初愛 / 狂聡

20201129

『今朝、✕✕の交差点付近で、暴力団組員同士の暴行事件が発生しました』
『傷害の罪で逮捕されたのは、指定暴力団祭林組の若頭補佐、成田狂児三十九歳――』
『相手の男は身元不明で全治三ヶ月の重傷を負って入院中ですが、薬物使用の痕跡があり、警察では現在――』
 合唱祭の出番には、当然間に合わなかった。途中から行く気にもなれず、聡実はスナックから真っ直ぐ家に帰った。先生、後輩の和田にはメッセージツールで謝罪を送り、夏休み明けに部員全員に説明する旨を伝えた。帰宅した母は潰れた声を聞いて事情を察したのか、腫れ物に触れるように気遣うばかりだ。覇気もなくぼんやりとする息子の姿を、ただただ痛ましそうに憐れんでいた。きっとたばこの匂いが、制服に染み付いていただろうに、なにも掘り下げてられなかったのは救いだった。
 そのニュースは、夕飯の最中に流れた。番組と番組の間に流れる、地方向けのトピックを報道する短いニュースコーナーだった。顔写真こそ出なかったが、事故現場の映像、世にふたりとしていないだろう名前のテロップが、今日のすべてをフラッシュバックさせる。もともとなかった食欲が更に失せて、よろよろと箸を置いた。青褪めながら、聡実はじっとテレビ画面を凝視した。思い出すのは、狂児との他愛ない会話群のなかの、ひとつだ。
 ――俺なあ、前科ないねん。
 なんの話の流れで聞いたのだったか。ああ、そうだ。カラオケ天国から帰る道すがら、すれ違うパトカーを見て、聡実がふと興味本位で訊いたのだ。「狂児さんは捕まったことあるんですか」と。狂児はおとなにしてはわりとなんでも素直に……素直すぎるくらいに教えてくれた。
「学生の頃までは結構真面目にやっとったしな。ヒモしとっても別に犯罪やないし。ヤクザしとっても、うまーくお仕事やっとるからね。運良く捕まらずにおるわ」
 でもなあ、ウチの組で前科ないの、俺だけやねんで、となぜか眉を下げていた。職業柄、マエがないのはよろしくないらしい。ヤクザとしての箔がないそうで、不可思議でケッタイな話だな、と思いながら聡実は聞いていた。悪いことをしてお金を稼ぐのだから、警察に見つからずにいるほうが、有能の証のように見えるけれど。
 ああ、そうか。とうとう前科がついてしまったのか。
「……ごめん。母さん、ごちそうさま」
 茶碗を片付けることすらかなわず、聡実はのろのろと自室の布団に潜り込んだ。真っ暗な部屋で、スマートフォンに指を滑らせて、先程のニュースの詳細を調べてみる。傷害罪はどのくらいの罪なのか。懲役何年、執行猶予何年、などと出てくる単語も、ウィンドウを複数開いて、ひとつひとつ検索をかける。震える指で、泣きたくなる瞳で、子どもが把握できる範囲のなかで、聡実は現実を咀嚼するための知識を蓄えた。思えば、大学を法学部に選んだのは、このときの衝動が基盤になっていたのかもしれない。法の仕組みがわからず、狂児がどのくらい刑務所にいるのか、どのように捕まるのか、どういった罪なのか、あのときなにが起こったのか、正確に理解したかった。
 あれは、罪悪感によるものだったのだろう。高校生になった聡実は、当時のあの衝動をそう反芻する。『宇宙人』が狂児を襲った理由は、恐らく――いや、ほぼ間違いなく自分にある。忠告されていたにも関わらず、前日にのこのこと狂児を訪ね、『宇宙人』に遭遇した聡実を、狂児は救ってくれた。本来なら振るわなくてもいい暴力、受けなくてもいい実刑判決だった。『宇宙人』は破門にされ、事務所の周囲をうろついていたとしても、危害がなければきっと放置される存在だったろう。聡実が引き金を引いた。聡実が狂児に『宇宙人』に手を出させ、結果彼は報復を受け、やり返して逮捕された。元を辿ればばかな自分が、狂児の言いつけを無視して足を運んだからだ。
 狂児からの連絡は、一切ない。そもそもスナックを離れるときも、逮捕されるなんて話は、誰の口のも上らなかった。あの場にいた男たちは、間違いなく悟っていただろうに。狂児だって、言ってくれなかった。きっともう、会う気がないのだろう。当たり前だ。二十五も下のガキを、彼が聞き惚れた声すら失った自分を、狂児が求める謂れがない。声は彼に捧げたので、無神経さに腹は立ったが、けれど仕方がないとも弁えていた。捧げろと命ぜられて捧げたわけではない。あれは聡実の意思で、勝手に狂児にあげたものだ。
