠然とした理由では納得してもらえず、間に挟まれるおれたちもなかなかにつらい。岡には申し訳ないけれど、やっぱりちゃんと教えて欲しかった。
 100%おれたちのエゴだ、大勢で囲い込むのも可哀想で、代表としておれが岡に直談判する役に選ばれた。ゼミ内で唯一、一年の頃からの仲で、他のメンツより比較的打ち解けているほうだという自負があり、話しやすいのではないかということだった。
 そうしていざ迎えた今朝。ふたりきりでの飲みを、岡は時間制限付きで快諾してくれた。二十二時過ぎにひとと会う約束をしているらしい。おれも、深夜のバイトがある。はやめに店に入って、雑談で場を温め、互いに二杯目の酒がテーブルに並んだいま、おれはいよいよ本題をぶつけたのだ。
 対峙した岡は真剣に問うおれに、言いよどむ様子もなく、容易く答えを寄越した。
「僕、ずっと付き合っとるひとおるから」
 …………え?
 それだけ?
 予想外の返しに虚をつかれ、妙な間を空けてしまった。
「逆にそれ以外なにがあんねん」
 岡はまたしれっと頷いて、ハイボールを舐めている。ごもっともだ。でも、その最もな理由は、前に岡本人の口から除外されている。
「彼女いないって言ってたじゃん」
「彼女はおれへんよ」
 メニューを捲る岡は、また淡々と返す。じゃあ誰とも付き合ってないじゃん、と反駁しようとして、咄嗟に呑み込んだ。……ああ、そうか。そういうこと。染み入るような悟りに、岡に向いていた勢いがしおしおと減速していくのがわかる。
 付き合っているひとがいる、言われた瞬間は、正直ちょっとショックだった。彼女いないと言った、あれは嘘か。おれは騙されたのか。
 違った。なんてことはない、おれの訊きかたが悪かっただけ、岡はちゃんと真実を教えてくれていたのだ。
 少しでも疑ってしまった自分が恥ずかしい。ますます気分が滅入って、おれは眉を下げて、発する声も萎んで小さく細くなっていく。
「決めつけて訊いてごめん」
「ええんよ」岡はゆるく首を振り、悄然とするおれに軽く頭を下げてきた。「こっちこそごめんな。なんか、いろいろ気を遣ってもろてたみたいで」
 岡には合コンに誘うたび、岡目当ての女の子がたくさんいる旨をはっきり伝えている。ただ、断られるのは明白であったので、実際おれや他のゼミの男どもは、女の子たちから要求されているうちの、ほんの一握りの分しか、彼には声をかけていなかった。
 でもこの口ぶり。彼はもしかしたら、実情になんとなく気付いているのかもしれない。
「僕が合コン行かへんの、女の子と間に挟まれて大変そうやもんな。行きたくないーて言うだけじゃ、たぶんもうあかんのやろ」
「いや、いいんだよ。彼氏がいること、言いたくなかったら、言わなくていいから」
「ちゃうねん。ただ照れくさかってん」
 友人は苦く笑って続ける。「僕の彼氏のこと、知ったらどうせみんなめっちゃ訊いてくるやろ。どんな彼氏ー言うて。そう思たら、なんや口が重なってしもてん」
 岡の杞憂は正しい。おそらく、おれがこのことを方々に報せたら、怒涛の質問攻めに遭うに違いなかった。
「じゃあおれ、黙っとくよ」
「や、そんな重く捉えんでええんよ。隠しとるんとはちゃうし。せやからみんなにも、僕が彼氏持ちやって言うてええよ。そのほうが、うっとい目に遭わんで済むやろ」
 それは、正直とても助かるけれども。
「言いたくないんじゃないの。岡の負担になるようなことは、こっちも避けたいよ」訝しむおれの視線に、岡は「ちゃうねん」と繰り返した。
「ほんまにただただ、僕が恥ずかしいだけやねん。彼氏のこと、話すの」
 言っているそばから、岡の顔は赤味を増していく。
「……やって、僕の付き合うとるひとはこんなひとですーって話すん、惚気とるみたいやんか」
「僕の彼氏かっこいいんやでーとか言うのか?」
「ちゃうわ。ふつうに年上で、とか特徴言うにしたって、頭んなかで彼氏のこと思い浮かべて話すわけやんか。そんなん、声になんも乗らへんわけないやろ」
 くちびるを尖らせ、言葉尻は捲したてるような早口だった。
