愛とソプラノ / 狂聡

20201115

 狂児は実際、別に歌が下手なわけではない。むしろかなりうまいほうだ、と聡実は捉えている。十四の夏、練習に付き合うなかで、何度か高得点を叩き出したことがあった。あの採点システムは、審査が精密で手厳しいと有名である。まぐれで得られる点数ではなかった。もともとリズムの勘はいいし、きちんと音程を正しく合わせられる。純粋にうまいのだ。でなければ、いくら声に合った曲であっても、98点も採れるはずがない。姿勢と、選曲さえなんとかすれば、歌ヘタ王の候補者にすら挙がらないだろう。
 狂児は平均よりぐっと声が低く、おそらくひとより扱える音域が狭いのだと思う。高音域を存分にちりばめさせた『紅』は、まさに狂児の声質とは真反対にある曲と言えた。逆にそんな的はずれな歌で、よく長いこと勝負して、歌ヘタ王を免れていたものだ。結局、今年はとうとう落っこちてしまったようだが。
「電車やないんですね」
 偶然にも――ほんとうに偶然かは定かではないが、そう思っておかないと少々怖い――行き先も便も同じだった。流石に席は離れていたので、羽田に着陸したのち、荷物の受け取り場で待ち合わせた。狂児は手荷物だけだったが、聡実はキャリーケースをひとつ預けている。
 だらだらと流れてくる荷物たちを眺めていると、「聡実くんのはどんなやつなん」と訊かれた。答えた特徴で、狂児は素早く正しく聡実の荷物を選び取った。自分の荷物くらい、自分で持てる。奪おうとしても渡してくれず、「ええから行こ」と先を急いでしまう。なんやねん。僕は女の子とちゃうけど。喉まで迫り上がった文句は、浮かれている背中に免じて、堪えて呑み込むことにした。
「東京で車なんて、乗りにくいとちゃいますか」
 到着ロビーを抜けたその足で、ふたりは狂児が予約したレンタカーの受け取りに来ていた。選択肢は車種だけで、車体色は店舗次第だそうだ。今回用意された五人乗りのセダンは、まばゆいシルバーカラーを施されている。黒塗りですらない。狂児と並ぶ姿に、強烈な違和感があった。
「電車あんま好きやないねん。目の前につり革ぶらぶらすんのも邪魔やし……あとこう、視線がうっとい。もう十年単位で乗ってないわ」
 俺そんな目立つやろか、と運転席の位置を調節しながら、狂児がぼやく。
 自覚がないほうが驚きだ。聡実は素直に頷いた。
「目立ちますね。見るからにヤクザやし」雰囲気が明らかに一般人とはかけ離れて異質だ。ヤクザたる所以なのか、笑っていても真顔でも、どこか血生臭い危険な匂いが、彼からは発せられている。ごく普通の生活では、まずお目にかかれないし、纏えない匂いだ。あとは純粋に、容姿のせいだろう。平均よりずっと高背な上、案外スレンダーで腰の位置が高い。そのからだに乗っかる顔も彫りが深くて整い、濃厚な印象を与え、一瞥しただけで強い圧を覚える。目を惹く要素は、過分にあった。
 口もうまいし、昔ヒモやってたん、いまならようわかるわ。聡実は外に投げていた視線を、ハンドルを握る男へ流す。端正な面立ちを見て、それから僅かに視界を下げ、いまは見えない右半身を睨めつけた。
「また『紅』歌うたんですか。あれほどあかん言うたのに」
「ごめんなあ。バッタバッタして練習する時間まったくあれへんかってん。聡実くんが教えてくれたやつまだ覚えきっとらんし、安全牌でいったらこのザマや」
 あんなキモい『紅』、ちっとも安全牌とちゃうわアホ。聡実は訝しげに溜息混じりに問うた。「三年も前に渡してんのに? 継続せんかったんですか」
「すんません。間ぁ空けたらすっかり忘れてしもて……できの悪い生徒でごめんなさい」
 前を向いたまま、さして謝意のこもらない懺悔を口にする狂児を、聡実は凝視する。二十五の年齢差は、こういうときに厄介だと思った。聡実を幼子のように扱い、狂児は本心を貼り付けた外面にひた隠す。そんなこと、許さない。聡実は瞬きすら惜しみ、見据えることで狂児に無言で訴えた。言い訳の真偽を問うように、……外面の下に潜めるものを、引きずりだすように。
「なあに聡実くん、ボクの顔になんかついてる?」しばらく茶化して視線をいなした狂児は、やがて数分の間を置いて、薄ら笑いを困ったような苦笑いに変えた。
「おおきなお目々の前で、隠しごとはできませんなあ」
 からかいと諦めを孕んだ、普段よりも低く落とされた声が、小さくこぼす。――ほんまは、背中押してもらおう思てん。
「背中?」
「そ。背中」
 それまでスムーズに走っていた車は、赤信号によりゆるゆるとスピードを落としていく。狂児は助手席に腕を回して、身を乗り出し、極端に距離を詰め、聡実に向き直る。「ほんまはすごく会いたかったって、さっき言うたやろ。ほんまのほんまに会いたかってん。でもなあ」