 聡実も聡実でまた、狂児との関係の進退については考えあぐねていた。あの事故について調べるうち、少しずつヤクザや成田狂児の異常性や暴力性が、解像度を上げて明瞭に見えてきたからである。
 中学三年生の聡実にとって、ヤクザ、という職業は、まるで想像上の生き物だった。映画やドラマのなかに観るだけの、現実味のない存在だった。狂児は確かに威圧感があり、薄ら笑いにゾッとすることもあったが、聡実には穏やかで優しかった。テレビの向こうのヤクザみたいに、金属バッドを持って暴れたり、ひとを嬲って殺したりするシーンが、いまいち彼と結びつかなかった。けれど狂児も、普通の神経の人間ではないのだ。普通の人間は、アタッシュケースでひとを殴ることに躊躇いを覚えるし、血を手のひらで受けようとは考えない。車に指の一部も置かない。車で横っ面に突っ込まれて「腹が立った」からと言って、相手を運転席から引きずり出して「ボコボコ」にして、全治三ヶ月の怪我なんて負わせない。
 もう関わらんほうが、ええんやろな。どうせ会われへんし。向こうも会う気ないやろうし。僕とは住む世界が違うんやな。助手席の、「俺とは離れられへんくなる」呪いは、とっくに解けているのだ。……さようなら、狂児さん。そう結論づけた夜、聡実はその一晩だけ、喚き泣いた。悲しむつもりも泣くつもりなんてさらさらなかったのに、さようなら、と口にしたらもう、涙が止まらなかった。ああ想像していた以上に好きだったんだな、と恋心をはじめて自覚した。紛れもない、純然たる初恋だった。
 翌日、うっかり冷やし忘れて目を腫らしたまま登校した聡実に、同級生はこぞって事情を訊いてきた。素直に「失恋した」と話すと、慰めようとしてくれたのか、いろんな遊びに連れ出してくれた。ゲーセンや映画、スポーツアクティビティ。カラオケだけは断った。連れ回されるなかで出会った女子ふたりと、いつしか聡実は関係を持った。女子からの告白を受けるかたちで、付き合い始めた。聡実にも、応えてもいいと思えるくらいの好意はあったし、狂児を忘れるにはちょうどいいと思った。違う学校の、ふたつ年上で、彫りの深い顔立ちで黒髪のきれいな美人だった。一年の秋にひとり、二年の冬の終わりから春にかけてひとり。セックスもしてみたけれど、長くは続かず、どちらも数カ月の付き合いだった。聡実のなかから、どうしても成田狂児が出ていかなかったからだ。
 やっぱ、僕はもう狂児やないとあかんのか。ふたり目の先輩からフラれて、もうそう思わずにいられなかった。思い返せば、ふたりともに、明らかに狂児の面影を追いかけている。濃い面立ち、女の子にしては低い声、年上、ふたりに共通する要素を指折り上げていくごとに愕然とする。なんやそれ。僕一生独り身やん。十六にして。責任取れや狂児のアホ。腹立たしいやら清々しいやら、ちょっと笑って、それからまた、一晩中泣いた。
 だってもう会えないのに。きっともう出所が近いだろうが、一向に連絡はない。どこの刑務所なのか、ほんとうにおとなしく収監されているのか、保釈金でとっくに釈放されているのか、はたまた死んだのか、どこでなにをしているのか、わからない。

 ――と、聡実にしては相当思い詰めていたのに、狂児はしれっと姿を現した。三年半前とは違い、熱を孕んだ視線で見つめてくるし、距離の縮め方が強引で急だ。なんやねんこいつ。僕の気も知らんと腹立つ。三年半も放っておかれた憤怒は、全身に回る前に、とんとんと肩をつつく指先で……「ほんまは会いたかったよ、すごく」という一言で、渋々宥められていく。触れられて、声が聞けて、たまらなくなる。
 極めつけは腕の『聡実』だ。驚き、喜び、怒り、恥ずかしさ、体温は上がりこころはぐちゃぐちゃだったが、頭は状況を冷静に判断していた。