 訊いてもいいなら訊きたい。恐る恐る尋ねると、岡は溜息まじりに、ほんとうに教えてくれた。
「僕の彼氏、”狂児”言うねんけど」
 大阪に住んでいる年上の男で、やんごとなきブラック企業で、そこそこ偉い役職に就いている。やんごとなきとはなんだろう。年上でいまどきにしては羽振りがいいので、なんでも買い与えようとしてくるのが最近の悩み。忙しい合間を縫って、月一のペースで東京に逢いに来てくれる……。
 ぽつぽつと紡ぐ頬は、酒のせいではなく、僅かに紅色に仄めいている。
 ”声に乗る。”すぐには理解できなかったその真意は、実際に語る声を聞いて、納得した。なるほど、乗っかっている。慈しむような、やさしさやいとおしさに満ち溢れている。彼を好きでたまらない、岡の気持ち。特別彼氏を褒めそやしてもいない、事実を述べているだけなのに、立派な惚気になっていた。岡の声が素直すぎるのだ。
 ほんとうに大好きなんだな。感慨は茶化した響きになりそうで口にはせず、おれは「へえ。じゃあメシとか奢ってもらえんの?」と興味を前のめりにした。
「うん。お金ちっとも出させてくれへん」
「え、いいじゃん。メシ代浮いて」
「でも僕、別に貢がれたくて好きになったんちゃうから」
 お金どうでもええ、貧乏でもなんでも、僕は狂児を好きやねん。一縷の迷いもなく断言する岡のおおきな瞳は、たったひとりだけを見据えているのだろう。他の誰かに目を向ける余裕は、到底ないに違いなかった。
 まさしく、身も世もないほどの恋愛だと思った。情熱にあてられたのか、さして呑んでもいないのに、火照って汗が出てくる。結局堪えきれず、「ベタ惚れじゃん」と呟いてしまうと、岡は黙ってぶすくれ、睨んできた。

「その“きょうじ”さんの、どこを好きになったんだよ」
 おれと岡には共通点がいくつかあった。法学部に身を置くこと、岐阜と大阪からの上京組で、それから家が近所であること。同じ最寄り駅、互いの家は徒歩十分程度の近距離で、よく本や講義の資料、実家からの差し入れなんかを運び合っている。
 帰路についた電車のなか。講義やバイトの話が尽きた頃合いに、おれは再び岡の彼氏に言及した。もう少し惚気を聞いてみたかった。
 岡は渋く眉をぎゅっと窄めながらも、数拍の間を空けて、「声」と提示してきた。
「声?」
「印象的な声してんねん」
 ”きょうじ”の声は、平均よりかなりの低音域だそうだ。ふつうに話しているだけでも、内臓にびりびりと響き、しばらく余韻が耳や全身に残る。くわえて愛煙家のため、タバコで喉が傷み、かすかに掠れた印象も混じるらしい。
 おれには想像がつかないが、珍しいことを言うな、と思った。恋人の好きなところを枚挙するのに、顔や性格ではなく、声を挙げるのはなかなか聞かない。岡は声フェチの気でもあるのだろうか。
「他は?」
「他ぁ? えー、あと、……」指折り言いかけた岡の耳が、ふと目を外に投げた。つられておれも覗くと、ぽたぽたと窓に水滴が伝いだしている。……雨だ。
 おれは自分のカバンを咄嗟に確認した。朝のニュースでは一日晴れを予報していて、降水確率は0%だったはず。一度ゲリラ豪雨に見舞われて以来、極力折り畳み傘を持ち歩くようにはしているけれど、今日はどうだったか。あった。ほっとするおれの隣で、岡は「最悪や」と忌々しげに肩を落とした。
「傘ないわ。どないしよ」
「おれ駅から家まで近いし、貸そうか?」
「ありがとう。でも借りれへんよ。濡れるのわかってるのに。ええよ、コンビニで買う、」
 固辞するタイミングで、岡のスマートフォンが震えた。言葉を切り、画面を開いた薄茶の瞳が、ふっと和らいでいく。「買わんでもよくなった」
 ところでさきほどまで「つっこまれるのが照れくさいから、彼氏持ちを断言しなかった」スタンスだったのに、これは開き直りとも言うのだろうか。続いた表情の変化だけで、メッセージの送り主がわかってしまう。岡の切り替えの早さにおれがついていけていないが、ひとまずこれから会う相手が、どうやら傘を持って改札まで迎えに来てくれるそうだった。