 踏ん切りがつかなかった、と狂児は独りごちた。これ以上の付き合いを求めるには、躊躇があった。だから、”あの日”を自分の頭に刻み込むために『紅』を選んだ。いままでと違い、組長のなかには聡実の『紅』が生きている。更にたいして練習もせず挑んだので、いつも以上に声量が出なくて裏声ですら掠れた。ひどいものだった。自分で聽いていて、笑えてくるくらいに下手だった。当然、他組員とは比べ物にならないほどの高加点が入った。
 ああ、これはアカンなあ。へったくそな刺青彫られてしまうわ。『紅』が歌いたかっただけだったはずが、組長の評価に満足気に笑ってしまう自分がいた。敢えなく、いや、ある意味で故意に、狂児は歌ヘタ王の座を得た。刻んでもらうものは、三年前にとっくに決めていた。
 狂児の告白を、聡実は真正面から受けている。ちゃんとごまかさずに答えてくれたのは、素直に嬉しかった。では、なぜ踏ん切りがつかなかったのか。
「僕がガキで、狂児さんがヤクザやから?」
「こら、ガキってお口が悪いで」
「ヤクザに言われたないわ」
 もー、と腕をもとに戻し、狂児はハンドルを握り直した。信号が青に切り替わり、アイドリングストップが解除されて、小さくエンジンがかかった。車列に倣って徐々に動きだし、外の景色は少しずつ流れを早めている。
「立場もまあ、気にはなったけど、それよか……あんな大層なもん貰っといて、三年もほっぽった薄情な俺を、聡実くんは忘れてしもてるかもしれんかったやろ」
「はあ」
「怖かってん。ははは」
 なんやねんそれ。聡実はいよいよ呆れ返って、思いきり顔を顰めた。想像以上にばかげた理由だ。あほらし。しょーもな。忘れるわけないやろ。忘れられるか。僕の卒業文集、いますぐこいつに見せたりたいわ。
「ヤクザも案外ビビリなんですね。肝っ玉ちっさ」
「いやんきっつ! グサッと来るわー!」と狂児はふざけて心臓を押さえて苦しみ、「でもまあ、はじめてのカチコミより緊張しましたよ。ヤクザもひとの子やもん」
 かわいこぶるな。聡実は眉間の皺を深めた。
「安心してください。死んでも忘れません。僕、アンタになに捧げた思うてんねん」
 人生を賭したと言っても過言ではなかった。中学時代、聡実がどれほど合唱に、自他ともに評価されたうつくしい声に熱を込めていたか。変声期に入り、失うことをおそれるばかりに感情の揺らぎが制御できず、周りに当たり散らした。いま思いだしても羞恥心が煮える過去だ。自分が自分でなくなるような喪失感と絶望が、ずっと胸のなかに巣食っていた。聡実はあのソプラノに執着し、依存していたのだ。
 いっそこのまま、歌わずに喋らずに黙って生きて、死ぬときまで取っておきたかった。そうして大事に大事にしていた人生一の宝物、最期の一声を、聡実は狂児のために全力で使い、果てさせた。自分の意思でそうした。並大抵の覚悟では足りなかった。
 聡実は頬や耳朶に上る熱と、昂ぶる拍動をいなすように、深呼吸を挟み、心がけて淡々と告げる。
「三年ぽっちで忘れるような薄っぺらいもんなら、あそこで人生つこて歌ってないわ」
 あのときの激情、決心の根幹にあるものを、当時は自分の気持ちながら、うまく呑み込めなかった。けれど、いまはもう十二分に咀嚼できている。なにせ十代の三年は途方もなく長い。自分の内側と対峙し、熟考するには充分すぎる時間があった。
 死んで二度と会えないかもしれない男への感情を切り開くのは、いささかつらいときもあったが、結果としておもしろかったし、やっておいて良かったと聡実は振り返る。こうして再会できたし、自分にも意外に感情的で情熱的な部分があると学んだ。
 狂児は生きていた。香水とたばこが入り混じった彼の匂いと、皮膚越しに伝わる体熱。空港で突然現れたときは夢のような心地が抜けなかったが、いまは現実のものであると正しく五感が拾い上げて、思い知らせてくれる。
 狂児、とうるさくない程度に声を張る。あの頃のソプラノのようにはいかないが、よく通って真摯な、これはこれできれいな声やろ、と聡実は自負している。
「僕はもうとっくに覚悟できとったで」
 おまえを愛して生きていく覚悟が。
 眼鏡の向こう、視界が僅かに波打っているように見える。じいっと睨むように見つめる瞳は、もしかしたら少し潤んでいるのかもしれなかった。
 受け止めた狂児は二、三度瞬いて、へらりと鋭い双眸を緩め、弧を描かせている。「そぉか」と返る声は静かだったが、「遠距離恋愛やね」と茶化して頬を撫でてくる肌と声色は、ひどくしつこく熱っぽかった。