 僕、口説かれてるんやな、これは。狂児も同じ気持ちを、長く燻らせていたのだろうか。名前を彫ってくるなど、ヤクザはやっぱりよくわからない。常人では考えられない告白の仕方だ。「カラオケ行こ!」と何度も聞いた誘い文句が、いやに甘ったるく聞こえるのは、絶対に気のせいではない。
 だから、ついていった。誘いに乗ったのだ。三年半の苦しみを鑑みれば、素直に「僕も好き」だなんて頷くのは癪だった。「またか」と呆れた態度を見せたけれど、手を取ったのだから、互いの意思と認識の疎通はできていると、そう思っていた。

 ◆◇◆

「で、聡実くん、合コンはもう行ったん?」
 大学の講義終わり、狂児とは最寄り駅で待ち合わせ、ふたりは中華料理店を訪れた。再会して三ヶ月ほど経ち、季節は夏に向かい日毎気温を増していく。相変わらず質のいいブラックスーツを着込んだ狂児は、流石に暑かったのか、店内で席に着くとジャケットを脱いだ。奥まった席を取ったのもあるだろう、刺青が見えない程度に腕まくりをして、中央に置かれたエビチリを取り皿に分けている。
 狂児はなにやら重要な仕事を任されているらしく、東京へは月に一、二度出張予定があると言う。夜は時間の融通が効くようで、こうして夕飯をともにする機会が増えた。狂児としては味が確かな銀座や六本木のレストランに連れていきたいようだが、聡実が断固拒んでいる。そんな肩が凝る場所で食事したって、腹に溜まらないし味も楽しめなさそうだ。十代の自分にはまだ早いので、せめて二十歳になるまでは、自分の舌と腹具合に合わせてほしい、と頼んであった。
「またその話ですか。何回訊くねん」聡実はあからさまにうんざりと眉を顰めた。
「やって気になるやん。聡実くんの大学デビュー」
「デビューもなにもしてませんて。合コンにも行ってません」
 ええ、と困り顔の狂児に、聡実はますます眉間のシワを深くした。
 顔を合わせるたび、この男はまるで挨拶のように同じ質問を繰り返す。合コンに行ったか、彼女はできたか。聡実が首を振ると、いまのように困惑を見せて理由を追求してくるのだ。なぜだ、折角なんだから行けばいい、自分は大学に行ったことはないけれど遊ぶならいまのうちだ、などペラペラと講釈を後ろに連ねながら。
「聡実くん背ぇも伸びたしエエ声なったし、ようモテる思うんやけどなあ」
 正直、気分は良くない。浮気調査かなにかのつもりだろうか。はじめのうちは適当に聞き流して返していたが、会うたびに訊かれると流石に癇に障る。そんなに合コンに行ってほしいのだろうか。女と関係を持ってほしいのだろうか。だから、なにも触れてこないのだろうか。レンゲを握る指が力み、きゅっと陶器の上で音が鳴る。
 狂児と再会して三ヶ月、自分たちの逢瀬は食事と一回のカラオケだけだ。彼の東京の自宅にも、自分の家にも行っていないし、恋人らしいふれあいもなにもない。あの熱烈な告白はなんだったのかと思うほど、狂児は淡泊で、なんのアクションも起こさなかった。待っているばかりではいけないと聡実も思うのだが、毎度向けられるこの質問群に、二の足を踏んでしまっている。なに考えてんねんやろこのおっさんは。思い返していたら、ふつふつと煮えていた苛立ちが噴き上がってくる。
 胡乱げに狂児を睨み上げ、聡実はレンゲを皿に戻した。
「あの。なんなんですか?」
「え?」
「僕にどうしてほしいんや。そんなしつこく訊いてきて。言うときますけど僕、女の子とヤったことありますよ」
 声もなく、狂児の目が膨らむ。ふんと鼻を鳴らして、聡実は続ける。
「ちなみに合コンはほぼ誘われません。一昨日誘われましたけど行きません。僕大学で彼氏おること公言してるんで」
「彼氏」オウム返しする狂児の声が、急に剣呑になる。「彼氏って誰や」
 はあ? 聡実はいよいよ怒りを顕にした。「狂児のことやろ。他に誰がおんねん」
 途端、険しくなっていた向かいの表情が、ぱっと解けた。目を真ん丸にして口が呆けるように開き、手から箸がぱらぱらと落ちていく。
「――え、俺?」
 あれ。
 聡実もつられて口を閉じ、狂児の様子を凝視した。なぜそんなに素で驚いているのか。うん、と頷き返すも、狂児は動揺を隠さず、「俺が……?」と困惑したように眉を下げている。もしかして。
「ちゃうの……?」

 勘違いだった?