 つまり、“きょうじ”の姿を、おれはすぐに目撃することになった。
 電車を降り、人々に準じて歩む先には自動改札機が横一列に並んでいる。その向こう。金曜の夜、騒がしくひとが溢れ返るフロアには、一際目立つ人影があった。
 改札の向かい、壁に凭れかかる男。想像していたよりずっと年上だった。若くは見えるけれど、下手するとおれたちと一回り以上離れているのではないか。――パパ活。一瞬よぎった単語を必死に払拭する。岡が身売りみたいなばかな真似をするわけがない。
 男は周囲の意識や視線を、無作為に奪える要素の多いつくりをしている。濃い目だが端正な顔立ちだ。横顔は彫りの深さと鼻梁の高さ、うつくしさが強調されている。背が高く、全身黒の服の上からでも、からだの厚みがよくわかる。墨色の生地のロングコートは見るからに上質で、内側のスーツも値が張りそうだ。腕に引っ掛けている傘も、ハイブランドのロゴが入っているだろう。やんごとないブラック企業の偉いひと、という岡の表現を彷彿とさせる。……正直、企業人には見えない。夜に生きているような、危ない雰囲気が如実に漂っていて、現に視線は集めていても、男の周りにはひとが近寄らない。
「さっき言いかけたの」
「え?」
「教えたるわ」
 言いざま、岡の双眸は、真っ直ぐ“きょうじ”を収めている。気配に敏感なのか、男はすぐに気が付いた。スマートフォンに下ろしていた顔を持ち上げ、ふたりの視線が直線上に交わる。――真っ黒な瞳が、まなじりを綻ばせて、嬉しそうに解けていく。
「僕な、狂児の目が好きやねん。本人もうるさいけど、目は特に素直でおしゃべり。かわいい。……これは、誰にも内緒やで。忘れてや」
 ほな、と駆けるように改札を先に抜けていく岡に、おれは突っ立ったまま、軽く手を振り返した。往来の邪魔になるのはわかっているのだが、足が張り付いて動きたくなくて、ふたりを眺めてしまう。
 合流した岡の腰を、男は自然な仕草で抱いている。岡も、身を預けるようにして寄り添っている。ふたりは足並みを揃えて、改札を離れていく。
 当然、人波に紛れて声までは聞こえなかった。でも、きっとあの、いとおしさを孕んだ声で、岡は彼との会話を楽しんでいるのだろうと思う。
 ふたりはもう恋人ではなかった。伴侶という表現のほうが、彼らの在りかたを示すのに近い気がする。なんびとたりとも、あのふたりには入り込めない。世界が、ふたりの世界がもう、確立されているように感じる。
 おれは岡に気を傾ける彼女たちに、はやく伝えてあげたくなってきた。打つ手いっさいなし、岡はもう“きょうじ”以外を見ていない。諦めたほうがいい。
 岡聡実。彼のなかには、たったひとりだけに向けた、一途で真摯な熱愛が、一寸の隙間もなく、ごうごうと燃え上がっているのだ、と。

 ◆◇◆

 帰路途中の電車で、雨の降り始めを認めながら、聡実は先週交わした狂児とのやり取りを思い返していた。今日の約束について、上京はするのだが、急な仕事ができてしまい、夜の食事をキャンセルしたい、という連絡だった。東京の取引先と重要な会食が入ったそうで、済ませたあとアパートに着けるのは下手すると日付を越えた頃になる。ほんまにごめんね、の末尾に、泣き顔の絵文字が連なった。どこかのディナーを予約していたわけでもないし、仕事は仕方がない。
 ざあざあと滝のような勢いで、スコールじみた雨は地上に降り注いでいく。いま、何時やろ。手元のスマートフォンの時刻は、まだ二十二時を跨いだばかりだ。まだ絶賛接待中だろう。迎えを頼む算段は早々に打ち消した。どこかで雨避けして待つにしても、狂児は聡実のためにとっとと切り上げてきてしまう。いくらやくざの悪どいものでも、仕事の邪魔はしたくない。
 すぐ引っ込めたはずの願望は、しかしどうやら彼に届いてしまったらしい。
 スマートフォンが短く震え、着信通知を表示した。彼の瞳のように真っ黒なアイコン、”成田”からのメッセージ。『いま仕事終わったけど、さとみくんどこにおる?』
 友人と飲んでから帰る旨を伝えてあったからか、現在地を訊いたのち、『傘持ってへんやろ。まだ出先なら迎え行くヨ』と続いた。
 なんで僕が傘持ってへんの知ってんねやろ。狂児にその気はないだろうが、用意の悪さを指摘された気恥ずかしさで眉が寄る。反面、くちびるはほころんではにかんだ。待ち遠しい男にはやく会える。嬉しくないわけがない。
「――お友達、良かったん?」
 合流して早々、さりげなく腰に腕を回して訊く狂児に、聡実は素直に身を預けた。
「いまからバイトやねんて」
「ほおん。今日びの若い子はよぉ働くなぁ」感心めいた一言を口にして、狂児はまばたきを挟んでこちらを覗き込む。「あ、なんか寄りたいとこある? 雨ひどいし、真っ直ぐアパート行こか思てんけど」
「ないです。昨日済ませました」
 都内の移動も、この男は車を好んで使う。普段車生活で乗り慣れていないのもあるだろうが、昔から苦手なのだそうだ。したくもないのに他人と密着せねばならず、つり革やら中吊り広告やらが顔に当たって邪魔くさい。高校三年間の通学で嫌気が差して、もう十年単位で倦厭しているらしい。そのため東京通いを始めてすぐに、大阪から一台持ち込んだ。センチュリーには及ばずとも、こちらも相当な国産高級車だ。車に疎い聡実ですら、エンブレムを知っている。とてもセカンドカーにあてがっていいものではない。役職持ちやくざの財力と感覚には、ほとほと呆れて、神経を疑ってしまう。
「ちょっと濡れてまうかもしれへん。ごめんね」
 駅直通のパーキングは、二十二時には閉まってしまう。今夜は近くの別を探して停めてきたようだ。
 一旦外に出るべく、ふたりは一階に下りていった。出口に近付くにつれて、聞こえてくる雨音のボリュームが増していく。駅前のロータリーやモニュメントは、激しい雨が叩きつけられている。先程電車から見たよりもひどい降り方だ。天気予報は一日秋晴れを伝えていたのもあり、通り雨かと思い込んでいたが、今夜はこのまま止まないつもりなのかもしれない。
「聡実くん、おいで」
 狂児は右手で傘を差し、「はい」と自然にこちらに傾げてきた。マットなダークグレー、よく水を弾く、狂児の体格に見合ったおおきな傘。
 脳裏にひとつの記憶が蘇る。……あのときは、なんでかビニール傘やったんよな。あれ以来、彼がそんな安っぽい傘を所持している姿を見たことがない。聡実は内側の銀色の骨を眺めながら、六年前を反芻していた。忘れもしない十四歳の夏、ふたりが邂逅し縁を育んだ、すべての始まりの二ヶ月間。そのうちの一コマを。

 梅雨も終わりがけに自分たちは出会い、カラオケの先生に徹していた二ヶ月は、夏真っ盛りの快晴続き、曇天すらほぼなかった。雨はたった一度だけだ。
 怒涛に降りしきる、今夜のようにひどいゲリラ豪雨、通り雨だった。朝も、狂児が拾いに来たときも、雲ひとつなかったのに。カラオケ天国に引きこもっている数時間で突如雨雲が発達、店を出る頃にはからっとした快晴が土砂降りに一変していた。
 当然、聡実も狂児も傘なんて持っていない。どないしよ。カバンのなかには教科書やノートが入っていて、水が染みては困る。大体合唱コンクールに向けて猛練習中のいま、雨に濡れて風邪なんて、万が一にも引いていられない。
「とりあえず、車までここ入り」不安げに空を見上げる聡実を、狂児がジャケットを捲ってなかに招待してきた。雨避けになってくれるらしい。
「それ、高い服ですよね。濡らしちゃあかんのやないですか」
「平気、平気。洗濯して乾かせばええねん。それより聡実くんのほうが大事やもん」
 ちょっとタバコくさいかもしらんけど、堪忍な。ほら、おいで。少し迷って、結局素直に甘えることにした。カバンを前に抱えて収まった狂児の懐は、確かにタバコと、香水が入り混じった匂いが鼻についた。体熱が真横にあるからか、ぬくくて汗が滲みそうだ。けれど、けして不快ではなかったと思う。抜け出すときに、ほんの少しの名残惜しさを覚えてしまうほどには。