 自分たちは、付き合ってなんかいなかった?

 あ、と聡実は小さく声をこぼした。血の気が急激に下がり、どっと汗が吹き出た、そこまでの感覚は残っている。――以降はほぼ記憶が抜けていて、気付いたら帰宅して布団に身を埋めていた。枕元に放られていたスマートフォンは数十件の着信を瞬かせていて、すべてひとりの男からだ。『さとみくんどこ』『ごめん』『どこにおんねん』『いえか?』不在着信の間に、同じようなメッセージが、やはり数十件挟まっている。絵文字の装飾も変換もされておらず、相当な焦燥が伺えた。家まで来られたらかなわないと、聡実は一言『きたら縁切る』とだけ返して電源を落とした。できもしないのに。
 再びスマートフォンを投げ捨てた。ゴンと床が鈍い音を立てる。聡実は深く溜息を吐き、目元を腕で隠した。燃えているように、眼窩が熱い。けれど涙が一粒も出てこなくて、代わりに震える喉の奥から、くつくつと低い笑い声が盛り上がる。そうか。
「僕、狂児の彼氏とちゃうかったんやな」
 じゃあいったいなんなのだろう。ともだちか。いや、ともだちの名前など腕に彫るだろうか。いくらヤクザが一般常識外の生き物だとしても、友情程度で、少し布を捲ったら見えてしまうような特等席に。いつもいつも、逃さないためなのか、隣に座ると背もたれに腕を回して囲われた。下手すると身を寄せられ、触れるか触れないかの距離まで詰めてきた。触れなくたって、体熱が伝播する絶妙な距離感だった。昔も、いまも、空港で再会したときですら。
 恋人でないとしたら、あのとき注がれた台詞は、じゃあ告白ではなくて、なんだったのだろう。二十五年の経験値差のなかに、答えはあるのだろうか。
「またや……もう何度も同じ相手にしたないわ……」失恋なんて、ひとりに一回で充分だろう。聡実は痛む胸を押さえて身を丸めた。あんなの告白以外のなにものでもないと嬉しくなって、だから封していた片恋を復活させたのに。腹が立つ。心底腹が立って、それから寂しい。
 ああ、でも、自分もはっきりと「好きだ」とは言わなかった。「付き合うて」とも口にしなかった。それがいけなかったのだろうか。言わなくたって、あのやり取りで成立したものだと思い込んでいたから。
 狂児のアホ、とぼやく涙まじりの声は、夜のしじまにいやにしつこく響いた。

 ◆◇◆

 高校時代と比べて成長した点は、泣いたあとにしっかり目元を冷やす手当ができたことぐらいだ。気分の切り替えも、嗚咽で掠れた声のメンテナンスも手付かずで、案の定友人にはすぐに異変を察知された。はじめは適当にごまかしていたけれど、心配性のきらいのある友人は、なんども様子を伺ってくる。
「そんなにおかしなっとる? 僕」昼休憩の食堂でも訊かれ、聡実はとうとう観念して反応した。友人、笹野は深く頷き、「顔色悪いよ」と続けた。
「元気ないし。岡、講義中もずーっとよそ向いてたじゃん。ぜんぜん聞いてなかっただろ」
「どんだけ見とんねん」
「だって岡がそんなふうなのはじめて見たから。体調悪い? 風邪でも引いたのか」
 笹野は同期入学だが浪人しているため、ふたつ歳が上になる。五人兄弟の長男で、なんでも聡実は真ん中の弟に背格好がよく似ているらしく、つい構いたくなってしまうそうだ。世話焼きの性質が疎ましいときもあるが、気のいい男ではあるので、新歓で知り合って以来、いちばん仲が良い友人である。
「体調はなんも悪ないよ」聡実はうどんの丼ぶりに箸を転がし、深く溜息を吐いた。「フラれてん。昨日」
「えっ。あの、大阪から通ってくるってひとに?」
「うん。フラれたて言うか、なんや付き合っとったんも僕の勘違いやったって言うか」
「なんだそれ」
 カレーをすくう手を止め、笹野が厳しく眉を顰める。聡実は烏龍茶のストローを噛んだ。グラスも持たず、ずずっと吸い上げる。行儀が悪い自覚はある。ひとがいるのに……狂児の前以外ではこんな横着しないのだが、もうどうでも良く、自棄糞だった。
 今朝スマートフォンの電源を入れたら、留守電にいくつかメッセージが吹き込まれていたが、すべて消した。それからいまに至るまで、ひとまず狂児からの着信は一切止んでいる。彼も暇ではないので、稼業に勤しんでいるのだろうが、聡実はむしゃくしゃして落ち着かず、狂児とのトークルームを非表示にした。どうせ新着メッセージが届いたら強制的に可視化される。無駄な足掻きだ。やるなら完全に断ってしまうべきだ。けれど着信拒否やブロックは、どうしてもできなかった。
「やから元気ないねん。でもほっといたらそのうち元に戻るから、気遣わんでええよ。ごめん」
「岡ぁ……」
「そんな泣きそうな顔せんでよ。今日だけやから、だいじょうぶやで。こういうの慣れてんねん」
 なにせ同じ相手に二度目の失恋である。今日一日どん底で悲しんでおけば、明日からのやり過ごし方は、もうなんとなくコツを掴んでいる。笹野はけれど、スプーンを置いて腕を組み、考え込んでいる。ううんと唸った末、手を打って前のめりになった。
「なら、合コン来るか?」
「は?」
「おまえがこないだ断ってきたやつ。まだひとり分空いてるんだよ。俺奢るしさ」と言いながら、スマートフォンを出してすいすいと指を滑らせている。聡実は目を丸くして、慌てて引き止めた。
「えっなんでそうなるん」
「失恋の傷癒やすのは新しい出会いがいちばんだって。合コンっていうか、女の子交えた飲み会みたいなもんだし。あとドンちゃん騒ぎしてたら、ちょっとは気分紛れるかもしんないだろ」
 そんな恋愛脳みたいな理屈が通るか。そもそもその手段は、高校のときに一回失敗しているのに。ああでも、今回と前回とでは状況が違うのか。想像上と違い、今回は完全なる失恋なわけだから、強制的にでも狂児から離れなくてはならない。ひとりでうだうだと考え込むより、騒がしさに身を置いたほうが、確かに気分転換にはなるかもしれない。笹野が奢ってくれるなら、こちらの金銭的負担もゼロだ。試してみても、いいだろう。無駄であっても。
「……んなら、行こかな。いつやったっけ」
 聡実はゆるく笑って、自身のスマートフォンのカレンダーアプリを起動させた。

 キャンパスの最寄り駅近辺は、居酒屋の激戦区だ。そのうちの一軒に、個室が多く、比較的安価でうまいチェーン店があり、大学内の飲み会はよくそこを使っている。今回は男女各六人とまあまあな大所帯で、店の奥にあるいちばん広い個室に案内された。
 最初の飲み物を頼んでいると、テーブルの上でスマートフォンが一鳴りした。気なしに開いて、聡実は出かかった舌打ちをなんとか呑み込む。……狂児だった。たった一言、『今日行ってもええ?』と届いている。一旦画面とカバーと閉じ、深呼吸をして、淡々と打ち返した。
『今日は合コンなので会えません。』
『狂児さん念願ですよ。嬉しいやろ。』
 見返しもせずに送信して、サイレントモードにしてバックパックに突っ込んだ。
 自己紹介から始まり、合コンは恙無く進んでいく。女子たちは笹野の高校時代の友人経由で集められたようで、みんなふたつ年上だった。大学生や専門学生、既に社会人のひともいてまちまちだ。けれど琴線に引っかかる子はおらず、聡実はタダ飯食らいに集中していた。
「岡くん、未成年なんだっけ」