 からがら車に辿り着き、先に聡実を助手席に避難させて、狂児はダッシュボードを開けた。あのときはまだ、宇宙人の指なんて入っていなかった。二枚のタオルを引き出し、片方を聡実の膝に置き、「ちょっと濡れてしもたな。それ使てええよ」と自らも軽く拭った。濡れそぼったジャケットを着たままだったのは、おそらく透けたシャツから、刺青を隠すための配慮だったのだろう。
「さむない? ごめんな、すぐおうち帰るからな」
 エンジンがかかり、冷房は生ぬるい暖房に切り替えられ、温風が勢いよく吹き出してくる。
 車は緩やかに走りだした。フロントガラスにけたたましく降り注ぐ雨。ガラスに張り付き、視界を滲ませる水滴を、ワイパーが必死に払っている。「撥水コート取れてもうてるなぁ」と、運転席の男はぼやいた。
「さむない? ごめんな、すぐおうち帰るからな」
 聡実は男をちらりと一瞥した。濡れて乱れた前髪をかきあげて、いつになく目を凝らして運転している。
 どうして、謝るんですか。聡実は先程の「ごめんな」と反芻した。通り雨なんて天災であり、狂児はなにも悪くない。大体、聡実よりずっと、彼のほうがびしょ濡れだ。おとなだって冷えたら風邪を引くかもしれない。雨に見舞われたことについてなら、むしろ謝るべきは聡実のほうだろう。
「……僕はさむないです」
 はやく止んでくれへんかな。妙な焦りを噛み締め願うも虚しく、団地が見えてきても、雨足が和らぐことはなかった。
 いつもの降車場所で車は停まったが、ドアを開けようとすると「ちょお待ってや」と制止がかかった。狂児は降りて後ろに回り、トランクを開けている。取り出したビニール傘を差し、すぐに助手席側に移動して、今度はドアを開いた。
「どうぞ」恭しく、頭上に傘があてがわれる。ぱたぱたと彼の肩に雨粒が落ちているのを見遣り、聡実は「ありがとうございます」と礼を言って車を降りた。
 岡宅はここから見ていちばん手前に立つ棟にある。走ればそう濡れずに済むだろう。それじゃあ、さようなら。会釈して一歩離れた。なのに、からだが雨に曝される気配がない。空を仰ぐと、金属の骨とビニールの屋根が、聡実を追いかけるようにして覆っている。
 狂児が腕を伸ばして傘を傾けたのだ。
「これ、持ってき」
「え?」聡実は咄嗟に首を振った。「ええです。要りません。すぐそこやし」
「あかんあかん。風邪引くで」
「狂児さんかてびしょ濡れやないですか。これ僕貰ろたら、他に傘あるん」
「もう一本あるから心配せんで。俺ももう家帰るし。俺んちな、駐車場地下やから、ほんまは傘自体いらんねん」
「でも、」
「ええから。ネ。だいじょうぶやから。お願い」
 使て、と狂児はより強く傘を押し付けてきた。雨に紛れそうなしんとした囁きに、聡実はふと思い至る。――このひと、ヤクザのわりにあんまでっかい声出さへんな。
 父が観ていた映画に出てくるやくざは、もっと強面で常にがなって、汚い声だった。狂児は、強面の部類ではあるだろう。仕草は乱雑で、よくゴンゴンガンガンものを扱っているけれど、怒鳴ったり喚いたりするところを、見たことがない。脅すような剣呑な声も一切ない。
 狂児はいつも、静かな発声をしている。静かで穏やかで、丁寧で、……やさしい声だ。
「……じゃあ、ありがたくお借りします」
 受け取る際、ビニール越しに覗いた男は、目を細めて薄笑いを浮かべている。普段とは様相が違う、作り笑いではない、こころからの衝動に、自然とくちびるが持ち上がっているような。
 彼は、きっと喜んでいるのだ。聡実の目には、そう写っていた。

 結局少しだけコンビニに寄り道してもらい、アパート近辺に到着しても雨は轟々と荒れている。空は重たい雲が居座ったまま、小降りになる気配すらなく、これはもういよいよ一晩中降り続ける気だろう。
「聡実くん、まだ下りたらあかんよ。待ってね」
 アパート近くの月極駐車場を、狂児は自身を両隣を契約している。車の図体が大きく、万が一にもこすられないためだ。
 車を停めて、狂児が先に降りた。後部座席の傘を拾い、助手席を開けて聡実の頭上に広げてかざす。「はい、どうぞー」