 隣に移動してきた女子が、グラスを覗き込んでくる。
「はい」
「飲んだことないの?」
「ないです」
「いまどき珍しいね。飲んじゃえばいいのに」
 女子はカクテルを傾けながら、密やかに距離を詰めてきた。触れるか触れないかの絶妙な間隔は、けれど鼻先にやわらかい香りをくすぐらせる。薄茶の肩までの髪は軽く巻かれていて、動くたびにふわふわと揺れている。からだにフィットした黒地のトップスが、しなだれるような座り方のせいもあり、胸部の膨らみを強調してくる。
 あからさまやなあ。聡実は一瞥だけして、すぐに正面に目を向き直した。
「そう慌てて飲みたいと思えへんし、ちゃんと二十歳になってからでええです」
「真面目だねえ。かわいい。岡くん、顔もかわいいけど、性格もかわいいね」
「はあ」甘ったるく甲高い声。苦笑いで返して、「グラス空ですけど、なんか頼みますか?」とドリンクメニューを渡して話題をずらした。
 頭のなかで、違和感がずっと唸っている。ちがう。こんなフルーツじみた甘ったるい香水ではなく、スパイスがかった安心する匂いが嗅ぎたい。たばこの煙たさも混じった、ある男特有のものが。声もだ。かしましい、鼓膜を突き破るような高さより、肌の内側にじいんと響き渡る低い声がいい。物音を立てがちなやかましい身動きに反して、案外声はおとなしかった。
 それに、それに狂児は、法律に則って、絶対に自分に酒を呑ませようとしなかった。彼自身が下戸なのもあるが、酒類を提供する店に行っても、しつこく「聡実くんは未成年やから、ここから選び」とノンアルコールのメニューを指した。お酒は二十歳になってからネ、と聡実よりもずっと気にして、妙な調子をつけて、歌うように繰り返した。
 ヤクザのほうが真面目ってどういうことやねん。笑ってしまいそうになって、聡実はぐっと頬を噛んだ。高校のときより、ひどくなっている気がする。ストローを噛み、ずるずるとオレンジジュースを啜る。ここにいる誰と付き合ったって、きっと五感が違和感で苦しい。高校時代のようにはもうできない。
 深い溜息がまろびでて、聡実はもう観念した。あかんわ。しつこいな狂児。大体その気もないのに、代わりとして付き合うなんて、女性に失礼な話だった。自然と昇華できるまで、もう待つしかない。いつまでかかるかわからないけれど。

 一次会を終え、聡実たちは店を出てエレベーターに乗った。エレベーターはビルにしては小さく、二手に分かれて乗り込んでいく。聡実は第二陣だった。金曜であることもあり、全員、このまま二次会のカラオケに移行するらしい。笹野はその分も奢ってくれるようだったが、聡実は帰ることにした。返事を保留にしていたので、移動する前に伝えなくてはならない。
 エレベーターが一階につき、エントランスを抜けて外に出たすぐのところ、たむろするかたまりに、笹野を見つけた。笹野、そう呼ぼうとした声が、――背後から腕を掴まれたことで、ぐっとつっかえた。
「聡実くん、おった」
 目が膨らみ、急激に体温と血圧が上昇する。聡実は足を止めて振り向いた。
 狂児は、汗だくだった。普段乱れなく整えられている髪はぐしゃぐしゃにほつれて、前髪は半分ほど垂れ落ちていた。ぜえぜえと肩がせわしなく上下して、曲げた膝に手をついている。ネクタイはだらしなく緩み、ジャケットは小脇に抱えられ、適当に捲った袖口から刺青が見え隠れしている。笹野たちがぎょっと目を剥いているのが、気配でわかった。
「な、なにしてるんですか。ていうかなんでここがわかったんですか」
「前に、教えてくれた、やんか。大学の飲みでよう使うて」