 ダークグレーの裏生地をじっと見据えて、聡実は「ありがとうございます」と傘の内側に一歩踏み込んだ。ドアが閉まり、ピッと施錠の音が夜のしじまに高く響く。
 ふたりで並んで傘を共有し、アパートに足を向けて歩きだした。傘は大ぶりだが、体格のいい男ふたりが収まるには、やはりいささか狭い。
「聡実くん、もうちょっとこっち来んと濡れてまうよ」
 彼の右手で持たれた傘が、当たり前に聡実のほうに傾いだ。はみ出ていた肩が傘の内にしまわれ、代わりに狂児の左半身が雨に曝される範囲を広くする。
「こっち寄りすぎとちゃいます? 狂児さんめっちゃ降られてるやん。スーツ濡れてまう」
「俺はええねん。服なんか洗って乾かしたら元通りや。聡実くんのが大事やもん」
 いつかと同じセリフだ。異なるのは、向けられた熱のこもる視線と、語尾に続いた低い囁き。「守らしてよ」
 他の存在に対してどういう態度で構えているか、いたかは知らない。でもこと聡実に限定すれば、狂児は徹底してやさしく尽くす姿勢をとる。騎士、あるいは従者のように。やさしくて、健気だ。十四歳の夏から永遠に。自らを賭すような献身ぶりで、聡実だけを守る。血飛沫からも、雨からも。
 仰いだ先、夜を煮詰めた瞳のなかには、きらめく星屑に似た光が散りばめられている。いとおしいと言外で啄むような声音も。ぜんぶ、聡実にだけ、全身全霊のベクトルを向けている。
 守らせて、愛させて、好きで、そばにいさせて。狂児の一途は一方通行だ。聡実に見返りを求めない。自分の我儘を甘受してさえくれたら。口にはしないが、態度や振る舞いが、それが本心だと物語っている。延々と貢ぎ続けて、それで、聡実がもし狂児になんの感慨も抱かなくなっても、男はきっとずっと聡実だけにこころを傾け、嬉しそうにきらめいているのだろう。守れること、好きでいられること、愛せることを誇らしく喜んで。
 でもそんなん、僕は納得いかへんわ。聡実は対抗して狂児のからだを強引に抱き寄せた。自分を半歩傘から追いやって、肩にまた、冷たい滴の感触が降り注ぐ。
「聡実くん?」
 なにしてんねん、と再び傘をこちらに差し出そうとする腕を、「ええの」と聡実は制止した。
「ええねん。ほんまに」
 怪訝な彼を一蹴して、「はよ帰りましょ。お風呂入りたい」と立ち止まる足を急かさせる。なにか言いたげだった狂児は、それより雨夜から脱する方を優先して、黙って歩みを再開した。
 自己犠牲の愛など要らない。一方的でなく、相互に愛を交歓していたい。表立って見えにくいかもしれないが、聡実だって、狂児を身も世もないほどに愛している。この男がどう考えているかは知らないけれど、この先の未来、少なくとも聡実はもう二度と離れる気はない。彼に自分を手放させもしない。覚悟はとうにできている。このやさしく不器用な、夜を生きている男の、人生に寄り添っていくこと。
 なら、やはり守られるばかりではいたくない。狂児はやくざで、聡実はいまのところごく一般の男子大学生だ。ふたりの人生には二十五年の開きがあり、年若い自分にできることは、彼に比べればかなり少ない。それでも、どちらかひとりだけが庇護され、または災いを被るのはおかしい。納得がいかない。
 一緒に、肩を濡らしながら、隣にいたい。人生ごと寄り添って生きていきたい。狂児が聡実を守りたいように、聡実も狂児を出来得る限り守りたい。大事にしていたいのだ。たとえば、雨粒ひとつからでも。
 アパートまであと少し、傘は互いの中央で広がり、止まない雨がふたりの肩を同じ分だけ濡らしている。聡実は満足げに微笑んで、寄り添う男を伺う。聡実が濡れるのを気にかけて、でも聡実自身が望んだ以上は動けもせず、まんじりと落ち着かない、戸惑った雰囲気を発している。
 しゃあないなあ。だいぶ酔いが覚めたけれど、友人に狂児の話をした余韻か、まだ口が素直なままだ。あとで、一緒に風呂でも浸かりながら、教えてあげようと思う。
 ――僕はな、そうやって、狂児と愛し合う人生を送ってみたいねん。