「やからって」
「ここにおらんかったら、こっちの若いモンつこて、このへん全域捜索張るつもりやったから、大事にならんくてよかったわ。はは」
 はは、ちゃうやろ。言い返したいのに、聡実の腕を捉える握力が、異様に熱くて口が開かない。「あかん、くそ、たばこと歳のせいや、全力疾走めっちゃえらい」と脇腹を押さえて悪態をつく狂児は、深呼吸と咳払いで強制的に息を整え、聡実に向き直った。
「なあ。聡実くん、合コン、行くの」
「……いま、一次会終わったとこですけど」
「あかん。行くな」
「行くなって。狂児さんにそんなん命令される筋合いない」
 聡実は腕をほどこうともがいた。けれどちっとも緩まない。この馬鹿力め。
 その上、狂児はとんでもないことを言ってのけたのだ。
「やって俺聡実くんの彼氏なんやろ」
「……はあ?」
 頭に上った血で膨らんだ血管が、ぶちっと音を立てたのがよく聞こえた。聡実は大きく舌打ちして、声を張り上げた。
「自分で否定しといてなんやねんそれ。おまえなんか彼氏とちゃうわボケ! 今更なに言うてんねん!」
「否定なんかしてへんやん」
「したやんか! えって驚いとったやろ! ほんまに僕と付き合うとったら驚きもせんやろが!」
「驚いただけで否定はしてへん」
「意味わからん、脈絡おかしいやろ、ちゃんと筋通して話せや!」
 そもそもあれから二週間も経っている。その間、狂児からは一切の音沙汰がなかった。聡実は放置されていたのだ。それを今更、急に来てその言い分はおかしいだろう。
「腕離してください。僕いまから二次会行くねん」
「嫌や。離さへんし二次会なんか行かせへん」
「離せって」
「嫌やって言うとるねんて」狂児がぐっと腕を引っ張ってきた。咄嗟のことで踏ん張りきれず、聡実のからだは狂児の胸元にぶつかった。骨が軋みそうなほどに抱きすくめられて、もがいてもびくともしない。やがて「俺の話、聞いてくれ」と耳元で囁く声が、聴覚から心臓に伝わって、全身に伝導する。びくっと聡実は肩を揺らし、ひとまず抵抗を収めた。「ありがとね」と狂児は低く礼を言って、独白を続けた。
「空港で、刺青見したん、告白のつもりやってん」”好き”や”愛してる”は言わなかったが、いや、言えなかったが、充分伝わると思っていた、と狂児は述懐した。聡実は頷いた。ちゃんと正しく受け取っていた。だからついていったのだ。自分も同じ気持ちだったから。けれど狂児は、その返答を受け取り損ねていたようだった。
「聡実くん、ぜんぜん変われへんし。引っ越しの片付けあるから言うてカラオケ終わったらさっさと帰ってまうし。伝わってんのかわからんくなって、あああかんかったんかて思たら、急にやる気萎んで」もう一度告白を繰り返すことすらできなかった。なのに聡実に自分以外の誰かが想いを寄せることすらも許せず、恐れて、狂児は会うたび確かめるようになった。彼女はできたのか、合コンには行くのか。訊きながら、頭のなかでは常に、否の返事を期待して、期待通りの解答を得て、安心していた。
「一回で諦めるなや」
「しゃあないやろ。はじめてやったんや」
 狂児にとって、四十三年の人生で初の、一世一代の愛の告白であったそうだ。
 いままで、好かれるばかりの人生だった。男女問わずから愛を向けられ、自分はただ受け取って、適当に甘いふりや口説き文句を口にして、どちらかが飽きるまで相手していれば良かった。
 聡実に対しての感情は、はじめての、執着を孕んだ身を焦がすような恋愛だった。『紅』と少年期最期の声を捧げられ、彼の愛を一身に浴びて目覚めた愛だった。けれどその愛が、果たして自分と同じかたちをしているかどうか、そもそも受け取っていいものなのか、考えているうちにわからなくなった。ヤクザの稼業、親子ほどの年齢差、聡実の本心、様々な事柄が狂児の口を重くしていく。迷いに迷って、服役を経て、空港で再会したときに覚悟を決めた。あの子の愛は、もう俺のもんにする。けれどそれを伝える術が、狂児のなかにはなかった。四十数年生きておきながら、恋愛における告白の経験がなかったのだ。”好き”や”愛してる”とストレートな言葉を使う勇気はなく、結局おっかなびっくりしながら、『聡実』の刺青を見せた。あれは狂児なりの、愛の捧げ方だった。
 聡実はどん、と強めに狂児の胸元を殴った。「……ちゃんと受け取っとったのに。狂児のアホ」
「うん。やから、びっくりしてん。びっくりしすぎて素っ気なくなってしもて、もうほんま……なにやってんねやろな俺は」
 はあ、と吐かれる溜息は重々しい。告解が途切れたところで、「岡、」と恐る恐る笹野が声をかけてきた。ああそうだ。ここは繁華街の道端、二次会に合流する直前だった。
 自覚したら、集まる視線の数々が、服越しに皮膚に突き刺さってくる。聡実は迫いた。
「ごめん、今日僕行かれへんくなった。復縁したしこのまま帰るわ」
 笹野の目が真ん丸になった。しばらく呆気にとられてから、「わかった」と軽く手を挙げて、他のメンツを引き連れて二次会に向かっていった。とんでもないシーンを見せつけてしまった。月曜にでも、彼にだけは説明しておかなければならないだろう。でも、その前に。
「狂児さん、離して」
「……行くんか。俺を置いて」
「行けへんよ。いま断ったの聞いとったやろ。苦しいねん。締めすぎやで」
 少しだけ腕のちからが和らいだ。いや、そうではなくて。聡実は二の腕をとんとんと宥め、「狂児、離して。僕狂児の顔見たい」と訴える。やっとのことで抱擁がほどけ、顕になった狂児の顔は……よるべない迷子のようだった。いつもの薄笑いもなく、よくしゃべるくちびるはむっと閉じられて、鋭い目つきが仄かに下がっている。
「はは、なんちゅー顔しとんねん」聡実は思わず小さく笑ってしまった。
「しゃあないやろ。もう見んといて……恥ずかしいわ」
「嫌や。狂児さんのそんな顔、二度と見れんもん」
「見んでええよ」
「見る。目に焼き付けといたる」
 あのな、と聡実は続けた。言語化しなければ伝わらないと学んだから、真っ直ぐ笑みをしまって、見つめて、声に載せる。「勝手に彫られたもんやけど、右腕に僕の名前あんねんから、狂児は僕の、一生モンの大事やねんで。それ忘れんで」
「聡実くん」
「もう決めてんねん僕は。狂児のこと。四年も前に。『紅』うとたときから、その、……愛してんねん」
 途端、再び狂児の腕のなかに閉じ込められた。ううっ、と呻いたのに、ちっとも力加減してくれない。息苦しく暑苦しくて、香水とたばこの煙たいにおいが、嗅覚に充満する。さとみ、とうわ言のように呼ぶ声は、必死に縋るように甘ったるく鼓膜に響き、続けて「キスしたい」と訴えてくる。
「嫌やて」
「聡実くん。あー俺もうあかん。めっちゃキスしたい。ええやん」
「よくないわ」
「なんでや。俺のこと愛してんねやろ」抱擁がほどけて、眼鏡を奪われた。熱のこもった視線が、なんの遮りもなしにぶつかってくる。調子にのんな、と睨み返すも、聡実はふっと笑ってしまう。そう。だからキスがしたくないとは言っていない。でもこんなところでは、落ち着いてできないし、したくないから。
「うち来て」
 それから、ふたりのいびつな初愛を、結んで重ねる夜をはじめたいのだ。